万葉集仙覚抄所引古辞書に就いて

  • 岡田希雄
  • 藝文20(4): 249-277 (1929)

権律師仙覚の万葉集研究は、其の本文校訂事業が画期的であつたと同様に、註釈即ち仙覚抄の著述も、従来の諸研究の結果を集大成して、其の晩年に於ける蘊蓄を傾倒したものである故に、亦画期的なものであり、代匠記以前に於ける最も優秀なものであつた。其の学術的価値は四百二三十年の後に新註、即ち契沖の代匠記が現はれ引き続き種々の業績が現はれるに至つたので、仙覚抄の説そのものは、次第に崩れ行く傾向のあるのは事実であるが、しかし万葉集研究史上に於ける仙覚抄の価値は永久不変、代匠記と対立するものなる事は今更云ふ迄も無い。

仙覚抄は第一巻の終りに「文永六年二月二十四日記之訖、仙覚在判」とり、巻二、六、八、十三十五、十八等にも、其れ〴〵成立の年月日が明記せられてあり、最後の巻二十の終りには「文永六年孟夏二日於武蔵国比企郡北方麻師宇郷政所注之了、権律師仙覚在判」とありて、其の成立の年月日は至つて明白ではあるが、是れらの日附は、此の時新に註を施した事を意味するのでは無くて、草稿を整理完成した日時を示すものだと解釈せなければならない事は既でに定説である。註釈に着手した時期は不明である。

仙覚は自ら「アヅマノミチノハテ」に生れたと云つて居る事から知られる通り東路の道のハテなる常陸の人で、建仁三年に生れ、十三歳で万葉集研究の志を立て、三十年の後、寛元三年四十三歳の時に、万葉集諸本披見の因縁生じ、同四年七月には所謂新点を加へ、同年十二月鎌倉に於いて治定本を写し終へた。五十一歳の建長五年十二月には、新点に関する奏覧状を後嵯峨上皇に奉りなどしたが、其の後も、校合の業を捨てず、さて六十七歳で註釈を完成したのであつた。文永九年七十歳の八月以後の彼れの動静は判らない。彼れの奉じた宗門は天台宗であつたらうと云ふ〈仙覚全集所収仙覚律師伝〉天台宗の仙覚に対する真言宗の契沖は興味ある対照である。

現在流布の仙覚抄は権律師玄覚と云ふ特志家が、仙覚自筆の本を、其の完成後六年目の建治元年十一月から十二月にかけて、人に写さしめ、其の後、弘安三年より同四年へかけて、三度書入れを加へ、押紙を施した本の系統である。

平仮字整版本もあるが、明治四十三年に木村正辞博士の校合本が国文註釈全書に収められて以来、流布が広汎となり、大正十五年七月には、佐々木信綱博士編輯の万葉集叢書第八輯として「仙覚全集」の中に収められた。其れは竹柏園所蔵の古写本を底本として、神宮文庫所蔵古写本、彰考館文庫所蔵古写本を参照したところの片仮字本である。

仙覚抄の解説としては、古くは木村正辞博士の万葉集書目提要があり、新しいところでは、校本万葉集首巻下所収久松潜一氏の「万葉集註釈書の研究」〈大正十二年八月稿了/大正十三年七月追加〉また佐々木博士の「万葉集研究史」があり、更に又、最近のものでは、仙覚全集にも数種の論文が収載せられて居る。

仙覚抄の価値も亦論じつくされて居て今更云ふ迄も無い。古文献としての価値はさておき、万葉集撰述時代や撰者につきて、古今集の序を否定して聖武天皇の御代に、諸兄・家持が選んだとしたこと、長歌短歌説につき是れ亦、古今集序の謬説を排して明快な説を述べた事などは、総論として注意すべく、註釈としては、難歌六百九十余首につき、相当精細な解釈を施し、殊に、自分が常陸に生れて東国方言に親しみあり、解釈にも都合がよいからでもあらうが、東歌や防人歌の「夷詞…鬼語」の解釈に力を入れたこと、新点以外に異本研究により得た古点をも多く挙げて居ることなどを注意すべく、研究方法としては、僧侶であつた為めに、内外典にわたりて素養があり、更に悉曇の知識もあつたので、従うて契沖に於ける場合と同じく専門的な歌学者には見る事出来ないやうな研究も生れもし、古書を多く引用した為めに、既でに湮滅に帰してしまつたものゝ逸文を多く求めることもできるのである。しかして自分は、是れらの中でも此の最後の事実を以て、仙覚抄の価値として、比較的大きなものゝ一つと認めたく思ふ。


仙覚抄には内外典にわたり多くの書を引用して居る(仙覚抄本文以外の引用書をも含める。此の事は後に言及する)。其れらの中には、支那撰述のものも、我が国で出来たものもあるが、概して後者の方が吾人には親しみが深い。また既でに逸書となつて居るものがある。其れらの逸文はあながち、古いものを骨董的に喜ぶ訳では無いが、やはち吉光の片羽なのである。現在完全に残つて居るものにしても、其の本文を研究する上に於いて、又其の書の流布状態を窺ふ上に於いて、やはり看過はできないものである。しかして、引用せられて居る書としては、人により其の興味を引かれる事も異るが、自分としては、其の好むところに従ふて、辞書又は辞書に類したものに興味を感じる。辞書と云へば玉篇の如き支那撰述のものも捨て難きものであるが、自分がこゝに述べようとするのは無論、邦人の手に成りしもの二・三に就いてゞある。

