立ちかへりて、春村の説を見るに、狩谷望之の歿後、其の本を天保十二年六月に轉寫せしめ、其の本の尾に、解説めく一紙を添へ、其の中で

抑この字鏡集は、いまだ世に著者の名を傳へず、故わが本の跋記に據ておもふに、小川僧正承澄の作なるべし……此僧正はいみじき悉曇の學匠なりしかば、此書はた編集せられけむとそおぼゆる………

と云ひ、また碩鼠漫筆〈二二一頁〉でも

此書は寛元三年に、小川長吏承澄僧正小川忠快法印弟子〉の手になれるよしの奧書見えて、六百餘年の古へに係れり…

と云つて居る。春村が寫した狩谷本は寛元本であつた、そこで春村は此の識語に基きて承澄の著述だと單純に決めたものであるが、其れは全く、識語の誤解から住じた誤斷でありて採るに足らない。春村は本人に取りては幸か不幸かは知らぬが、寛元の識語しか知らなかつたから。單純に寛元三年に承澄が作つたと云つてしまヘたのであるが、春村が若し、後に至りて應永本の如くに、菅原爲長の作であると明記――尤も爲長以外の人が記したのではあるが――した本を此の後に知つたとすれば、春村は從來通りに承澄説を採り得たであらうか。恐らく春村は、承澄説は直ちに捨てゝ、其の代りに爲長説を單純に認めたであらう。そして「此の卿はいみじき學者なりしかば、此書はた編集せられけむとそおぼゆる……」とでも書いたであらうと思はれる。

こゝで寛元の識語に就いて考へるに、此の識語を知つて居た平田篤胤、信友、木村正辭らは、此の識語を論據として承澄の作であるとする樣な事はせなかつたが、春村だけは其れを敢へてしたのである。信友らが承澄作とせなかつた理由は不明だが、案ずるに此の識語では承澄作とする事が出來るとは考へなかつたからであらう。以下私見を述べる。

一體

寛元三年四月二日小川法印〈承/澄〉示云、朱點東宮切韻、墨點唐玉篇也自支脂至干灰咍又舌内也

寛元三年五月十日尚成云、墨點不審字也、朱點詳之無不審字也

と云ふ識語は、無論同一人が施したものであるに相異無い。此の識語記者は、轉寫したか、又は、轉寫本を他より貰うたか購うたかして、とにかく字鏡集七册本を入手したが、本書の文字(標出の大字)に朱墨の二種の點が存するを見て、其れが、何を意昧するのであるかを知らなかつた。そこで、恐らくは懇意であつたらうと思はれゐ小川法印承澄〈此の年四十一歳〉に質した。積極的にこちらより質問したのであるか、質問も無いのに承澄が教示したのであるかは不明だが、とにかく承澄の教示を受けたのだ。ところが承澄は「朱點〈ハ〉東宮切韻〈ナリ〉 墨點〈ハ〉唐玉篇也」と教へてくれたと云ふのである。承澄の言は、朱點の施してある文字は、菅原是善東宮切韻の文字、墨點の施してあるは唐玉寫――此の意味は、日本の東宮切韻に對する支那の玉篇〈江戸期では倭玉篇に對し漢玉篇と呼んで居る〉の義であるか、顧野王の原本を唐に成りて刪補した本を指すのであるかは判りかねるが、これは何れであつても可い事だ――の文字であると云ふのであるらしいが、其れ以上の明確な事はこれも判りかねる。だが、やはり今の論旨から云へば、斯う云ふ事は解決がつかなくても少しも支障は無い。自支脂至以下の十一字の事も論旨に無關係だ。

さて此の識語記者は四月二日に承澄の教示を受けて其の意見を記したが、其れより一月餘事後の五月十日に、また人を變へて尚成と云ふ人に、やはり同じく、朱點墨點に關して質問し、此の度は、「墨點のあるのは、不審字である、朱點のある文字は、これを詳らかにして居る文字であり、無㆓不審㆒字である」との解答を得て、其れを書き付けたが、是れで滿足したのであるか、も早や是れ以上別の人に質問する事は止めて居るのである。質問したかも知れないが、其の答を書きつけては居ないのである。其の尚成と云ふのは何う云ふ人であるか知らぬが、「尚成云」と云ふ風に、姓も書かずに極めて手輕に扱うて居るのを見ると、極めて親しい間柄であるか、若しくは、識語記者の身分が上で、尚成は、極めて低い身分であつたかの何れかであると見る可きであらう。尚成の名は分脈には見えないが、類從本和氣氏系圖に

