一〇

初期の吉利支丹文獻にCONFESIONと云ふのがある。書名は其の羅馬字綴りを飜字すれば「日本の言葉に善うコンフエシオンを申す容態ヨウダイと、またコンフエソルより御穿鑿ゴセンサク召さるる爲めの肝要カンヨウなる條々デウ〳〵コト談義者ダンギシヤ門派モンパの Fr. Diego Collads と出家シユツケローマに於いて是れをしたてものなり。一六三二。」(羅馬字綴り音節の切り方に誤りがある)と云ふ長々しいものだか、吉利支丹文獻研究者の間では、普通「懺悔録」と呼ばれて居るものである。是れは聽悔者コンフエソンと懺悔者との日本語對話による懺悔コンフエシオンを羅馬字綴りで示し、其の羅甸語譯文を添へたもので、其の著者(auctore)はドミニコ派のイスパニア僧 Fr. Didaco Collado フライ・ヂダアコ・コリヤド、ヂエゴ・キラード、ヂエーゴ・コリヤドーである、コリヤーヅは元和五年(一六一九年)に吉利支丹嚴禁の日本へ潛入し、三年と四箇月間、主として島原地方に滯在し、元和八年秋(一六二二年)に日本を去り、羅馬に歸りて、羅西日對話辭典・日本文典及び此の懺悔録を一六三二年(我が寛永九年)に刊行した(長沼氏の言によると其れ〴〵の單行本もあるらしいが、自分の眼福を喜ぶことできるものは、此の三書が合綴に成つて居るもので、しかも、刊行當初の原形を保つて居るものゝ如くに見られるものである)が、同年羅馬を發し、迫害最中の日本へ再び潛入する目的で再びマニラヘ來り、日本へは入らずに、歸地一六三八年に印度洋上で難船して歿しだ人で、彼れの望んだ殉教の美名こそは得られなかつたが、難船の時でも、死なゝいでよいものを態々求めて死んだと云ふ形で、とにかく、數奇な運命の人であつた。しかして、彼れはゼスイツト門派と甚しく軋礫反目し、大紛擾をなし、其の爲めに有名であるのだが僅に三年聞餘りぐらゐしか日本に居なかつた彼が、日本語關係の三書を編み得る筈が無いから、是れらの文獻は、他人の功を奪うた點が有るのでは無いか、懺悔録は京阪地方の材料もあるから、彼れ自身の聽取した告白のみではあるまい、耶蘇會教師の編か、と柿崎博士により疑はれ、又其の辭書と文典とは「この種のものゝどれよりも最も不完全で且つ杜撰である」と Abel Remusat 氏により酷評せられるものであるとは云へ、われ〳〵にして見れば、やはり、貴重な文獻であり、殊に懺悔録の如き特殊なものは、彼れが印刷せなかつたならば、果して印刷せられる機會があつたか何うかは判らないものなのであるから、實際の編者は誰れであらうと、其の直接の刊行者たるコリヤーヅの努力に對して、いよ〳〵敬意の念を表示せなければなるまい。

とまれ懺悔録は、吉利支丹文獻としては勿論の事、廣く日本語で書かれた諸文獻の中にても、極めて特殊なるものなのである。

懺悔録に關する前置きが餘りに長くなり過ぎたが、此の懺悔録は、十戒に基づく懺悔の記録であるから、其の「六番の御掟ゴヲキテに就いて」(Rocuban no go voqite nitcuite.) は不邪淫戒に關したものである。しかして不邪淫戒に關するものであるから、當然其の内容は、姦通其の他の邪淫、若道、獸姦などに關すろ告白の記録と成り、現在の我が國に於いては公表の許されるもので無いから、雜誌「改造」の昭和三年二月三月の兩號に出た吉野作造、松崎實兩氏飜字の切支丹懺悔録は、此の第六戒の條は是れを全部省き、昭和五年十二月刊行の姉崎正治博士の「切支丹迫害史中の人物事蹟」中のものは、其の頂の初の文句だけを出すとか、羅甸文を出すとかして居り、昭和四年十月刊の長沼賢海氏南變文集は缺字たつぷりであり、何れも、見る甲斐の無いものだが、此の中に、オナニイに關するものがあるのでオナニイを示す言葉は無いけれども、參考までに引いて置く。しかし飜字する譯にも行かないし、又實は此異色ある綴字法を示したいのであるから、羅馬字綴りの原文のまゝに引用する事とする。S の字形だけは改めた。今の羅馬字綴とは格段の相違があるから、又古語もあるから、これを讀んで理解するのは困難であらうと思ふ。困難であらうと思へばこそ引用しもするのである。

Sono vie, sono vonãgo coto vŏba, vomoi īdasu tabī gotoni isami iorocbio, sono nãgoro vóxi sa de vonõzzucara mo in ga more, tezzucara mo moràxi maraxita. Cŏre va maie no oonfession no Igo xichi faohijú do de gozaro made.

是れは長沼氏飜字本三三頁の終りの方に相當する。maraxita マラシタは室町期より徳川初期に用ゐられた敬讓の國語助動詞で、マイラスから生れたもの、云ひかへれば「申した」と云ふのと大體同じである。又 nagoro は名殘ナゲリであり長崎版日葡辭典に Nagori. L, Nagorino nami. とあり、又補遺に Nagori とある。ナゴロと云ふ形は、斯う云ふ語形が存じたのでは無くて。ナヅリの誤植、又は眞の誤りではあるまいか。これ以上の綴字の説明はことさら差し控へる。