五代集歌枕

  • 〈註釈全書本 六八頁/仙覚全集本一〇四頁〉ミワノサキ、五代集歌枕ニハ大和国トシルセリ
  • 〈九一頁/一四二頁〉安野ヤスノハ、五代集歌枕ニハ近江ト注セリ
  • 〈九一頁/一四二頁〉三笠社ミカサノモリ、五代集歌枕ニ大和ト付タリ、春日ノミカサノ森トオモヘルニヤ
  • 〈一一二頁/一七五頁〉ユフハ川、五代集歌枕ニハ肥後ノ国也
  • 〈一三七頁/二一六頁〉サラシ井、五代集歌枕ニハ、紀伊ノクニトイヘリ
  • 〈一五六頁/二四七頁〉トリノウミ、五代集歌枕ニハ常陸トシルセリ、香取、ヒダチニハアラズ下総也

右の如く僅かに、六条しか目に付かないが、其の断片的記事から察し、また五代集歌枕(註釈全書本では「五代集の歌枕」となつて居るところもある)と云ふ名称から案ずるに、此の書が歌枕の名寄の類であつたことが想像できる。国分けであつたか、仮名分類であつたか、其れとも其の他の標準による分類であつたか、または全く無標準であつたかは判らないが、とにかく歌枕の名寄せとして、歌に関する文学地理の辞書めいたものであつたらしい事が想像できる。五代集歌枕と云ふからは恐く、金葉集までの歌枕を挙げたものらしい。作者巻数など不明であるが、八雲御抄学書に「五代名所〈範兼〉」とあるものゝ事ではあるまいかと考へられる。然らば和歌童蒙抄の作者たる藤原範兼の著はしたものと見られる。佐々木博士の日本歌学史、藤井氏の大日本歌学史など、何れにも範兼の条に「五代名所」または「五代集歌枕」と云ふものは挙げて無いが、此の二書は同じもので範兼の著述であるとして支障あるまい。

和歌に地名を詠み入れる場合は、作者が実際其の地に至りて詠むならいさ知らず、然うで無くて、古歌にすがり、または、其の地名が一節あつて面白いが為めに、殊更よみ込まうとするやうな時には、よく注意せないと、地理上途方もない破綻が生じる。破綻は生じないにしても(生じたところで都に居る歌人同志の間では、破綻が知られずに済む事が多からう)人の一向知らない地名を詠みこんで居つては、名歌であつても人は相手にしても呉れないのであつた。だから勢ひ、歌人の間では歌に詠む名所に対する注意が鋭くなり、鋭くなればなる程窮屈になり、いろんな煩瑣な制限も生じて来たのであつて、是れらのことは、多くの髄脳類や歌合判辞により、よく窺ふことできる。斯う云ふ、煩瑣な制限が設けられ、歌枕に関する考へが窮屈になつたことは、一見愚であるやうではあるが、しかし、又一面から云へば、さう云ふ考へは、本歌取りや、俳諧の季と一脈通ずるものであつて、短詩形の歌に含蓄を生ぜしめるものとして、寧ろ是認なければならないものである。ともあれ、歌枕に関する考へは窮屈になり、其の為めに参考書として歌枕に関する著書が必要上生れて来、それが行はれると更に又、歌枕に関する歌人の考へを一層窮屈ならしめるやうにもなつた。是れも止むを得ないことである。

斯くの如くに歌枕の研究と云ふ事は、歌よむ人に取つては、軽視出来ない事であつた。其れで歌枕に関する著書も出るやうになつた。さう云ふ機運がきざしたのが、何時頃よりの事であるかは知らぬが、源氏物語玉葛の巻に「万のさうし、歌枕、よくあない見尽して云々」とあるのを見ると、此の歌枕と云ふのは、既でに一部の書としてまとまつた歌枕名寄とも云ふべきものゝことゝ見なければならないから、当時、歌枕に関する著者の存したことが窺はれる。殊に「万の」と云ふ形容詞的修飾語は、単に「さうし」のみにかゝる物では無くて「歌枕」にもかゝると見るのが至当であるから、歌親の類も、他の髄脳類同様に多数存したらしく想はれる。しかし現在われ〳〵が指摘し得るものは、公任の歌枕と、やゝ後れるが能因法師の歌枕、及びはつきり判らぬが、古歌枕と云ふものとである。(公任の新撰髄脳の残闕に「また歌枕貫之が書ける古詞日本紀国々の歌によみつべかなる所などを見るべし」とあるのを見ると、貫之にも既でに、何か歌枕に関する著述が存したやうに考へられるが、真相は判らない)。

公任のものは「四条大納言歌枕」として、仲実綺語抄に引用せられ(歌学文庫本 六・七・一五・三五・四〇・四一・五八頁)て居るが、綺語抄所引のものは、何れも歌語の解釈であつて、名所名寄であるとは見えないから、和歌色葉集〈歌学文庫本一四頁〉に「……諸国の歌枕は公任大納言えらび置給へり」と云つて居るものとはやゝ内容が一致せない趣きがあるのはいぶかしい(八雲御抄〈一の四五 右〉に「諸国歌枕」を公任の撰として挙げて居られるのは、何うやら色葉集の孫引らしいものである)。綺語抄所のものと、和歌色葉集に云ふところのものとの関係は今俄かに明かにする事は出来ないが、とにかく公任に名所名寄に関する著述の存したことは疑ひが無い。