清成〈侍醫、典藥頭、圖書頭〉――尚成〈從四上侍醫/大膳亮〉

と見えるので、春村は、此の人だらうとし、清成の名は明月記の建暦三年四月十八日、元仁二年四月廿七日、嘉祿三年二月十七日、天福二年七月十七日正四位下とあり〉の各條に見え、百練抄寛元二年十一月廿四日條に典藥頭清成の死去の事が見えるのを指摘し、且つ建長八年四月十四日の吉黄記除目折紙に、左少史尚成とある由をも述べて居るが、吉黄記の尚成はともかくとして、寛元識語の尚成が、和氣清成の子の尚成である事ば確實であらう。

寛元識語が書かれるに至つた事情と、其の内容とは右述の如きものである。要するに識語記者は、朱點墨點の性質が判らぬから承澄に質し、さらに尚成に質したのである。記者は此の兩人に質問し得る人であつたのだ。しかして承澄に先づ質問した。何故承澄に質問したのであるか。承澄が字鏡集の著者であつたからだと云ふのは一つの解釋である。そして春村は此の解釋に從うたのである。だが相手が字鏡集の著者で無くとも質問は出來る。現に識語記者は承澄以外に尚成にも質して居るのである。だから、承澄に質問したと云ふ事は、必ずしも承澄が著者であると云ふ事には成らないのである。ところで承澄の答へは、記者を納得せしめるには至らなかつた、だから記者は承澄の言に服する事できないで、別の尚成に確めたのである。そして承澄の言とは異る尚成の言を聞いてはじめて滿足したらしいのである。尚成の言に滿足せなかつたかも知れないのだが、とにかく承澄の後で尚成にも質問したと云ふ事は、大袈裟に云へば、承澄の言に對する不信任の表示である。そこまでは云はないにしても、承澄の言のみでは得心できなかつたのは事實である。ところで此の場合、若し承澄が、春村の言の如くに、字鏡集の著者であるとすれば、質問者は、著者に質問した事に成るのだから、承澄の言に不安を感じて、再び別人に確めると云ふ樣な事があるだらうか。著者の言を信せないと云ふのは、其の權威を認めないのである。悉曇の學匠にて漢字の事にも詳しくあつた筈の著者承澄の言を不安とし、著者に非る醫道の專門家たる尚成に質すなどと云ふ事があらうとは、常識上全然考へられない事である。故に、逆に云へば、識語記者の斯う云ふ態度は、承澄が字鏡集の著者では無かつた事を明示して居ると確言して憚らぬのである。〈如上の要旨だけはすでに昭和十年十一月に發表した拙稿「東宮切韻佚文攷」で言及して置いた〉

春村は寛元識語によりて、承澄作説を立てたが、其は全く誤解であつたのだ。承澄は著者では無かつたのである。但し字鏡集寛元本が寛元三年四月二日までに作られて居た事だけは確實である。從うて岡井博士の日本漢字學史が「黒川春村は、奧書に其の名が有るからして、小川承澄の作かと考ヘたが、澄ならば元久二年の誕生で、九十歳頃まで居られたから尚五十年程後れる……この書を一九〈三/四〉○年頃の物と爲すは不可なからう」と云つて、承澄の作と見る時は寛元同年より、なほも五十年程も後れて、弘安三年頃(此の年が紀元一九四〇年である)に字鏡集が出來たと考へて可いとするものゝ如くであるのは明かに不合理である。寛元三年四月に承澄に質問した以上は、寛元本が、寛元三年四月に存して居た事は云ふまでも無い。(因みに、春村は弘安版法華三大部跋記により、其年承澄が七十八歳であつた事を指摘し、「九十歳ばかりにて入滅せられけむとおぼしけれどいまだ卒年を考へず」と言て居るのだが、佛家人名辭書は、此の弘安五年十月二十二日に示寂したと記して居る。)