虎の語原と耽羅國
- 岡田希雄
- 『ドルメン』2(10); 18-23 (1933)
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私は虎の語原について、あさはかな、たわいもない妄説を、おほけなくも物して、本誌に呈出し、第一囘の校正刷を見たのであるが、其の直ぐ後から、自説を取り消すのがよいと考へるやうに成つた。其れは新村博士の御説を伺ひ、自分の妄説の取るに足らぬ事を、認識したからである。
私は七月六日、新村先生に御目にかゝり、私が虎の語原について一文を草した事を申し上げたところ、先生も此の前の虎年、即ち大正十五年(昭和元年)の年頭に、某新聞へ出すために、虎の語原についてお書きに成つたのだが、都合あつて未掲載に終り、其の後は、單行本にも收載なさらなかつた由にて、其の御説は「虎は日本の産で無いから、外國に關係したものであらう。外國から渡來した鳥獸物品に、其の地の名を與へる例は、カナリヤ島のカナリヤの如くに存する。若しかすると、耽羅の國より來た獸であるからと云ふので、トラと云ふ名を與へたのであるまいか」と云ふのであつたが私は單にこれだけ承つただけで、御説に敬服すると同時に、直ぐに愚案の取るに足らざるを知り、實に冷汗を感じ、あゝ云ふ愚文を載せて頂く事を濟まなく思つたので、お詫びとして、先生の高説を紹介・敷衍・祖述させて頂く事とする。
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さて耽羅と云ふのは、朝鮮半島南部の大島濟州島の事であり、我が國とは、一時かなりの交渉があつて、文獻には屡々見えて居るのである。即ち日本書紀について云へば左の如くである。
- 繼體紀二年十二月。南海中耽羅人初通㆓百濟國㆒(○希云、半島側の記録では、ずつと早くて、文周王二年とありて一致せない)
- 齊明紀七年五月。耽羅始遣㆓王子阿波伎等㆒貢獻(紀所引
伊吉博得 書に「耽羅入朝始㆓於此時㆒」とあり) - 天智紀四年秋八月。 耽羅遣㆑使來朝。
- 同 五年春正月。 耽羅遣㆓王子始如等㆒貢獻。
- 同 六年三月。 耽羅遣㆓佐平椽磨等㆒貢獻。
- 同 八年三月。 耽羅遣㆓王子久麻伎等㆒貢獻……賜㆓耽羅王五穀種㆒、是日、王子久麻伎等罷歸。
- 天武紀二年閏六月。 耽羅遣㆓王子久麻藝・都羅・字麻等㆒朝貢。
- 同 四年六月。 耽羅調使、王子久麻伎泊㆓筑紫㆒
- 同 五年二月。 耽羅客賜㆓船一艘㆒。
- 同 五年七月。 耽羅客歸㆑國。
- 同 六年八月。 耽羅遣㆓王子都羅㆒朝貢。
- 同 七年春正月。 耽羅人向㆑京。
- 同 八年九月。遣㆓新羅㆒使人……遣㆓高麗㆒使人、遣㆓耽羅㆒使人等、返之拜㆓朝廷㆒
と云ふ風に齊明紀七年より天武紀八年に至る二十年間に、右の如くに見えるのである。耽羅と日本との親密關係を見るに足るであらう。斯う云ふ風に交通があつたとすると、耽羅の獻上した貢物の中に、珍物として虎もあつたかも知れないと想像できる。尤も耽羅は島の事であるから、日本島同樣に虎も棲息はして居なかつたらう。虎を獻上したとするならば、其は半島より得て、更らに獻上したものと見る可きであらう。生きた虎は、運送上の困難から獻上せなくても、虎の皮ぐらゐは獻上したであらう。天武紀朱鳥元年四月條には新羅が、虎豹などを獻上した事が見えるのだから。
さて此の耽羅との交通は、持統朝頃よりは絶えた趣きである。耽羅が日本に接觸したのは、半島の形勢に基づいたのだから、耽羅が新羅へ屬してしまへば、耽羅としては、我が國との交通も不要であつたらうし、我が國にしても、半島統御に失敗し、半島に殆んど望みを絶つた後であるから、不快に思うて居る新羅の勢力下にある耽羅と交通する必要も認めなかつたであらう。しかし乍ら、後の文獻にも耽羅の名だけは、
- 續紀天平十二年十一月戊子に「耽羅島」
- 同 寶龜九年十一月壬子に「耽羅島」
- 令義解卷三賦役令〈一一七頁〉に「耽羅
脯 」 - 弘法大師遍照發揮性靈集の「延暦三年入唐大使賀能與福州觀察使書」に「耽羅之狼心」
- 延喜式卷二十四主計上〈七三〇頁〉「耽羅鰒」
などゝも見えるのである。交通は無くても、此の島の存在は流石に忘れられはせなかつたものらしい。(しかし、誤解によつて弘法大師の頃には、恐しい食人島であると見なされて居たらしいのである。其の事は後で説く)