此の外綺語抄に「山のつらとは古歌枕云あけぼのにたつ雲をいふ又かみまつらんとてしゐしはをりにゆく人のゆふかけたるをいふ」〈二六頁下〉また、顕昭の袖中抄巻五〈歌学文庫本五八頁〉に「或書〈和語抄〉くれはとりとは古歌枕云あやをいふ又説云……」などとあるところの「古歌枕」なるものも、此の逸文の語るところによると、必ずしも名所に関するものを云ふでも無らしい。

顕昭古今集註巻九〈五一頁下〉に「今案云ハヤソシマミチノクニノ歌枕ニモノセタリ」とあるものは名所に関したものだらうか、河海抄〈四三五頁〉に「歌枕とあるものも、其の引用文は名所に関したものである。

歌枕として最もよく引用せられて居るものは能因歌枕であらう。三巻ありて坤元儀とも称せられた。顕昭は拾遺抄註にて「能因が諸国歌枕三巻アリ坤元儀ト号ス」と云ひ、又古今集〈巻六・四〇頁〉にて「能因が坤元儀〈能因が坤元儀は諸国の歌枕を書する物なり〉」と説明して居り、八雲抄では五家の髄脳の一に数へられて居る。逸文は袖中抄に多く見えて居るが、そこでは「能因歌枕」「能因坤元儀」の両名で引用せられ、古今集註では能因坤元儀の名で引かれて居るが、能因歌枕の名は見えない。然して其の逸文を綜合すると、是れ亦必ずしも名所の名寄のみでは無く、歌語の註も存するものなること、能因歌枕として引用せられて居るものゝ中には、名所に関するもの、歌語の註であるものゝ二種が存するが、坤元儀として引用せられて居るものは、悉く名所に関するものなることが知られる。さうすると、此の書は歌枕とも坤元儀とも称ばれるが、其の内容は名所名寄のみでは無くて、一般の歌語や異名をも挙げたものであつて、名所に関するところだけが、特にまた坤元儀と呼ばれて居つたものでは無かつたらうかと云ふ疑ひも生じる。現在も能因歌枕と云ふものはあるが、僅か一巻数紙の片々たるもので、よしや河海抄所引のものと一致するにしても、決して顕昭の引用した当時のもので無い事は、袖中妙所引のものと一致せないこと、又顕昭当時のものは三巻のものであつたから想像せられる。

さて能因歌枕の次ぎに位するものが、範兼の五代集歌枕であらう。尤も清輔の初学和歌抄や奥儀抄にも名所の名寄は見え、五代集歌枕以後のものでは、和歌色葉集に見え、また八雲抄に更に詳しいものが見えて居る。

東宮切韻

東宮切韻二十巻(三代実録による、永仁本朝書籍目録には二十三巻と見えて居るものもある、通憲入道目録に十二帖とあるのは、合冊の事情によるものであらう)は文章博士菅原是善の著であつて、其の書名から察するに其の東宮学士(此の時の東宮は後の文徳天皇)であつた、承和十四年五月から嘉祥三年四月に至る間に著はしたものらしい。(江談抄には、菅公も手伝はれたと書いてあるが、嘉祥年中だと云ふと、其の時菅公まだ五六歳の幼童であつた。菅公が手伝はれたと云ふ事が事実ならば、東宮切韻の著述は、更に後であると見なければならない。)江談抄〈詩事〉によれば十三家の切韻を集めて大成したものであつて、韻書としては我が国に於ける嚆矢であるらしいが、遺憾乍ら既でに散佚してしまつたと見えて、今日では、逸文をあさり求める他致し方も無いのである。東宮切韻の逸文を有し、または書名を引いて居るものとしては、既でに引用したものゝ外に源順和名抄、天治本万葉集裏書(但し伴信友の検天治万葉集による)、台紀、覚明三教指帰注、兼実玉葉、信瑞浄土三部経音義集、字鏡集跋文、釈日本紀、河海抄、梵網古跡記補忘抄、杲宝般若心経秘鍵抄、由阿詞林采葉抄、元弘三年本五行大義の背記標註などであるが(此の中、信瑞音義と五行大義とが最も重要なものと云つてよからう)仙覚抄も亦、僅か乍らも東宮切韻を引用して居る。左に引用するのであるが、国文註釈全書本と仙覚全集本とにより、文句に相異が存し其の何れに従ふべきであるかを判定しかねるので極めて便宜的な引用で済ませて置く。

  • 〈註釈全書本一一頁/仙覚全集本一七頁〉東宮切韻ニ、云×釈氏云、×隅也為×、爾雅、正月曰孟×、麻杲云、説文聚居(×のところへは阝を偏とし取を傍とした字が入る)
  • 〈三六頁/五四頁〉東宮切韻曰、霰、雨雪雑下也、又作霓×、釈名曰霰星也氷雪相摶摶如㆑星而散也(×のところへは雨の下に鮮を書いた字が入る)
  • 〈一〇二頁/一六一頁〉東宮切韻曰、帔霊王翠帔以㆓翠羽㆒錺㆑之頒巾也云々(○但し此の条は、頭註であるから、仙覚の記したものであるか何うかは疑問である)
  • 〈一六一頁/二五五頁〉東宮切韻云(○此の条は、後に類聚名義抄のことを述べるところにて引用する)

