俊頼無名抄の著者と其の著述年代(下)

  • 岡田希雄
  • 藝文 12(7): 368-385 (1921)

以上論じたやうな譯であつて博士が本書を以て俊頼の著述でないとせらるゝ論は博士の精緻なる學風から餘りに懷疑的態度をとりて疑ふ可らざるもの迄も疑はれた結果であるから其の論據は有力でない。然るにこの三論據を盾として深くも本書の内容を檢討する事なくて本書を僞書なりとして排斥せられたのはどんなものであらうか。少し輕卒に過ぎた嫌がありはしまいか。

かくの如くにして博士の説は否定せられ俊頼無名抄が俊頼の著述である事は立證せられたが、然しなほ突き進んで、も少し精細に本書の内容を觀察すると、案外にも本書の記事には本書の著述を俊頼とする事と甚しく矛盾する事がかなりにある。そしてそれらのものは本書の著者につきて、今迄述べた事を立派に根本から覆す事の出來さうに見えるのである。以下其の事について少し述べて見やう。

本書五十九頁上欄に「みつの江の浦島か子のはこなれやはかなくあけてくやしかるらむ」の歌につきて浦島の傳説をのせ、さてこの歌を解釋して居るが「(はこを)あけゝることをくやしく思ひてかへせどかひなし、それに心を得てよめるなり」と云つたゞけで、少しも夏の夜に言及して居ない。是で見ると「はかなくあけて」を文字の表面に現はれた通りに箱をあけた悔しさと解し、拾遺集夏部、綺語砂、〈歌學文庫本二十九頁〉和歌童蒙抄〈主頁〉などに「夏の夜は」としてのせられた意味を悟らないやうである。そして「みつのえの」は「なつのよは」の誤寫と見られないでもないが然も自分の見る事の出來た九種の本には皆「水のえの」とあるから是は層元來からかくの如くあつたものと見る外ない。然もこの歌は初句を「なつのよは」としなければ全く解けないものであるにも拘はらず、よし暗記の誤りにしてもあれ、平然と「みつのえの」と書いて意も通じたと考へ、又浦島傳説としては缺くべからざる事あるのに、浦島歸郷して見れば既にありしにもあらず變り果てゝ居つたと云ふ事も述べて居ない。自分はかゝる缺點のある記事の記者に對しては其の無識を責むるよりもむしろ其の沒常識なのに痛く驚くのである。而して俊頼ほどの人がこんな事を爲しさうにも考へられない。

次に能因法師の有名なる「天の川苗代水にせきくだせ天くだりますかみならば神」と云ふ祈雨の歌は本書〈十五頁上欄〉にも金葉集雜下にも見えて居るが、能因をして雨乞をなさしめた伊豫守の名は二書所傳を異にして本書は實綱とし能因の家集によつて書いたと云ふ金葉集は範國として居る。然も是は轉寫の誤から生じたものでない。この兩説の中どちらが正しいかは知る必要もないから問題外であるが、かゝる現象の生じたる以上は結果から推して理由を知る事は必要である。即ち同一人の著書ならば兩書で説が變る事もあるまいからこの兩書の著者は同一人ではなくて別人である、從うて本書は金葉集の撰者俊頼の著述ではあるまいと見るは合理的である。然し又飜りて案ずるに、是は事實に關する事であるから俊頼は本書を書いた後で、金葉集撰述の時になつて能因の家集を見て正しい事實を知り得たるが爲め兩書差を生じたのであるとも解する事も出來るから逃路がないではないが、一體能因法師は俊頼の父經信と親しくあつた人で當時には歌人として極めて有名であつたのだから、この能因に關して俊頼が書く記事にはよし傳聞のまゝ記したにしても誤りは傳へまいと考へられる。かつ又彼が金葉集を撰述した、文治二三年の頃には見る事の出來た能因の寫集を本書の著述せられた時〈永久三年だらう/是は後に述べる〉には見なかつたとも考へられない。何れにしても怪しむ可き事であつてこの兩書所傳の相違は是亦本書が僞書であつて金葉集撰者たる俊頼の著述でないと考へさせる材料の、一つになるものである。
次に又本書〈十八頁上欄〉の記事によると「老いはてゝ雪の山をばいたゞけどしもと見るにぞ身はひえにける」と云ふ歌は經信の母、高倉の尼上の許に仕へて居た老女房が和布の事により背をうたれんとした時詠んだと云み事である。そしてこの尼上は前にも一寸云つた通りに俊頼にも祖母に當る婦人だからこの尼上の許に居る女房に關する記事はよも誤りはあるまじく極めて正確である筈だから全く信じてもよいと何人も思ふだらうが、豈はからんやこの歌は早く拾遺集卷九雜下に、

