一 業平中將と王侍從との相撲

われ〳〵が大鏡を讀む時には、たゞ何氣無く獨りで讀む時も、教科書として教室で解釋する時でも、概して、事實の穿鑿には觸れないのが普通であるやうであり、たゞ本書の成立年代の考察を試みる時のみ、其の考察に役立ちさうな事項の考察に努力する位の事であるが、若し、然う云ふ目的からのみで無く、大鏡の記事を吟味すれぼ、史實としていかゞはしい事も多いのではあるまいか。自分は特に調査したのでは無いが、偶然氣づいた例につき述べて見る。但し、それは極めて些細な事であり、且つ遼豕燕石に類した事である。
宇多天皇の條に、天皇が未だ孫王であらせられた時分の御事を記して

「王侍從など聞えて、殿上人にておはしましける時、殿上の御倚子いしの前にて業平の中將と相撲取らせ給ひける程に、御倚子に打ちかけられて勾欄折れにけり。其の折れ目今に侍るなり」

と、かなりに名高い事を記して居る。しかして此の文句は大鏡の何の本にもあると云ふのでは無くて、本によつては無いものもあるのであり、――京大寄托本や所藏本を檢しても、此の條の無い寫本がかなりにある。岩波文庫本も此の記事の無い系統の本である――後人の加筆したと覺しい流布本のみに存する文句であるから、大鏡の文句として原形的なものとは云へないのは事實だが、とにかく流布本に存する以上は、やはり輕視する譯にも行かない。ところで此の文句の眞實性が甚だ疑はしいのである。業平の年齡と宇多天皇の御年齡とに關して疑ひを抱かないならば、漫然看過できるのであるが、自分は漠然、其の兩者の關係に疑ひを感じて、改めて査べて見たところ、果して自分の疑ひは無理も無いことであつたのである。蓋し、此の相撲のお相手をつとめたと云はるゝ在五中將業平は陽成天皇の元慶四年に、五十六歳で歿した人であるが、肝心の王侍從即ち後の宇多天皇は、業年の歿した元慶四年には未だ十四歳の御年であらせられた。十四歳と云へば、今日ではほんの小學卒業生の年齡である。元慶の當時に於ける、十四歳の少年は今日の十四歳の少年に比しては早熟であり、しつかりして居たであらうが、しかし、五十六歳の業平が、十四歳の少年と大人氣無くも、御椅子の前で――無論主上陽成帝の御不在の時を窺うての事であらうが――相撲を取る事があるだらうか。これは甚だ疑はしい。しかして、お二人の相撲をば元慶四年と見ず、それより少しでも前の事と見ると、業平は、愈々年甲斐も無く、幼い孫王と力競べをした事と成る。これは宇多天皇が王侍從と申して、殿上人でおはした時期を全く考慮に入れないにしても、甚だ不合理な事であると云はなければならぬ。斯う考へて來ると、此の相撲の話は、業平が關係して居たとすれば、其の年若い頃の事と見たく、從つて其の相手は、宇多天皇であらせられたとは見られなくなり、若し又、まさしく王侍從に關した話であるとすれば、其のお相手は、業平では無かつたと見なければなるまい。とにかく此の相撲の主人公には、疑はしい點があると思ふ。但し、佐藤球氏の明治書院刊行校註大鏡をはじめとして、鈴木弘恭氏の大鏡註釋、日本文學大系〈山岸徳平氏擔當〉藤田豪之助氏の廣文堂本。松本龍之助氏の詳註大鏡、池邊義象氏の新註對譯大鏡、芳賀博士の國文口譯叢書本、落合直文小中村義象〈池邊義象氏の事〉藤氏の大鏡詳解・博文館の校註國文叢書本、大石千引大鏡短觀抄、又は立命館大鏡選などには、何ら、其のいぶかしい事にも言及して居ない〈以上は大鏡のテキストや註釋書として、自分の見得るものゝみを無秩序に擧げたのである〉
さて何故實際は無關係の業平が此の話に出て來るのであるかを考へるに、業平は假名書きすると「なりひら」であるから――流布本版本や、和本史籍集見本などには假名書きしてある――業平以外に「なりひら」と云ふ人があり、其れに業平の文字が當てられたのでは無いかと云ふやうな疑ひも生じるが決定は出來ない。又「なりひら」には魯魚の誤りがあるのだと見て、假りになりひらは「なかひら」であるのでは無いか(に酷似したのあるのは云ふまでも無い、同じ宇多天皇の條に、源氏になり給ふとある「くゑんじ」が流布本版本で「からいしもの」と誤られて居るのは誤字の著しいものとして有名である)其のなかひらは、關白基經の子息、三平の一人枇杷友大臣仲平の事では無いかと云ふ疑ひも生じる。そして、元慶八年宇多天皇が御年十八歳にて源氏を賜り、臣籍に列し給うた時には、仲平は十歳の少年であつたのだから此の方は、仲平が權臣基經の子息として、童殿上でもして居たと見る時は、少々お二人の相撲の可能性もある譯であるが、其れにしても、元慶七年の事とすると、九歳の仲平と、十七歳の王侍從との相撲であり、それこそ眞にとても相撲にはならぬ譯である。まして年上の王侍從が、十歳までの幼童に負かされると云ふ事も萬々あるまい。すると、仲平と見る事も問題には成らない事と成る。要するに、御椅子の折目に關する相撲が、王侍從に關したものであるとする以上は、其のお相手は業平であつてもならないし、又仲平である筈も無かつた譯である。此の疑問は些細な事だが解決はつくまい。さて此の相撲の話は今鏡ふぢなみの章白川のわたりの條にも見えて居るが、やはり業平の事として居る。大鏡流布本の成立期の事は知らぬが、今鏡の記事を大鏡に基いて書いたと見ないにしても、大鏡の記事と同源である事は云ふまでも無い。なほ落合小中村兩氏の註には、古事談にも此の事が見えて居る由だが、檢索粗漏にして未だ何と書いてあるかを窮め得ないのである。