僅か右の四条しか指摘できないのであるが、流石に吉光の片羽にもたとふ可きであらう。(孫引きであるにしたところで価値は変らない。なほ本書のこと宇槐記抄仁平三・五・二六日条に書名が見え、大矢博士韻鏡考によれば、前田家本倭漢年号抄に逸文が存すると云ふ。)

和名類聚抄

和名抄はありふれた書であるから、仙覚抄に僅か四条しか引用せられて居ないものに就き、彼れこれと説明する必要もあるまい訳であるが、和名抄のテキストを研究すると云ふ立場から云へば、やはり看過できないのである。

  • 〈註釈全書本二三頁/仙覚全集本三四頁〉順和名釈㆓畝字㆒、引㆓唐令㆒云、諸田広一歩……
  • 〈一六一頁/二五五頁〉順力和名ニイハク(○これは名義抄の条に於いて述べる)
  • 〈一〇二頁/一六〇頁〉王魚者、王餘魚也、和名引㆓朱厓記㆒云南海有㆓王餘魚㆒〈和名加良衣比/俗云加禮比〉昔越王作㆑鱠不㆑尽㆓餘半㆒棄㆑水、自以㆓半身㆒為㆑魚、故曰王餘〈已上〉(箋註〈八の十右〉には和名二字を添へないで、下総本有㆓和名二字㆒」と注し、又「故曰王餘」のところに関して、「伊勢本曰王餘下有㆓魚字㆒、那波本同」と注して居る。しかして仙覚抄には魚字が無いのであるが、しかし乍ら同じ仙覚抄でも仙覚全集本には魚字が存するのである。)
  • 〈一一頁/一七頁〉洲云々〔これは和名云々とは断つてないが和名抄(一の五七左)を引いて居るのである、但し注意する程のことも無い。〕

類聚名義抄

最後に、本書所引の名義抄について観察して見たい。名義抄は云ふまでも無く、一種の部首分類辞書であつて其の量の大であること、鎌倉時代の古写本が現存して居ること、高山寺本・観智院本・西念寺本・蓮成院本などゝ云ふ風な異本の存することなどゝ云ふ点で、新撰字鏡に次ぐものとして注意せられて居る。其の時代は不明であり、本文の中にも其の時代を暗示するやうなものゝ存する事が発見出来ないのであるが、慈念の奥書の趣から察するに、本書は、慈念とさ程年代的相違も無き頃の人で、慈念にとりては、あまり大して敬意を払ふ必要を認めなかつた程度の僧侶が、鎌倉極初期か平安朝末期の頃にものしたらしく察せられる。本書に四種の異本の存すると云ふ事情が、清書本と草稿本との関係で説明せらるべきであるか、又は著者以外の人の加筆に基くものであると解釈せらるべきであるかは、俄かに断定出来ないが、草稿本と清書本との関係で説明しても支障は無いと考へる。文永三年書写の六帖字書篇立なるもの(是れに関しては「国史と国文」誌上に於いて紹介をして居る)も自分は名義抄の一異本にして、しかも高山寺本よりも、更に、先行的のものではあるまいかとさへ疑ふて居る。

名義抄は辞書のことであるから、流布するにつれ、諸書に引用せられるのも当然であるが、其の引用を歴史的に考察する場合に、先づ言及せなければならないのは、此の仙覚抄であるらしい。但し仙覚抄所引のものは僅か一条存するだけであつて、しかも、仙覚自ら引用したものでは無くて、後人の書入れであるらしいのである。

さて仙覚抄の

吾妹子ワキモコニ不相久馬下アハスヒサシクムマシタノアハテヒサシモムマシモノ阿倍橘乃アヘタチ ナノ蘿生左右コチオフルマテニ

の歌の解釈の条〈全書本一六一頁/全集本二五五頁〉

ソモ〳〵アへタチハナトハ、ナニヲ云フト、アキラカニシリタルヒトカタシ。コレヲカンガウルニ、順和名ニイハク、七巻食経云橙〈宅耕反〉和名安太知波奈、似㆑柚而小者也。東宮切韻、云、橙、陸法言云、直耕反、柚属、郭知玄云子大皮黄皺、釈氏云、似橘、而大、麻杲云、葉正円広。博物志、春夏秋冬或花或実。淮南子橘樹至㆓江北㆒化為㆑橙

〈○右傍に●印を添へた文字は、木村正辞博士の校合本なる国文註釈全書本、及び佐々木博士の仙覚全集本とに於ける校異あるものにして、自分の見て正しと思ふ方を採用した。字が信字となつて居る本はよろしくない。陸法言は或る本には単に「法言」とのみあるが、東宮切韻の引用例――例へば信瑞三部経音義集所引逸文に於ける――に據ると陸法言(隋代の人)とある方がよろしいのであらう。郭知玄(○初唐人)は佐々木本に「動知言」ともあるのはよろしく無い。「釈氏」は木村本に「釈名」と書き、傍に「氏イ」と塙氏本による校異が記してあるが、是れは信瑞音義所引東宮切韻逸文等によると、劉熙釈名の事では無くて切韻の著者なる失名の某僧「釈氏」である、後中書王具平親王の弘決外典鈔には「弘演寺釈某」又は「弘演寺釈氏」と云ふ風に引用して居る。初唐の頃の人であつたらしい。麻杲が本によると鹿果とあるがそれもよくない、やはり初唐の人である。さて此の和名抄や東宮切韻の引用文に於いては、「似柚字小者」までが和名抄であり、「……葉正円」までが東宮切韻であるやうである。博物志、淮南子などは東宮切韻にすでに引用せられて居るのであるか、又は直接引用せられたものであるかは不明である。〉