大隅守櫻島の忠信が國に侍りける時こほりの司に頭白き翁の侍りけるを召しかむがへむとし侍りける時翁の詠み侍りける。老はてゝ雪の山をばいたゞけどしもと見るにぞ身はひえにける。此歌によりて許され侍りにける。

とあるもので今昔物語卷廿四、大隅國郡司讀和歌語第五十五にも見え、又、俊頼以後の諸書例へば奧義抄序、宇治拾遣物語、十訓抄等にも記載せられ歌辭の小異はあつても翁の歌とする點に於ては一致して居る。そして歌の趣より云うても女房同志の口諍のはてに背を打たれやうとした女房の詠とするよりも國司廳で筈をうけんとする翁の歌として解する方「しもと見るにぞ」の語も尤らしく聞えるから、是は何れの點より見ても拾遺集の説の方を正しとすべきである。然もかゝる面白い由緒づきの歌であるから一讀すれば何人も記憶するのが容易であるのに、まざ〳〵このやうな寛恕する事の出來ない僻事を敢てする事を俊頼程のものゝすべき事と考へられやうか。無智文盲な者と雖もかゝる沙汰の外なる誤りはなすべくもない。故に本書にかゝる誤りのある事はまた以て本書僞書説にとりては有力なる一論據であらう。この外本書中には聖武帝を女帝とし〈十二頁上欄〉いな舟の歌により名高い最上川を出雲の川とし〈八十五頁上欄〉山邊赤人の「和歌の浦に汐みちくれば云々」の名歌の第一句を誤りて「なにはかた」とし、〈二十二頁下欄〉古今集に見えて居る「數ふればとまらぬものをとしと云ひてことしは痛く老いぞしにける」以下六首の歌をば七叟の歌とし〈十六頁上欄〉たるなど人口に膾炙せる古歌をあやまりて記し或は歌を解釋して荒唐無稽なる説をなすなどの事が極めて多くあつて到底勅撰集の撰者として歌人のよせ重かつた俊頼の著述と見られないのである。
さてこのやうに、本書を俊頼の著述とするについて矛盾する點があつてもやはり本書は俊頼の著述だと斷言する事が出來るであらうか。自分はそれでもなほ本書は俊頼の著述であると確信するのである。
それは何故かと云ふと自分が今あげた所の數個の矛盾點と云ふのは要するに本書の著者なる俊頼其の人について想像する事の出來る學識と本書記事の價値との矛盾に過ぎないのである。自分は是等の矛盾點を指摘するに當りては口にこそ出さなかつたが然し、暗默の中には俊頼をば、かなりの學才ある歌學者として認めて居たのであつた。だからかくの如くにして自分はこの歌學者なる俊頼がこんな亂暴な、沒常識な誤りをなす筈がないと考へて以上の如き矛盾點をあげたのである。この故に是等の矛盾點と云つても、俊頼が學者でも何でもなくて單に非凡な歌人であつて然もかなり淺慮な人であつたとすれば、もう矛盾でも何でもなくなつてしまふのである。さうなればこんな亂暴な誤謬のある本書でも、もとの如く俊頼の著述と認むるに何等の支障もなくなるのである。
然らば俊頼は一體學者だつたらうか。否、實は彼は學者と云へる人でもなかつたのである。それはどうしてゞあるか。
抑々平安朝末期頃の人は歌人にてもあれ、歌學者にてもあれ、古人を尊敬する事の甚しい割合には其の學識は皆驚く可き程貧弱で淺慮であつたのである。彼等は人の知らぬやうな耳遠い難しい事をば故意に歌によみ込んでわれかしこしと自惚れて物知り顏を裝ふ事はするが實を云ふと其の學問は案外に淺くて難しい事を知らぬ事は無論の事で極めて平易な事さへも知らない。例へば