二 師輔傳の夢物語

師輔傳に

「大かた此の九條殿いとたゞ人におはしまさぬにや。思し召しよる行末の事なども、かなはぬは無くぞ、おはしましける。口惜しかりける事は、いまだいと若くおはしましける時、『夢に朱雀門の前に、左右の足を西東の大宮にさしやりて、北向きにて内裏をいだきて立てりとなむ見つる』と仰せられけるを、御前になまさかしき女房の候ひけるが、『いかに御股痛うおはしましつらむ』と申したりけるに、御夢ちがひて、かく御子、むまごは榮えさせ給へど、攝政關白えしおはしまさずなりにし。又御末に思はずなる御事のうちまじり、帥殿〈○伊周〉の御事なども、これがたがひたる故に侍るめり。いみじき吉左右の夢も惡しざまに合はせつればたがふ、と昔より申し傳へて侍る事なり。此の聞かせ給ふ人々荒涼して、心知らざらむ人の前にて、夢語りなしおはしましそ」

とあるが、此の夢の話に酷似した説話は他にも存する。其は應天門に放火して流されたトモノ大納言善男に關してゞあつて、江談抄卷三に見えるのである。

伴大納言事
被談云伴大納言者先祖被知乎答云伴〈ノ〉氏文大略見候歟哉被談云氏文〈ニハ〉違事〈を〉傳聞侍也伴大納言〈ハ〉本者佐渡國百姓也彼國郡司〈ニ〉〈天ソ〉〈ケル〉ソレニ彼國〈ニテ〉善男夢中見ヤウ西〈ノ〉大寺〈ト〉〈ノ〉大寺〈トニ〉〈テ〉〈タリツト〉〈テ〉〈ノ〉〈ニ〉語此由妻云ミトコロノ胯〈丁タコソ八七カレメト〉〈ニ〉善男驚〈テ〉無由事を語〈テ个ルト〉恐思〈テ〉〈ノ〉郡司宅〈ニ〉行向〈ニ〉件郡司極〈タル〉相人〈ニテアリケル〉年來〈ハ〉七モイハ又ニ俄夢〈ノ〉後朝行〈タルニ〉取圓座〈天〉出向〈天〉事外〈ニ〉饗應〈シテ〉召昇〈ケレハ〉善男成怪〈テ〉且又恐樣我〈を〉スカシテ此女〈ノ〉イヒツル樣〈ニ〉無由事〈ニ〉〈テ〉〈カヽムスルニヤト〉思程〈ニ〉郡司談云汝〈ハ〉高名高相夢見〈テ〉ケリ然〈を〉無由人〈ニ〉〈ケレハ〉必大位〈ニ〉〈ルトモ〉〈テ〉其徴故〈ニ〉不慮外事出來〈テ〉由事歟〈ト〉〈ケリ〉然間善男付縁〈テ〉京上〈シテアリケル〉〈ニ〉七年〈ト〉〈ニ〉大納言〈ニ〉〈ニケル〉〈ニ〉彼夢合〈ノ〉〈ニテ〉配流伊豆國云々此事祖父所被傳語也又其後〈ニ〉廣俊父〈の〉俊貞〈モ〉彼國〈の〉住人〈ノ〉〈リシナリトテ〉〈リキト〉云々