とある直ぐ次ぎに

裏書云、私云、類聚名義抄㆑作㆑橙盲反、ハナタチハナ、カラタチ、タチハナ、アへタチハナ。柱陵反、又都鄧反、カケハシ、ハシ、正可㆑作㆑隥。呉六登或云、カラタチトハ、シヤケチ也云々。或似㆑柚而小云、或似橘而大云々。シヤケチノミ、其形尤相順歟〈已上〉。シカレハアへタチハナトイフハ、カラタチノ一ノ名ナルへシ (校異。須字、叢書本に順に作るはよろしからず、大盲反は全集本叢書本何れも丈盲反に作り全書本には塙氏本により「大イ」に作る、名義抄を参照するに大盲反とあるが宜からん。「或云」を全書本には「或人云」に作り、「相順歟」を全書本に「相にたる歟」に作り、塙氏本により「順イ」と註す。「已上」二字は全書本には見えず)

と見えて居る(「呉六登」三字全書本にも全集本にもかくの如くあるが、六字は名義抄では音字の略符号として使用せられて居るものであるから、「呉六登」は「呉音登」の義である)さて、此の名義抄の引用文を含む裏書の文は、木村博士の校本によつた全書本にも、亦佐々木博士の仙覚全集本にも、何ら諸本により在る無しの注意が無いから、何れの本にも此の裏書の文は存して居るものと認められる。

さて此の記事では、名義抄の引用文が何処までゝあるか一寸分りかねるが、是れを名義抄中の一異本として、現在最も優秀なる観智院本第三巻四七丁左に比較すると「呉六登」とあるまでゞあることが判る。さて観智院本では

〈大盲× ハナタチハナ カラタチ タチバナ アベタチハナ/柱陵× 又都㔁× カケハシ ハシ 正可作隥呉・登〉

と成つて居り、殆んど一致するが「須作橙」と云ふ三字だけは見えない。名義抄は概して、或る一字に関して其の異体の文字を挙げるのが普通であるから、此の橙字に就きても、観智院本にこそは異体のものが挙げては無いが、他に、異体字を挙げて「須作橙」と注したやうな異本があるのかも知れない。でとにかく、此の引用文は、観智院本に殆んど一致はするが、観智院本を引用したものとまでは想像せられないであらう。高山寺を引いたのであるか、西念寺本であるか、蓮成院本であるか、はた又其れらとは異らし別の異本であつたかは要するに不明である。

そはともあれこゝに看過すべからざるは、右の逸文的断片記事が仙覚抄の本文中に出て居るのでは無くして「裏書云」として見えて居ることである。仙覚抄の本文では無くて、裏書の文として此の逸文が出て居るからには、是れが果して仙覚の筆録したものであるか何うかと云ふ事が、問題にならなければならない。しかし是れが解決の方法は、本文の説と裏書の説との相異乃至は矛盾と云ふ点を問題とする外はあるまいと思ふ。

其れに就いて先づ述べて置きたいのは仙覚抄の古い時代に於ける装潢の様式である。

云ふ迄も無く裏書は、其の詞の示す通りに、紙背に書かれたものであるから、裏書せられる場合には、其の時の書籍は、袋綴や粘帖装の冊子本である筈が無い、必ず巻子本又は其れに準べき折本で無ければならない。若しさうで無い場合には、粘葉綴には、粘葉綴の一種、即ち一枚の紙を二つ折りにして、其の折り目に糊をつけて、順々に何枚も〳〵を重ねて行き、相当の厚味とすると云ふ型式のもの(普通の粘葉は数枚を重ねて一度に二つ折りにして、其れを西洋綴ぢ式、又は大福帳・判取帳式に綴ぢるものである)の中で、紙の内側となる面のみに文字を書いて、外側となる面を白紙にて残して置くと云ふ場合に於いても、其の白紙であるところに裏紙が記され得る筈である。但し此の種類のものは、行はれることが少かつたやうであると云はれて居る。でとにかく、或る本に裏書が存すると云ふ以上は、必ず其の裏書の施された時期に於ける其の本の装演は、巻子本または其れに準ずべき、裏書の施されるのに都合よき型式であつたことを認めなければならない。仙覚抄も亦其の例に漏れなかつたのであらう。恐く巻子本であつたものと見える。巻子本の型式は、繙読に不便であるから、現在のわれ〳〵としては余り歓迎せないものであるが、当時としては、書物に権威をもたせると云ふ点で、案外喜ばれて居たかも知れない。又一面から云へば、訂正増補するに当り、切り継ぎが容易であつたと云ふ点も便利がられた事と察せられる。

さて、此の裏書の記事が、仙覚により書かれたのであるか何うかに就いて、其の記事の内容を考察して見よう。

仙覚は「あへたちはな」を何と心得て居つたであらうか。「あへたちはな」も今日でも未だ其れが現実の何を意味するかは決定して居ないやうである、それのみならず「あべたちばな」と発音すべきであるか「あへたちはな(饗立花)」と発音すべきであるかも未定と云つてよからう。(名義抄にはアベタチバナとあるから暫くあべたちばなに従ふて置く)。