  • (イ)隆源口傳に「或人云、ふせやとは野をいふともあり」とある。
  • (ロ)同じ隆源口傳によれば伊勢大輔の女で有名な歌人なる伯母は萬葉集によくある「たまゆう」を久しと解して居る。
  • (ハ)保安二年九月に關白内大臣忠通の第で行はれた歌合の庭露七番の歌の判辭や童蒙抄〈三十六頁上欄〉によると當時の人は「のら」と云ふ語の意味を知らぬ。
  • (ニ)奧義抄〈百十九頁上欄〉に「そのかみは當時とかけり、そのをりと云ことなり、さればすぎにしかたをも今ゆくすゑをもいはんにとがなし」と云つて居る。
  • (ホ)教長の古今集〈六十六丁左〉には「やよやまて」を解して「ヤヨヤハ八夜也、フルクハヒサシキコトニ七日七夜トイフヲセメクヨノ中ニスミワビヌ、コレラモスギテヤヨヤトヨメリ」と云つて居る。
  • (へ)「櫻狩雨はふりきぬ同じくはぬるとも花のかげにかくれむ」と云ふ歌の「櫻狩」を「小暗さくらがり」と解く説がある。堂々たる大家顯昭でさへ「さくらがりとはくちがるといふ事なり、さは詞の助也、さわたるなど云がごとし」と云つて居る。〈袖中抄卷十九〉

顯昭すらこの通りである。あとは推して知れやう。だからこの種の例は歌合の判辭、歌學書等に於ては極めて頻々見出せるのであるが例をあげてもきりが無いから是で止めやう。扨是等は當時の人が古語に對する智識の淺慮なるが爲めに生じた滑稽な例であるが史實に關しても亦かくの如くである。彼等は事實の考證等といふ事には極めて大まかで興味をも有たなかつたと見えて、童蒙抄〈五十六頁上欄〉は長保寛弘頃の和泉式部を醍醐帝の皇子重明親王の寵をうけた婦人とし、教長は「ならのみかど」を桓武帝とし〈顯昭柿本人麿勘文〉素戔嗚尊傳説について奇怪な説を傳へ古今集註〉基俊は伊勢物語の八橋とすみだ川を混桐して噴飯すべき言を云〈雲居寺結縁經後宴歌合十一番判辭〉うたのである。然し是等はまだ其の誤りが寛恕せらるゝものであるが歌の風情を悟らないで曲解するに至りては驚くの外はない。然も是が曲解などの生ずべくもない平易な歌に多い。

  • (イ)清輔は春月をうたうた白樂天の「不明不暗朧々月」といふ詩句をもとゝしてよんだ大江千里の「てりもせずくもりもはてぬ春の夜のおぼろ月夜にしくものぞなき」を「夏の夜の」と改めて教長の拾遺古今に入れた。〈俊成正治奏状〉
  • (ロ)經信の難後拾遺に「さよ中に岩井の水の音きけばむすばぬ袖もすゞしかりけり」を難じて、「水は手にこそむすべ、そでしてやはいかゞあらむ、さてむすばぬとはよむぞかしとはいふべけれど、あるべきことをこそさもいはめ、とおぼゆるはいかゞ」と云つた。一體この書は經信が、己れが撰者となれなかつた腹癒せに通俊の後拾遣の疵瑕をあなぐり求めてさんざんに難じたもので其の解釋には故意の曲解と見える物が多いから皆まではあげない。
  • (ハ)然し大體が經信は歌の風情と解し得なかつた人と見えて、寛治八年の高陽院七番歌合には此種の曲解が多い。

