一、緒言

此の倭訓攷は、新譯華嚴經音義私記に見ゆる倭訓と、同じ新譯華嚴經の音義の大治三年書寫本に見ゆる倭訓とを抄出して、箋註したものである。其の音義私記は二卷、新譯華嚴經(卷數が八十卷あるので六十卷の舊譯クヤクに對し、八十華嚴經と云ふ)を譯出するのに盡力した賢首法藏の高弟慧苑が物した二卷の音義を土臺として、邦人が補刪して、倭訓も多少添へて作つたものであり、慧苑音義とはかなりに相異して居る。一方大治三年方鈔の音義と云ふのは、大治三年書寫の玄應一切經音義第一卷尾に添へられた八十華嚴の音義ではあるが、分量は慧苑音義に比して甚だ少く、俗言も亦少く、新譯華嚴經音義私記とは全然別のものだが、やはり本邦人の子に成つた物らしく考へられ、しかも新譯華嚴音義私記の材料とも成つたものである。つまり、大治本・慧苑音義・音義私記との関係は

玄應六十華嚴經(舊譯)音義──大治本八十華嚴經音義〈邦人作、倭言あり〉┐
                                   ├─新譯華嚴經(八十經)音義私記二卷〈邦人作、倭言あり〉
               慧苑八十華嚴經音義二卷─────────┘