仙覚の当時に於いても亦一般に不明であるとせられて居たことは彼れが「ソモソモアへタチハナトハ、ナニヲ云フト、アキラカニシリタルヒトカタシ」と云つて居る事により明かである。然るに仙覚は、和名抄を引用して「橙」であるとしたのである。がしかし、彼れが和名抄を引き東宮切韻を引用して居る具合から察すると、彼れは単にあべたちばなとは漢字にて橙字を書くと云ふ事、及び其の橙とは「似柚而小者」または「柚属」「子大皮黄皺」「似橘而大」「葉正円」と云ふ風な外形的条件を具備して居るものであると云ふ事を知つたまでゞあつて、其れが果して実際のものとして、何を指すのであるか又其の物を其の当時何と呼んで居るかを知つて居つて書いたものとは考へられない書き様である。(袖中抄巻十四にもアべタチバナが何であるかを述べて居るが明確な説明では無いやうだ。)とにかく、仙覚抄の記事は説明がはつきりとせないので、仙覚が「あべたちばな」を「からたち」に擬して居るとは到底解せられぬ書き方である。然るに裏書の記事では「あべたちはな」は「からたち」であると云つて居る。本草学に於いて、古き名を現実の如何なる植物に当てる可きかは、甚だ難しい事にして、自分も相当査べはしたが、あべたちばな、からたち、じやけちの関係は未だ明かな概念を掴み得ない次第である。で当時のからたちが何であるかと云ふ事も問題とすれば問題になるし、又あべたちばなが、真実其の頃のからたちと一致する物であつたか何うかも問題ではあるが、ともかく裏書はあべたちばなが、からたちであることを明言して居るのである。此の態度は仙覚があべたちばなとは「橙」であると云つて居るだけで現実の何であるかに言及せないのに比べると、一歩進んだものであり、仙覚の説を補うたものであり、あべたちばなを橙の事とする仙覚の説を出発点として派出した説である。仙覚の説よりは後れて出た物であると云へる。さて仙覚が一と先づ仙覚抄本文所見のあべたちばなを橙とする説を述べた後に至り、更に研究の結果あべたちばなのからたちなることを知つた場合に、前説を訂正する意味で新しき訂正説を記入するのであるならば、元来巻子本として、切り続きに都合のよいやうに出来て居たものである以上、何とか他に仕様がありさうなものである。切り続きにより本文を改めるのが面倒であるならば、頭註の型式を採用してもよい。否むしろ、其れが訂正説を書入れる場合としては、最も似つかはしいものである。しかるに事実はそれに反して、殊更らに、裏書とせられて居るのである。して見ると理論上、この裏書は仙覚自身が書いたものでは無くて、仙覚とは別人で、仙覚抄の本文を改竄することを憚り、又頭註の型式で書入れることをすら憚つた人が、遠慮しながら書き入れたものと見る他は無い。

「あべたちばな」に関する裏書の性質を考察するに当り、他の裏書をも考察して見よう。

仙覚抄の裏書は、自分の検したところでは、都合五箇存するやうであるが、其の中の四例は、何れも仙覚抄本文の説と一致せざる説、むしろ本文の説をもどく気味のあるものばかりである。即ち

  • (一)久堅之ヒサカタノ天爾知流アメニシラルヽ君故爾キミユヘニ日月毛不知ヒツキモシラズ恋渡鴨コヒワタルカモの条〈全書本六〇頁/全集本九二頁〉に、本文としては「アメニシラルヽ君ユへニトハ、人ハムマレオツルヨリ、寿限イツマデアルベシト、梵天帝尺日月星宿ミナテラシタマヘリ、人ノ寿ヲバ、天命ト云也。シカレバ、コノミコノミコト、イツマデオハシマスべシト、アメニミナシテレテオハシマシケルキミユへニ、……」とあるのに「裏書云、押紙云、私云」として「天ニシラルトハ、死テハ天ニノボルト云歟。高日シラレヌト云モ此心歟。昇霞〈○昇遐ならむ〉ト云モ同事歟。寿限事頗不審也、如何能々可決之……」と云ふ風にもどいて居る。
  • (二)姫島の条〈六二頁/九五頁〉は、本文には豊後国とあるが「裏書云、押紙云、私云」として接津風土記を引きて「如此記者姫島松原接津国也……比売島ハ、縦雖有豊後国、今歌ハ、ツノクニノヒメシマヲヨメル也」と云つて居る。むろん本文の説を否定して居るのである。
  • (三)貧窮問答の序文の条〈一〇四頁/一六四頁〉に「必 サンウシナフ ヲ ヲ㆒トハ、人ハアマリナケバ、眼ヲナキツブスコトノアル也。コレヲウシナフノ ヲト云也」と本文にあるが、「裏書云」として礼記第二、弓檀上に「子夏喪㆓其子㆒而喪㆓其明㆒〈明目精也〉……」とあるを引きさて「私云、如㆓此 ノ㆒者、モスルノ㆑子之時、 フト㆓其 ヲ㆒云々。今詞以同前歟。只アマリニナケハ、眼ヲナキツブスト云ニハ、アラザルニヤ。」と云つて居る。これ亦本文の説をもどいて居るものである。
  • (四)人麿が石見国より妻に別れて上り来る時の長歌の条〈五一頁/七九頁〉に敷妙乃を解釈して「シキトハシゲシトイフコトバ」と云つて居るが、「裏書押紙云私云」として「敷妙トイフハ敷義歟、シゲキ義不審、可㆑決㆑之」と見えて居る。やはり裏書の内容は、本文に現はれて居る仙覚の説を認めない態度である。
  • (五)例の橙の条である。