なほこんな例は經信に限らず、當時の歌合を見るとざらにある事だから一隅をあげるにとゞめる。
扨當時の歌人歌學者として名聲嘖々たる人ですらかくの如くである。然も俊頼は學者であつたかと云ふに、彼の崇拜者さへ、俊頼の敵手基俊の學力は認めても、俊頼に學識ある事を認むるを得なかつた程の人である。金葉集の撰者としても清輔は袋草紙卷二、〈二十六丁右〉の中で「時有㆓基俊者㆒兼㆓和漢㆒尤便㆓撰者㆒」と云つて、基俊の方をあげて居る位な人である。それで基俊が俊頼の無學なるを嘲りて蚊虻の人と云つた時なども「文時朝綱よみたる秀歌なし、躬恒貫之作りたる秀日なし」と答へて〈長明無名抄十四頁下〉自ら其の學の淺きを認めて居たのである。畢竟ずるに彼は歌學者ではなく單に非凡なる歌人であつたに過ぎぬ。だから前にも云つたやうに、鬼の腰草や腰雨を歌によみ込み、又萬葉集の「水隱れて」と云ふ語を「身隱れて」と解して「とへかしな玉くしのはに身隱れてもずのくさくきめちならすとも」〈散木集卷下二十三丁左〉「雪ふれば青葉の山も身隱れてときはの名をやけさはおとさん〈同集卷上七十九丁左〉等とよみ、萬藁集卷九にある菟原處女の處女墓をとめつかを誤りて「もとめつかおまへにかゝる柴舟の北氣になりぬよるかたをなみ」〈同集卷中十三丁右〉とよみ、又よく新造語を案して「もゝつてのいそしのさゝふ」、「松の玉枝」「さくらあさのをふのうら」「むろのをしね」等いふ事を云つたりしたのであつて、散木集中に煩はしきまであるこの種の例は彼が耳なれぬ奇物卑語、古語等を殊更によみこまんとした事にも起因するだらうが、同時に又彼の無識をも表白して居るのである。然しこんな例は流石に歌合の判辭には見當らぬ。蓋し判者としての彼は、學識を見すかされないやうに用心深い態度をとつて、馬脚をあらはす事なかつたからである。然し乍ら其の代りに、判者としては頭の解釋が絶對に必要な爲めこの方面で馬脚を表したものが多い。換言すれば歌の風情を語らないで曲解した事が極めて多いのである。

  • (イ)元永元年十月の内大臣忠通の第にて行はれた歌合の時雨八番の歌「神無月みむろの山の紅葉ばも色に出ぬべくふるしぐれかな」を俊頼は難して「神無月とは月日の月の名なり、御室山とて神無月といはむことおぼつかなし、證歌やあらむ」と云つた。自分は俊頼が何の爲めこんな事を云つたのかと判斷するに苦しむのである。
    かゝる例は同じ次の九番の左の歌に對する俊頼の難にもある。
  • (ロ)同じ歌合の時雨十番の歌に「波よする蜑の苫やのひまをあらみ漏にてぞしるよはの時雨は」と云ふ歌があるが、俊頼は難して「時雨すげなきやうにきこゆ、しぐれは起ゐてきゝ明すべき事ならねど是はもるに初て知といへば寢入りたるがもりて衣のぬれければ起さわぐとみゆ、若もらましかば又の日人傳に社きかまほしとおぼつかなくぞきこゆる」と云つたが、この解釋は當を得て居ない。つまり「波よする」とある初句に氣がつかないからである。音高く寄する波濤のため雨の音もまぎれてしまつた事をよんだこの歌の意を悟らないで、「衣のぬれけれは起さわぐ」等と解したるは拙い。
  • (ハ)同じ歌合の時雨十一番の歌「さ衣の袂はせばしかづけども時雨のあめは心してふれ」と云ふのは袂がせまいから雨を防ぎ兼ねる、故に心して降れと云つたのであるのに俊頼は「心してふれといへるはぬれん事のをしさにいへるか」と云つて居る、全く沙汰の外である。