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さて此の耽羅は、海中にありて半島より隔離して居るのだから、もとは獨立して居たらしいが、
さて此の耽羅は、三國遺事、高麗史、北史倭傳などには耽羅・耽牟羅と書かれ、太平御覽四夷事には耽牟羅國、韓愈の「送㆓鄭尚書㆒序」には躭浮羅、隋書百濟傳には耽牟羅、唐書劉仁軌傳には儋羅とあると云ふ風であるから、タンラ Tamra 云ふ風な名であつたらしい。〈國號の因りて出るところも高麗史に見える〉
しかし三國遺事や高麗史、又後の東國文獻備考などには屯羅と見え、我が國の扶桑略記延長七年五月十七日條には貪羅ともあるから、 Tonra と云ふ風にも呼ばれたらしい。按ふに、第一節の母韻はアともオとも聞える中間母韻の如きものであるために、かくの如く二樣に書かれるに至つたものかも知れない。
ところで日本では古く耽羅を何と發音して居たかと云ふに、其れは判らない。が書紀の版本や釋日本紀では、トムラと訓ませて居るから、やはりトに近い音であつたと見る可きだらうか。しかして此のトは、奈良朝期では所謂十三音の一つとして二種の音が存した點で注意せられて居るものである。大毎の祕籍大觀に收むるところの繼體紀は、惜しい事には、繼體紀二年の所が缺けて居るから、其の傍訓が何とあつたかは判らない。
だが此の耽羅は、我が國の文獻では、扶桑略記に貪羅と書かれ、又、今昔物語卷卅一鎭西人至㆓度羅島㆒語第十二では、度羅島と提かれて居る。度羅島はまさしく「トラの島」であらう。しかして、此の「度羅」と云ふ標記を、古いところで求めると、
などゝある。是れで見ると、國名としては慣用により、耽羅と書いて居ても、樂の名としては度羅・吐羅と書き、やがて其れが、今昔物語の度羅島と成つたのではあるまいか。しかして耽羅が度羅と書かれた事から考ると、古く Tamra と云はずに Tomra の方を呼んで居たらしい事が想像せられるのでは無いか。しかして此の假定が正しいとすると、撥音を出すのを困難と感じ、又は好まなかつたらしい古代日本人が、Tomra を Tora と云ふ風に、非撥音語に轉訛せしめたのではあるまいか。字音語の撥音を非撥音語にする例は平安朝後や其れ以後では、珍らしく無い現象であつた(Tomra を發音できずして、直ぐ Tora と發音して居た事を想像する事も可能であるが、明言は出來ないのである。)
因みに今昔物語では、度羅島の事が
其レハ度羅ノ島ト云フ所ニコソ有ナレ。其ノ島ノ人ハ人ノ形チニテハ有レドモ人ヲ
食 ト爲ル所也。然レバ案内不㆑知ズシテ人其ノ島ニ行ヌレバ然集リ來テ人ヲ捕ヘテ只殺シテ食 スルトコソ聞侍リシカ
と云ふ風に物悽い食人島として描かれて居るが、これは同じ今昔物語卷十一智證大師亘㆑唐傳㆓顯密法㆒歸來語第十二に
次ノ日辰時計ニ琉球國ニ漂着ク、其國ハ海中ニ有リ、人ヲ食フ國也
とある琉球と混同せられたものではあるまいか。琉球が食人島と誤解せられるに至つた理由は、隋書流求國傳を見れば判ることだが〈琉球の食人の事は本誌七月號の秋山謙藏氏の文を見られたし〉是れが混同せられて、度羅島までが、食人島と見られるに至るのも、當時の智識としては當然であつた。扶桑略記が「貪羅」と云ふ風に、惡い感じを與へる文字を使用して居るのも、此の誤解に基づくものではあるまいか。さらに古く、弘法大師が性靈集で「留求之虎性」に對し「耽羅之狼」心と云つて居られるのも亦、或ひはさう云ふ誤解から生れたものであるかも知れない。渡唐を志す求道者や商人により、耽羅・留求の二島が甚だしく恐れられて居た事は興味ある事である。
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さて耽羅と云ふ國は、然う云ふ國であつたのである。然らば此の國から生きた虎、又は虎の皮を獻上し、其れとともに、トラの國から來た動物と云ふ意味で、其の虎をもトラと呼ぶに至つたかも知れないと云ふ事は
- カナリヤ島のカナリヤ
- カンボヂヤのカボチヤ(南瓜)
- 交趾のコーチン(雞)