さて是れら(一)(二)(三)(四)は何れも仙覚抄の本文の説をもどいて居るものである、単なる増補訂正では無い。単なる増補訂正ならば、著者自身でもなし得るところであるが、もどくと云ふ事実は、原著者では出来ないことである。従うて是れらの裏書、即ち増補・訂正の域を越えて、既にもどく気味の内容あるもの共は、決して、著者の記したものでは無いと云はなければならぬ。而して、「あべたちばな」の条の如きは、幾分、他の四例に比べると穏やかであつて、もどく気味の少いものであるが、其れでも是れは、やはり著者自ら後になりて記した増補・訂正の記事であるとは解釈せられないのである。故に、(一)(二)(三)(四)と同じやうに(五)の「あべたちばな」も、仙覚以外の人が、記したものと認めなければならぬ。と同時に、仙覚抄は此の裏書が記された当時には――其れが仙覚の自筆本であつたか、それとも玄覚が他人に、其の仙覚自筆本を書写せしめた以後の本であるかは問ふところでは無いが――其れが、裏書の記入せられるのに、都合の良いやうな、巻子本の型式であつたことを想像せなければならぬ。

さて裏書が、仙覚の記したもので無いとすると、其れは文永六年の註釈完成の頃に記されたもので無くて、更に其れよりは後の記入であつた筈であるから、其の記入せられた時代や、記入者は明かにするのが困難である。が、念頭に浮ぶのは、仙覚抄を伝へる点に力あつた玄覚の事である。云ふまでも無く、今日流布の仙覚抄は玄覚の手を経た本の系統のものであつて、彼れは弘安三年春以来、弘安十年九月に至る間で数回本書に筆を加へ、自ら其の由を丁寧に記して居るのである。しかし乍ら、こゝに注意すべきは、玄覚自身は「書入」旨々とは云つて居ないで、何の巻の奥書に於いても、「押紙」云々と記して居ることである。押紙と書入れとは性質が異ふものである。書入は本文に――概して表側の本文中に傍註として、又は頭註の型式で以て――記入せられるものであり、押紙は本文のところに直接に記入せられること無しに、添附せられた小紙片に書入れられるものである。書入れと押紙とは、其の態度が別である。書入れは、概して、本文中に書き込まれるものであるから、本文を汚しもし、又冒涜する事にも成り、それが転写せられる場合には、書入れが原著者のものか何うかゞ紛らはしくなる惧れが存する(書入れ筆者が、念を入れて、一々、某云と云ふ風に、自分の名前を添へて記す場合ならば、紛れる心配は無い。朱筆などで加へても、其れはやはり何時の間にか混同せられがちに成る)。それに反し押紙を加へるのだと云ふと、本文を汚し、又冒涜し、又転写の際に混同を生ぜしめる惧れが――全く無いとは云へなからうが――少いものである。故に、書入れに比べると押紙は、謙遜な又慎重な態度である。(更に、裏書として書入れし、又は裏に押紙を張ると云ふ態度は、一層、本文を冒涜する事を憚つた態度である。しかして玄覚は押紙を施した事は云つて居るが、書入れを施したとは云つて居ない。此の事実に拘泥することは感心せないものであるかは知らないが、とにかく、此の玄覚の言に従ふ時は、現在見る玄覚本系統の仙覚抄に存する仙覚以外の人の記したものと覚しき書入れの中で、「押紙云」と云ふ風にあるものだけは、是れを玄覚の説であるとは認めてよいが、他の押紙云と断つて無きものまでも玄覚の説であるとは云へまいと思ふ。尤も玄覚が押紙の型式で物して置いたものを後に転写した人が、押紙云と断ることを怠りしものも無いとは云へ無からうが、しかし玄覚の加筆は何所までも、押紙の型式であつたと解する方が穏当であらう。故に、木村正辞博士が万葉集書目提要で「書中、私云私勘とあるものは皆玄覚が加へたるにて仙覚が旧文にはあらず」と云はれた事は首肯しかねるとろである。

さて「裏書云」とある中の四例までは「押紙云」と見えて居る。しかして名義抄に関するものだけは押紙云とは断つてないのである。是れを其のまゝに信用して別段大きな支障もないのではあるが、また別の解釈も不可能では無い。即ち、こゝにももと〳〵押紙云とあつたのであるが、何かの機会に脱落したものではあるまいかとも云ひ得る。更に想像を巡らさば、押紙云々とせらる可きものが最初から書き漏らされたのであらうと云ひ得る。本書中に単に裏書云とあるのが、僅か是れ一例であるのを見れば、然う云ふ解釈も強ち不当であるとは考へられない。とは云へ、名義抄に関する書入れが押紙で無くて、実際文字通り裏書の文句であつたにしてかまはないのである。

