日典日奧舊藏の温故知新書

  • 岡田希雄
  • 書誌學 11(3): 94-95

臺灣の神田喜一郎氏が、本誌〈昭和十三年四月七月兩號〉で「妙覺寺常住日典」の題名の下に、日典の藏書印ある古書につき述べて居られ、ことに「補正」では、他日日典舊藏書目を作りたいと云つて居られるので、後れ走せながら私の見た日典日奧舊藏の温故知新書について紹介する。

温故知新書は上中下三卷の節用集式辭書である。たゞ節用集は色葉分類し、さて意義分類したものだが、知新書は五十音分類し、さて意義分類して居る點が根本的に異るのであり、此の五十音辭書である點が本書の大特徴である(五十音辭書としては現存本中の嚆矢)。文明十六年に出來たものだから相當に古い。私が此の書の事を知つたのは、二十年足らず前の學生時分に〈其の頃神田氏は東洋史の學生で一年上であつた〉赤堀氏の國語學書目解題や橋本進吉博士の大著「古本節用集の研究」を見た時が最初だが、其の頃は、本其のものは見る事出來ず、本を見たのは、新村博士が此の本を引用して居られるので、先生の御藏本の恩借をお願ひした昭和三年頃だつたと思ふ。原本は前田侯爵家の藏本であつて、其の影寫本が史料編纂係にあり、其の影寫本を影寫させたのが新村博士本であつて、流布は極めて珍しいから本書に言及したものとしては、昭和九年九月刊行の岡井愼吾博士の日本漢字學史(僅々十行の文)がある位だが〈日本文學大辭典にも見えさうで見えない〉昭和十一年七月に、三ケ尻浩氏が京大研究室本(私は此の本を見た事が無い)を底本として、謄寫版で出されたから今では先づ少しは流布して居ると云へる譯である。三ケ尻氏の本には五頁の解説も添うて居る。ところで私は昭和十年七月、著述當時を去ることさまで遠くないと思はれる前田家の古寫本を見せて頂き、十一年九月の「國語國文」誌に「五十音分類體辭書の發達」と云ふ文中で解説を試みた。知新書のみの解説で無いから簡單で、僅か四頁分のものであるのも止むを得ない。前田家古鈔本の事も其中で言及して居る。さて、此の知新書に日典や日奧の藏書印があるのだ。「妙覺寺〈常/住〉日典」と云ふ縱印は中下兩卷々首に、「妙覺寺常住日奧」と云ふ横印は上中兩巻々首に見える。字體は楷行交りで、外郭が無いため、新村博士の轉寫本などを見ると單なる朱記であるかの如く見えるが、前田家の原本を見れば、印記である。しかし、印肉や紙の加減によるかまるで朱記の如くに見えるから面白い。

日典や日奧の事は私も少し調べたが、日奧が堅法華中の堅法華で、法華を信ぜざるものに非ざれば施を受けず施さずと云ふ信條を堅持して、同じ法華宗のものとも妥協せず、且つ秀吉・家康・家光等に抗して二度も對馬に流され、不受不施派の祖と成つたのを痛快に思ふ。不受不施派は然う云ふ極端なものだが、此の中から又不受不施講門派〈日奧の孫弟子日講を祖とす〉が出で、何れも邪宗として幕府より禁ぜられ、明治九年に不受不施派が、ついで明治十五年に講門派が公認せられ、同じ備前御津郡金川村に、前者の本山妙覺寺と後者の本山本覺寺とが對立するに至つたのだが、寺數は昭和五年末に於いて、前者は四ケ寺、後者は五ケ寺(大正四年末では、一ケ寺と三ケ寺とである)と云ふ微々たる教務である。しかも其れ〴〵管長があるのだ。そして私は不受不施派の管長妙覺寺の日壽師が京へ來られた時にお目にかゝり、これらの事を承つたのである(佛教大辭彙にも見えて居る)。因みに今の京の妙覺寺は、不受不施派とは無關係だ。明治に成りて不受不施派の公認せられた時、日奧の住して居た妙覺寺に因み、備前で妙覺寺の稱を採用したまでゝある。

さて知新書の事は、詳説するにも及ばぬから止めるが、史料編纂所に居られる畏友後藤丹治氏が、國語國文に出た私の文を見て、早速、氏が大正十四年頃、神田の村口書店で見られた古寫本平家物語にやはり「妙覺寺常住日奧」の印があり、この本、文理大に購はれた由の教示を受けた事を附記して置く。日典の印もあるか何うかは知らぬが參考に擧げるのである。温故知新書と云ひ、平家と云ひ、何れも外典であるのが興味を引く。

  • (昭和十三年七月三十日)