Onanie語史追攷

  • 大藪訓世
  • 『ドルメン』2(6)、pp.46-49.

私は「Onanie語史攷」に於いて犬筑波を引いたが、其れは、藤井乙男先生が曾て、古活字本で校合して置かれた御本により、引用させて頂いたのであるが、其の後神宮文庫の整版一册本(縱六寸八分五厘、横四寸八分。三十六丁の裏は「へたさるかくににたるばけもの。拍子にもあはぬたぬきの腹つゞみ」で終つて居るが、これ以下は、落丁――但し其れも一丁分の事である――した不完本であるのだから、刊行年月は不明だが、例の古雅な澁表紙や版式から見るに、遲くとも寛文頃までのものらしい)を見たところ

佛のまへでせんずりをそかく
夜もすがらしたくそ思ふ文珠しり

とあり(濁點も原本のまゝ)、又日本俳書大系第六卷貞門俳諧集所收本は、大中小三種の木活字本で校合せられた佳良の本文(校訂者は解説の筆者勝峯晉風氏であらう)であるが、これには

ほとけのまへでせすりをぞかく
けんとみてしたくぞおもふ文珠しり

とあり(濁點ももとのまゝ)て、「せすり」の右傍に、校訂者は「(マヽ)」と施して居られるのである。斯う云ふ註文は、普通は原文が誤られて居るとか、意が通ぜないとか、何か注意すべき理由があるとか云ふやうな場合に限りて施されるものであるが、此の句では、意味の不通なところは全く無く、マヽと施さる可き理由が無いと思ふので、何故に斯う云ふ傍註がわざ〳〵存するのであるかが私には判らないのである。さて斯う云ふ風に、此の句を擧げるにつき、幾種類も引用するのは、普通の人には、無用のやうに見えるであらうが、實際は無用どころか大いに必要であるから引用したのである。御諒承を願ふ。なほ犬筑波の時代に關して、俳書大系の解説(勝峯晉風氏執筆)には「本文の俳諧を悉く宗鑑の作とするは甚だしい誤解である」「大永以後の撰たる事は疑ひないであらう」と書いてある。「行年七十五宗鑑在判」とある本もあるのだが、宗鑑が八十九歳で死んだのが、天文十二年であるとも、十年後の天文二十二年であるとも云はれて居り、決定して居ないのだから、從つて其の七十五歳の時も、其れが何時の事であるか判り難い、とあるのを書き添へて置く。


次に「せつり」の語であるが、自分は「せすり」の古い形がセツリであるらしいことを説いて置いたが、つひに其の確證を握る事の出來たのは、自分としては、自分の國語學的考察の誤りで無かつた事を知り得たのであるから、はかない事ではあるが、學徒としての一つの喜びである。