右は高山寺舊藏本殘缺江談抄〈神田氏現藏〉に據り、原のまゝの體裁で引用したのであるが――因みに云ふ、此の夢話の條は、醍醍寺の殘缺本には見えない。類從本江談抄と此の二種古鈔本との關係は、醍醐寺本の方が高山寺本よりも類從本に近いのであるから、若し醍醐寺本に此の夢の記事が有するとすれば、高山寺本よりもやゝ類從本に近いものであらうかと考へられる――此の話の出て居るものとしては、古事談卷二と宇治拾遺物語卷一とが存するが、古事談と宇治拾遺との關係は、殆んど原文と其の書き流し文との相異ぐらゐの程度である。兩者間に關係ありとせば、古事談の文から宇治拾遺の文が出たものと見られる。宇治拾遺の文は二種の江談抄の文と直接の關係があるとは、絶對に見られない(例へば文の尾の「郡司の詞にたがはす」は、古事談には「不㆑違㆓郡司言㆒云々」とあるが、江談抄では見えないのである。)しかして古事談と二種の江談抄との關係は、直接の關係を認めてもよいやうだ。但し高山寺本に近いか、類從本に近いかと云ふに、

  • ミル所ノ夢ハ胯ヲサカレヌ(類從本)〈拙藏寫本「ミトコロノ胯ヲコハサレヌト合」〉
  • ミトコロノ胯マタコソハサカレメ(高山寺本)〈ミトコロは貴所の義〉
  • ソノマタコソハサカレンズラメ(古事談
  • 高名夢想見テケリ(類從本)〈拙藏寫本「高名高相夢見テケリ」〉
  • 高名高相夢見テケリ(高山寺本)
  • 無㆑止高相ノ夢ミテケリ(古事談
  • やんごと無き高相の夢見てけり(宇治拾遺)

と云ふやうな僅少な相異〈但し何れも古寫本は見ず、國史大系本、などによる〉から察すると、古事談高山寺本系統のものによつたのでは無いかと思はれる。さて此の他に、此の夢話の見えて居るものがあるか何うかは知らぬが、今昔物語には、見えて居さうなものだが見えて居ない。もとより無かつたのであるか、現存本が不完本であるためであるかは不詳である。
がとにかく、此の善男の話は、其れが師輔の話と酷似して居る點で注意すべきである。偶然の暗合か、何れか一方が事實であり、其れより一方のが出たのであるか、其れとも原説話があって、師輔の話とも成り、善男の話とも成つたのであるか。夢の事だから、暗合もあり得るが、しかし事柄の酷似は、何うやら、兩説話の間に、暗合に非ざる關係が存するものと認めたいのである。故に、師輔傳の註釋には、善男の話も引きたいものである。しかし、現在では善男の話は無視せられて居る。江談抄により氣づき、念の爲め短觀抄を檢したところ、此の書〈卷四、二一四頁〉は流石に引いて居る事を知つたが其れも「宇治拾遺に、大伴善男吉夢を其妻にかたりたるに、よくもあはせざりければたがひたるよしあり、古事談に出づ」とあつて、是れでは、單に、夢合せが惡かつたと云ふだけの事であつて、胯の事には言及して居ないから、引いても一向に役に立たぬ譯である。さて斯う云ふ類話のまだ存するのか何うかを知りたい事である。(昭和八年四月二十日稿)