この外時雨六番右歌、殘菊四番左歌、同九番左歌、同十二番右歌等に對する評は何れも曲解と見られる。而して是は唯一つの歌合につきて吟味した所であつて外の歌合に於てもこの通りである。
俊頼と云ふ人はこんな風で實に學力の乏しき人であつた。然も彼にしてもし愼重な態度をとる事の出來る人ならば、よもや實際の學力は乏しくとも、其の學力の乏しき爲め生ずるやうな過失は幾分防ぐ事も出來たらうに、彼は學力乏しきが上に加ふるに愼重な學術的態度のとれる人でなかつたのだから、この人にして、無名抄の中で今日の人の想像も出來んやうな誤りを傳へ、甚しきに至つては無智文盲の域を越えて沒常識と考へられるやうな誤りを敢てしたのも、時勢の勢と、彼自らの性質と學識とからの結果であつて怪しむに足らぬ事である。さしもの名高い歌學者公任も清輔が「此歌の論義はこれならずあやまりおほかる文也」〈奧義抄卷五〉と云つて居る通りに歌論義中しば〳〵誤りを傳へ、又古今集卷十二に見えてある躬恒の「たのめつゝあはで年ふるいつはりにこりぬ心を人はしらなむ」と云ふ歌を自ら撰べる三十六人撰と深窓集とにより作者をたがへ〈顯昭古今集註八十五頁下欄〉基俊もまた、歌を曲解したり、歌の作者の名を誤りなどしたる事はよくあるのではないか。故に本書に甚しい誤りがあつたからと云うて本書が俊頼の著述でないと云ふ事は出來ぬ。
要するに今日見る事の出來る俊頼無名抄はやはり俊頼の著述なのである。
扨無名抄の著者につきての考證は是位にして次に本書の著作せられた年代の考證にうつらねばならぬ。
俊頼無名抄の著述せられた年代の考證に關して多少なりとも材料を提供するのは今鏡すべろきの卷たまづさの章の記事であるが、然し是が示す所は單に本書が、關白忠實の姫君高陽院の入内以前に成つた事を云ふのみであつて餘りに漠然として居るからこの問題を解決する上に於ては役に立つ事は少い。だから一歩でも本書著述の正確な年代の眞相に近づかうとするには勢ひ直接に本書について其の内容の穿鑿を行ひ、記載せられてある記事中より本書著述の年代を確かむる材料となるものをあなぐり求めて考證せなければならない。然しこの場合も輕卒な態度をとつてはいけない。即ち本書が著述せられた當時の原形のまゝに傳つたのかどうかをよく吟味せねばならぬ。若し本書に脱漏竄入等があつたならばいかに精緻な考證をしても畢竟其の効がない事になるからである。然らば本書に脱漏竄入等がないかと云ふに強ちに否とは斷言出來ないかもしれないが大體原形を存して居る事及び今、本書著述の年代を考證するに際して使用する部分は全く竄入の憂はない事を校合の結果知り得たから考證の材料に供しても支障はないのである。扨本書の著述せられた年代はいつであるか。
まづ第一に本書は高陽院のために書かれたものである以上は高陽院の生れられた嘉保二年以後のものなる事は云ふ迄をないがなほ院が一定の年齡に達し和歌の教養をうけ初めた或る年以後に書かれたものなるべきは想像出來るから、少くとも院の十歳の年、即長治元年以後の著述と考へてよからう。
次に本書の序の中で俊頼は「わが君もすさめたまはず世の人もまたあはれむことなし」などゝ云つて自分の世にかずまへられぬ事に對して不平をならべて居るのを見ると本書は彼が金葉集撰進の院宣を蒙つた後の著述ではない事がわかる。即ち院宣を蒙つた天治元年以前に著述せられたものである事が知れる。
さてかうして大體に於て本書が長治元年より天治元年に至る略二十年の間に成つたものなる事はわかるが是だけでは餘りにばつとして居つて物足らぬから出來るだけ是を約めねばならぬ。所で九十三頁上欄に郁芳門院根合の時に周防内侍が詠んだ歌に關する話を掲げて扨「歌よみの内侍はその後久しくありてかくれ侍りし」と云つて居る。そして其の周防内侍の歿後が明かでないが金葉集卷五賀部に、

攝政左大臣中將にて侍りけるころ春日祭の便にてくだりけるに周防内侍も女便にてくだりけるに爲隆卿行事辨にて侍りけるがもとに遣しける。周防内侍。
いかばかり神もうれしとみかさ山ふたばの松の千代のけしきを。