さて其の材料とは例の有名な「醍醐男色繪卷」一卷(の名稱名詞は無いのだから「兒草子ちござうし」「稚兒草紙」とも云はれて居る)と云ふペデラステイの繪卷物の詞書ことばがきであつて、此の繪卷物の繪は其の性質上甚だ珍らしいもので、中々模本も見られないのであるとは云へ、詞書の方は、既でに尾崎久彌氏の江戸軟派雜考(大正十四年六月刊)に全文が引かれて居り、今日では珍しくも無いのだが、何分にも、伏字が多くして殆んど意が通ぜない位のものであり、又肝心の其のおなにいに關する記事の所は如在無く伏字と成つて居るから、おなにい語史に關する材料のある事をば全く知らなかつたのであつた。ところが、昨日、友人清水泰氏に、右の繪卷の模本を借りて、やうやく此の語の存するのに氣づいた事であつた。さて此の書のはじめに、斯う書いてある。即ち仁和寺の「世おぼえいみじく聞え給貴僧」の枕席に侍する寵童(ぺでらすていの受動者)が居たが、事がうまく實行できない。そこで童は「ほいなきことにおもひて」練習を積みて、事の實行が容易と成るやうにするために、乳母子めのとごの仲太に命じて「はりがた」――因みにこの「張型」の語としては例の犬筑波の有名な「あづま路の誰が娘とか契るらむ。逢坂山を越ゆるはりがた」が知られて居るが、此の兒草子の用例は犬筑波よりも遙かに古いものである――を入れさせたり、又丁子をすりて插入させたりなどする。(此の籠童の心理状態は、變態心理學的解釋が必要であらう。受動者には苦痛が伴ふに過ぎないのであると云ふ普通の解釋は、訂正せらる可きであらう)ところが仲太に取りては、此の種の「奉公」(奉公の語義の詣史的考察は、まだ試みた事が無いが、此の用法の如きも、時代が古いから注意すべきである)は、非常に迷惑な事であるから、つい           おなにいを試みると成るのであるが、その所の文に「この男、心に入れて斯く宮仕みやづかへければ  におゐて堪へがたきまゝに、せつりをぞかきける」(假名遣は原のまゝ。文字は原文と變へて漢字をあてゝ引く)とあり、仲太の言葉の中にも「せつりを夜ごとにかき」と見えて居るのである。「せすり」の古い形が「せつり」である事の證明としては、是れ程確實のものは無いのであつた。「せすりをかく」と云ふ云ひ方も、鎌倉末以來のことであつた事も判明したのであつた。ところで此の繪卷物は卷尾に「繪同詞鳥羽僧正筆云々」とあり、從來、鳥羽僧正の筆と傳へられて居るのだが、其畫風は、眞本の寫眞版數葉により窺ふに、鳥羽僧正覺猷筆と傳へられる信貴山縁起繪卷、鳥獸戲畫繪卷、粉河寺縁起繪卷、將軍塚縁起繪卷、陽物競放屁競繪卷(所謂勝畫かちゑのこと、但しこれは眞本を見ず模本を見たるのみ)とは筆意の異るものであるから、男色繪の筆者を鳥羽僧正とするのは首肯できない。しかし乍ら、其の信貴山縁起繪卷以下のものが實は何れもこれも、これ又、傳鳥羽僧正筆であり、鳥羽僧正の筆であると明言は出來ず、寧ろ殆んど全部が疑はれ得るのであるから、其れらと筆致の異る男色繪卷を、鳥羽僧正筆と見てもよい事にも成る譯であるが、明言は到底出來る筈は無いのである。しかも卷尾に「元亨元六十八書寫訖」とある以上は、正に其の元亨元年六月十八日の作と見る可きであらう。然らば、平安朝末の鳥羽僧正の筆で無い事は云ふまでも無い。鳥羽僧正は「嗚呼繪をこゑ」の名人であつたと云ふ評判が高いので、嗚呼繪中の嗚呼繪たる此の男色繪卷の如き「おそくつ繪」(春畫。但しオソグツかオソタヅかは無論不明)をも、鳥羽僧正の筆と鑑定したのではあるまいか。但し問題は、此の「繪同詞鳥羽僧正筆」とある極め書きの筆が、他の詞書本文や、元亨元年のデイトらの筆と同筆であるとすれば、自ら解釋は變つたものと成り、此の元亨元年六月の本は、一種の模本であり、其の原本なるものが存し、其れは其の元亨當時に於いて、鳥羽僧正筆であると鑑定せられる程の古代のものであつたのであると云ふ事に成り、然らば、元亨元年六月のものは、無論鳥羽僧正の筆で無いにしても、其の原本は、實際鳥羽僧正のものであつたのかも知れないど云ふ疑ひは、充分に存するが、奧書のある卷尾のところは、實物は無論のこと寫眞すら見た事が無いのだから、「繪同詞云々」の筆致から、想像を逞しくする事は全く出來ないのである。單に元亨元年六月に、繪も畫かれ、詞書も作られたと見て置くに越した事はあるまい。とにかく、元亨元年頃には「せつり」の語が存したのであつた。塵芥、貞應無名辭書なとのセツリの意味が、おなにいの義である事は、確證を得た譯であり、字鏡集のサツルがセツルと云ふ動詞の終止形の誤りである事も愈々明らかと成り、挊字の詞にセツリとあらば、大てい此のおなにいの義に解してよいのだと云ひ得るらしいのである。慶芥に「故出」(ことさらにいだす)と書いてセツリと讀ませて居る事情に對する想像の的中したのも失笑を禁じ得ぬ事である。但し此の二字を案出したのが後京極攝政良經(元久三年三月寢室にて暗殺せらる、三十八歳)であつたか何うかは疑問である。尤も字鏡集によれば、後京極良經の頃に、オナニイをセツリと云つて居た事は認められるのである。しかし然う云へば又、オナニイの事を、宇治拾遺がセツリと云はずに、カハツルミと云つて居る事が訝しく成り、カハツルミとセツリとは別種の事では無かつたかと云ふ疑ひも生じて來るが、一つの事を二様に呼ぶ事は珍しくも無いから、カハツルミがオナニイの事では無いとは未だ〳〵斷定は出來ないと信ずる。但しセツリのツ・スの音價が清音であつたか、濁音であつたかは、未だ判明せないのだから、從うて、ツがスに變じたのが、清音としてのタサ兩行の相通現象と見る可きであるか、それともヅズの混同と見る可きであるかは、まだ何れとも明言する事が出來ないのである。尤も自分としてはやはり、現在の音價から考へてセスリはセズリであり、其の古形もセツリでは無くセヅリであつたと見たいと考へるのである。

事柄は卑猥であらうが、其の言葉たるや、無下の新しいものでは無くて、遲くとも鎌倉初期頃までに其の存在を溯らしめ得る事に、國語學徒として限り無き興味を感ずる事を申し添へて筆を擱く。(昭和八年三月十八日追記)
此の文につき教示を賜る時には、飯田氏のところヘ送つて頂きたいと前號で附記して置いたが、其の飯田氏はも早や他界の人である。うたゝ人生の無常迅速を歎ずる次第である。従うて、教示は大阪府北河内郡牧野の大阪女子高等醫學專門學校内小西小太郎氏あてに願ひたく思ふ。
(四月二十八日校正に際し記す。)