唐 モロコシ 玉蜀黍南蠻 ナンバ (この語の意味するものは地方によりて、南蠻黍を意味したり唐辛を意味したりして異つて居る)
と云ふ類の命名法から類推できる事である。我が國の産物でも、杉原(紙)
さて以上は新村先生の高説を、私が勝手に敷衍祖述させて頂いたものであるが、恐らくは、先生の御考へに悖つて居る事はあるまいと思ふ。しかして私は此の御説に全く兜をぬいでしまひ、私の妄説を讀んで頂いた讀者に對するお詫びとして、先生の高説を御紹介させて頂いた次第なのである。
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だがたゞ一つ私の訝しく思ふのは、耽羅が我が國に通じたのは、比較的新しく、齊明七年である事である。耽羅の事が百濟を通じて日本人の智識に入つたのは、繼體朝ごろ、或ひは其れより古い時代まで溯り得ようが、其の耽羅が我が國に通じたのは、齊明七年の事であり、其れは誤りの無い事であると思ふ。つまり此の時まで、我が國と何らの關係の無かつた耽羅が、我が國に通交したのは、百濟の援助が得られなくなり、唐や新羅の壓迫が甚しく成つたが爲めに、百濟に代る援助を我か國に求めるに至つたが爲めである事は眞違ひなしと信ずるからである。ところで然うすると云ふと、日本人が、耽羅と云ふ地名に因みて
斯ういふ譯であるから、虎の皮が日本に傳はつたのは、少くとも齊明七年よりは百十年程も以前の事である。しからば耽羅よりトラが獻上せられて其の結果、トラと云ふ名が生れる可能性が生ずるに至るまでに、虎に然る可き名が與へられる機會は充分あつたものと見なければなるまい。しかして、然う云ふ風に耽羅國以外の半島より入貢せられて其の結果、虎についての日本名が生れる場合には必ず耽羅とは關係の無い語形のものあつた筈であると認めなければなるまい。然らば逆に云つて、現在のトラと云ふ名をば、耽羅との通交のはじまる前に耽羅國名とは全く無關係に、他の事情で生れた名であると見る事も、未だ一縷の疑ひを殘し得るのではあるまいか。
但し臆測を逞しくすれば、耽羅と日本との交通は、公けには齊明七年に始つたのだが、人民同志の私的交渉は、何しろ九州から近い島の事だから、頻々と行はれ、其の爲めに對島や九州の人々は、大和朝廷の人々よりは逢か前に耽羅人を通して虎や虎の皮を知つて居り、從うて耽羅に因むトラと云ふ名を使用して居たのだ、其のトラと云ふ名が、やがて大和地方へも擴がつたのだ、と見る事も出來る。又早くから虎を示す詞も、朝鮮語を借るか何かして、存して居たのは事實だが、耽羅に因みて後で生れたトラと云ふ語の方が、優勢となり其の爲め、古い語は忘れてしまはれたのだと解する事も不可能では無い。此の方の解釋は、キサが忘れられて
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さて以上は新村先生の高段を忖度的に敷衍し、且つ微弱な疑ひを述べたものである。要するにかいつまんで云へば「トラは朝鮮濟州島の古名なる耽羅(度羅・吐羅・屯羅)に因む名であらう。但しこれを認めるとなると、トラと云ふ名の發生をかなり新しい事と認めなければならないのでは無いかと云ふ疑ひがあるやうだ」と云ふのである。因みに、さきに引用した天武紀二年潤六月條所見の耽羅國三王子の名、久麻藝(また久麻伎)都羅・宇麻と云ふのは、其の用字を眞假字式標記と見る事が出來て、クマキ・トラ・ウマと云ふ風に讀み得ること(藝は記紀ではギであり、都は紀ではツト兩用である)から、又、奈良朝人の名に動物に因んだものゝ多い事から、耽羅國人名のクマキ・ウマも熊・馬と何らかの關係があるのでは無いかとも考へられ、從うて、都羅(ツラ・トラ)は虎と關係があるのでは無いかとも、索強附會的に考へられ、其れに因んでは、耽羅國の言葉と日本語との關係の臆測と云ふ事も勢ひ導き出されて來るのではあるが、其れらの事を論定するのは、全く不可能である事を申し添へて置く。(昭和八年七月十三日稿)
欽明記六年所見の虎を刺殺した膳臣(カシハデノオミ)の名は、私は小學校時代から巴提使(ハデス)と云ふ風に聞かされて居るが、日本紀竟宴歌・釋日本紀・通釋などによると、巴提便と書いてハスヒ(清濁は不明)と訓むらしい。但し秘籍大觀の宮内省本欽明記は未檢である(九月六日記)