ともあれ、仙覚抄の押紙には、表側に施されたものと、裏側に施されたものがあつた事を、現在流布の本から見て、承認せなければならない。そして其の表面に施されたものは、すなほに玄覚の押紙と解釈すべきであらう。しかし裏側の物までも玄覚のものか何にかは判らない。同じ人が、或ひは表側に施し、或ひは裏側に施したと云ふ事を承認するならばいさ知らず、普通ならば、別人の所業であると解釈したい所である。

要するに、以上述べたところ、仮設ばかりであつて、何等真相をつきとめる事も出来なかつたが――恐く此の問題は永久に解決が不可能であらう――とにかく、自分は、裏紙云とある押紙は玄覚以外の人の施したものなること、又名義抄に関する裏書も元来はやはり押紙の型式であつたことを認めたい。是れらの想像説が、よしや根底の無きものであつても、名義抄に関する裏書が仙覚以外の所謂後人の筆であることだけは、多弁を要せない事実であると信じる。

かくて名義抄に関する裏書が明かに仙覚の施したものでは無く、又、玄覚の加へたものでも無いとすると是れが施された時代は早くとも、弘安十年九月以前に上ること出来ないものである。しかして、

詞林採葉抄巻八〈○国文註釈全書本一〇三頁〉「阿倍橘〈府橘甘子〉の条に「吾妹子に逢はで久しも」の歌を引き

此アヘ橘ヲアツ橘ト詠○マゝルヽ先達多之……因𢮦 ルニ カ ヲ㆒七 ノ ニ云橙〈宅耕反和名安部アヘ/太知波奈〉 テ ニチイサキ者也東宮 ニ曰橙〈柚ノ類〉郭知 カ ク ニシテキハミシハメリ焉類聚名義抄云橙河倍多知波奈甘 ノ皮ノアツクフツヽカナルアリアヘ橘ト云ヘキ證跡如斯

〈○附記右は主として京都大学図書館所蔵の古写三冊本により引用した。該本には、「日野庫」と云ふ陽刻朱印が存する。〉

とあるのは明らかに仙覚抄に拠つたものであるから、由阿の見た仙覚抄には、既でに此の裏書が、裏書の形式を離れて既でに表側の本文のところへ書き添へられて存して居つた事が判るから、此の裏書は仙覚抄の出来上つた文永六年より、採葉抄の出来た貞治五年に至る足かけ九十八年の間に加へられた物と云ふ事だけは判る。玄覚によつて記された物か何うかと云ふ事までを推定せんとするのほ既でに述べたやうに無理であらうが、自分としては玄覚以外の人により施されたものであらうと想像するのである。とにかく、仙覚抄裏書に、名義抄の名の見えることは、それが名義抄の引用としては、最も早い時代のもの一つである点で、注意すべきである。しかしてこゝに引用せられたものは、其の名称が、高山寺本の如き「三宝類字集」と云ふ風な名称でないから、恐く観智院本系統に近い、類従名義抄と云ふ書名を有するものであつたことを認めなければならないであらう。(昭和四・一・二八)

(附記)此の小編中に於いて東宮切親に関する記事を物するに当り、「五行大義」所引のものに就いては、専ら島田博士の古文旧書考及び富岡謙蔵先生の「五行大義」(藝文第六年第十号〈大正四年十月號〉とに拠つたのであるが、本小編に編輯部那波氏の御手許にまはして後十数日、本日に至り吉沢義則先生より、当大学に其の五行大義の古写本が借用してあるから見よとの御注意を賜つたので早速図書館に参り、山鹿司書官の御尽力により、該本を一見する光栄を得たのである。該書は尊貴なる某家(殊更憚りて御名を挙げずに置く)の御所蔵にして、いかにも古色蒼然、鎌倉時代の古写本として、床しいものであつた。本文には乎古止点及び一・二・三などの反点が施してあり、片仮字の訓もところ〴〵存するが片仮字の字体は比較的古体のものが少いやうである、片仮字で示されたる字音仮名遣や国語にも相当注意すべきものが存するが、一般学者に取りて興味を感ぜしめるのは頭註、脚註、紙背の註文であつて、自分としては、殊に東宮切韻の逸文が尊く思はれた。「東宮切韻」と標記してあるもの以外に「麻杲云」「清徹云」と云ふ風に引用して居るものも多いが何れも東宮切韻の孫引なることが断言できると思ふ。其れらのものを全部抄出したならば、随分な量に上るらしい。信瑞の三部経音義集以上であるやうに自分は信ずる。今までは故文旧書考に引いてあるものが、全部であると云ふ風に考へて居たのだが、其れが誤解である事を知つた。東宮切韻の研究に於いて此の古鈔本を逸する事は全く不可能であらう。然かく本書中の逸文は尊きものであるから、其の全部を抄記したく思ふのであるが、此の古鈔本は既に、こゝ数日の中に、其の尊貴なる某家の秘庫に御返し申し上ぐ可きものとかにて時間が無く、しかも自身は目下雑務多端なると健康上の事情とにて、其れが出来ないのは千載の恨事、長蛇を逸する思ひがする。再び披閲する機会は恐く無き事と思ふのでせめて今日の眼福を紀念せむとしてこゝに筆を取る次第である。(昭和四年二月二十日記)

再記、其の後右の五行大義は幸ひにも拝借の期間延長が許れて、目下寸暇をぬすんで必要な所を抄写して見る事を云ひ添へて置く(三月二十九日記)