と云ふ譯である。
其の八十經音義私記は何時作られたかと云ふに、唯一の古鈔本たる京大醫學部教授醫學博士小川睦之輔氏御襲藏の國寶本が、奈良朝末か平安朝初期の書寫であるから、其の製作年時も、慧苑音義の出來たらしい開元十年頃〈根據ありて云ふのでは無い〉即我が元正天皇養老六年以後から、此の音義私記の書寫せられた時までのものなる事は考へられる。
自分は、其の小川家本が、貴重圖書影本刊行會により複製刊行せられるに際し〈昭和十四年十二月十五日刊〉解説を物し、其の中で、下卷尾に抹消せられ乍らも「延暦十三年甲戌之春寫之了」と云ふ識語の存する事を指摘して、これは延暦十三年春の寫本であるとなし「なほ此の識語は元來無かつたのだが、後人が何かの理由で加へ、其れが又何かの理由で消されたのでは無いかとの疑も抱き得るかも知れぬが、自分は無要の疑と信じる」と附記して置いたのだが影本刊行會の幹事で、古書の鑑識に秀でて居られる鈴鹿三七氏は、私に「あの識語は何うも怪しい、寫手が識語を書くとすれば、卷尾の書名に密着させて書く事はあるまい、後に未だ三寸餘りの餘白があるのだから、そこへゆつたりと書ける筈だ。今の抹消せられて居る識語は、恐らく元祿六年の法印英秀の識語が書かれた後に、爲めにするところがあつて、卷尾内題と英秀識語との間の窮屈な所へ、一往、延暦十三年云々と書いて見たのだが、かへつてそれでは具合が惡いと感じたので、切角書いたものを、又洗ひ落したのであらう。筆蹟も何うしても從來の説同樣奈良朝のものだ」と云ふ事を話されたのである。筆蹟の事は事實延暦十三年の筆であるにした所で、孝謙天皇天平寶字元年より云へば三十七年目だから、孝謙朝頃に養成せられた寫經生が延暦十三年頃に書寫したとすれば、筆蹟に於いて大した相異があらうとも思はれないから、此の方は比較的輕く見得るにしても、識語の位置が妥當で無いのは確かだから、やはり鈴鹿氏の御説に從ふ可きであると思ふ。故に要するに、此の古鈔本はやはり遲くとも、奈良朝末期の書寫であり、其の製作は奈良朝期であると見て可いと思ふ。
自分は「解説」の中で、上卷首に添へてある紙に見える「馬道手箱」の馬道につき、其の記されて居るのが永延と云ふ人の識語の存する紙である故、馬道には懷疑的態度を取りつゝも、何ら解決めいた事は云へなかつたが、岡井愼吾博士より、原本玉篇十八卷後分に馬道の名の見える事を教示せられ、所藏の柏木探古本た見、又東方文化叢書の複製本〈昭和十年三月卅日刊〉も檢したが、いかにも此の馬道の文字は兩者がよく似て居り、特に馬字がよく似て居ると思ふ。しかし玉篇に於いては馬道と其の次行の年月日〈「年十一月十三日」だけが讀めるのみ、探古は□雲四年と讀み、此の古鈔本は隋唐間鈔本で、わが慶雲神護景雲頃に馬道が識語を書いたらうと考へて居る。しかし、實は、年字以上は讀むのは無理だ。〉とが同筆であるか何うかも判らぬ、しかして馬道の事は東方文化叢書の四寸に六寸位の紙片に記されたるたゞ百四十字の文には「馬道云々の奧書あり、依て一に東大寺馬道本と稱す」と云つて居るのみである。岡井博士の「玉篇の研究」六六頁によると、古逸叢書本には黎庶昌が、馬道とは奈良興福寺傍の地名で、古く學校有りたれば、當に此の學の所藏本であつたらうと云つて居る由であるが學校の藏書に「馬道」とのみあるも訝しく「馬道手箱」も亦訝しか、馬道はやはり人名であると見たい。但し馬道の事は、相變らず全く判らない。(なほ「解説」を補ふ意味で、賢首の新經音義の事も述べたいが、都合上最後へまはす事とする。)
さて此の新譯華嚴經音義私記に倭訓が見える。計算がかなり厄介だが、重複は數へず、ノチクイオヨボスナの如きは二語として數へると云ふ風にすると、一六二語程であると見られる。點本の類とは異り倭訓の數は少く、珍しい訓も割合に少く、且つ木村正辭の抄出が早くより流布して居るから、特別の人しか見られない聖語藏の古點本の古訓などの如き目新しさは無けれど、しかし、本書が奈良朝期の古書たる事は動かせないから、其の倭訓は流石に奈良朝期の語として貴重すべきである。其れで、其の倭訓を、奈良朝期文獻所見のものと比較して假名書の用例として珍しいか何うかなどと云ふ事を査べ、且つ特殊假名遣の事などにも觸れて見るのである。(特殊假名遣の事は各語の條でも説くが、又第五章でも一まとめにして述べる。因みに云ふ、松井博士の國語辭典は、本書の倭訓の中からクハダツの語を引いて居る程だから、正辭の抄本の如きを材料とせられたかと思ふのに、クハダツ以外は、全く引用して居ないのである。まことに訝しい)。
さて此の音義私記の倭訓又は倭訓と覺しきものは「倭言」「倭云」とあるもの、「訓」とあるもの、何とも云はぬものの四種に分れるが、使用文字から云ふと、(イ) 一字一音の字音眞假名專用のものと、(ロ) 一字一音乃至一音以上の字訓眞假名專用のものと、(ハ) 其の折衷のものとあるが、(イ)の物は「倭言」「倭云」と書いて無くても既でに假名書である以上は、倭訓である事に何等疑問が生じる筈が無い。だが訓假名と成ると、本書のは殆んど全部が、借訓で無くて、正訓であり(借訓は志を心刺と書いて居るものだけである)、假名とは云へないものばかりだから、何の程度までを、倭訓を示すものと見るかに關して大いに迷ふのである。其れも「倭言」と斷つてある、大神(猿)、鼻毛艾利ハナゲガリ(鑷)、火于知(燧)〈以上二つ大治本のみに見ゆ〉の三例、「倭云」とある石太々美(砌)、石牒イシダヽミ(砌)、鳥比古トリヒコ(卵)、火打ヒウチ(燧)の四例の如きは倭言である事がはつきりして居るし、又胎和多ハラワタ(膓)、口比流(脣)、米都非(粒)、米都飛(粒)〈以上「訓」とあり、但し「訓」は漢文註にも存す〉烏足着安後延(距)、船和可川利(機關)、湯爾(煑)口左岐良(吻)、貝布延(螺)〈以上何とも云はず〉の九例の如きは、字音假名交りだから、これも先づ問題は無いが、市位(肆)、田反(耕)、心刺(志)、荒金(獷、但し鑛に通ずるか)、手卷(釧)、藥師クスリシ(醫)、仕奉(承接・事)、矢(輞)、矢倉(却敵)、人舍(獄囚)の如きに成ると、これらを倭訓を示すものと見るには、異論が立つのではあるまいか。これらは倭訓を示すものと自分は但ずるが、右の中の矢倉の如きは、此の私記の抄出者で抄出して居ない人もあるのである。しかも、其の反對に、倭訓を示すものとは認めにくいものまでも夥しく抄出して居る人もあるのである。以て漢字の正訓で註して居るものでは、其れが果して倭訓を示すのであるか何うかゞ決定しにくい事が判るであらう。それで自分は出來るだけ、嚴重な態度で選別した事を斷つて置く。
箋註の内容はもとより倭訓が主にて、漢文註は殆んど觸れず、慧苑音義や大治本との校異を指摘する位に止めた。又字音も殆ど言及はせなかつた。字形の註文が多いが字形と成ると活字體と異るものが夥しく出て來て印刷に困るから省略したところもある。省略したところは、無論一々斷つてある。省略するに及ばない文字で、活字と異るは、支障無き限り、活字體に改めた。倭訓に就いては其れが奈良朝期の文獻に見えるか何うかの闡明を主としたのだが、不注意のために、古い假名書例の指摘できなかつたのもあらう。倭言の清濁は大體先づ其の假名を中心としたが、清濁の區別は決して判然として居るので無いから、現在の清濁に從うた事が多い。しかし現在の清濁が、奈良朝期の清濁と一致するとは限らない事は、勿論忘れては居ないのである。古訓の例證の參考書の一つとしては靈異記は類從本をば成る可く採らず、興福寺本(但し上卷のみ)を採つた(前田家本の訓釋には、箋註の資料と成るものがなかつた)。さて大治本に見える倭訓十六言の中六十八卷までのは、火岐利以外は音義私記に見えるから、私記の箋註で言及し、七十五卷以後の十一言は、私記の箋註の後に添へた。