とあつてこの時の祭は今鏡ふぢなみの卷みかさの松の章及び中右記により、天仁元年十一月二日に忠通が十二歳で祭使をつとめた時の事である事がわかるから、内侍は少くとも天仁元年の終りまでは健在して居た事となるから本書もこの年以後の著述であらねばならぬ。
次に九十二頁下欄に

おなじ御とき〈前文をうけて堀川の院の御時といふのである〉中宮の御かたにて花合といふことのありしにその宮の亮にて越前の守仲實が玉のみとのと云事をよみたりしを世にいまいましき事に人の申しが程なくとりつゞきてうせさせ給ひにしこそあやしかりしか。

とあるが、越前守仲實が亮であつた堀川院の中宮と申すは後三條院皇女篤子内親王の御事であつて其の宮で行はれた花合の事は諸書にも見えないから考へる由もないが、とにかく中宮崩御あそばした永久二年十月一日以後の記事がある筈である。然も「うせさせ給ひにしこそあやしかりしか」と云つてかなり遠く過ぎさつた事を囘想するやうな口吻が歴々とあるからこの記事も崩御後直ぐに記されたものとは思はれない。必ずや何程かの時日を隔てた物らしい。
然るに又八十三頁に

中納言    かりぎぬはいくのかたちしおぼつかな
とししげ   わがせこにこそとふべかりけれ

と云ふ連歌があつて是は續詞花集卷十九連歌部にも「法性寺入道前太政大臣の歌はもとを申てはベりければ源俊重」としてのせられてあるし、袖中抄が本書の記事を引くにあたりても袖中抄卷四中納言の下に「私云法性寺入道殿也」と註して居るからこゝに中納言とあるは法性寺入道忠通の事で、從うて本書が忠通の中納言であつた頃に書かれたものなるべき事は明かである。そして忠通が中納言であつたのは、天永二年正月二十三日より永久三年正月二十九日に至る四年間であるからこの記事は必ず永久三年の一月二十九日迄に書かれたものであらねばならぬ。
扨以上述べた所を約言して見ると本書中には堀州院中宮篤子内親王崩御あそばした永久二年十月一日以後に書かれた記事がありて然も其の崩御を記して居る口吻より察すれば崩御後多少の時日の隔つてあつた事も想像出來るのであるが、一方では忠通を呼ぶに中納言として居る以上必ずや忠通が中納言であつた頃の著述と考へられるから當然忠通が中納言より大納言に轉じた永久三年正月二十九日を以て本書著述の最後の年の限度としなければならぬ。故にかく考へると、本書は永久二年十月一日以後翌三年正月二十九日に至る約四ヶ月の間に完成した物と斷定出來るのであるが前にも云つたやうに例の中宮崩御を記する書き樣から考へると出來るだけ十月一日と云ふ日を遠ざかりて見る方が穩當であると思はれるから自分は、本書の著述が始まつた時は知らないが、要するに其の完結したのは實に永久三年正月中であらうと信ずるのである。なほ強ひて云へばこの中納言と俊重との連歌のあるのは中宮崩御を記した條よりもさきにあるからこゝ迄は永久三年正月二十九日迄に書き其の後の部分は二十九日以後に書いたと考へられないでもないし、又連歌の條も實は二十九日以後に書いたものであるがそれも叙目の日を去る事遠くなかつたので呼びなれた儘にふと元の通りに中納言と書いたものとも考へられないでもないが、かく解釋するのは所謂うがち過ぎた論でありこじつけた苦しい解釋とも云ふべきであつて穩當な見解ではなからう。
或る書の著述せられた年代を考證して、それが二三年の間に出來上つたらしいと云ふ風な結論に達せると、いかにも尤もらしく考へられて安心が出來るが、今の塲合のやうに餘りに年代が明確になつて來るとかへつてあぶなく思はれて來るが然し要するに俊頼無名抄の完成したのが永久三年の正月頃で高陽院が二十一歳の春で俊頼は六十歳位の頃であつた事は動かされないであらう。