2007-09-09から1日間の記事一覧

一四

なほ最後に一言するに、私が Onanie と云ふ言葉を使用するのに對し、Onanie は Selbstbefleckung の義では無いと注意して呉れた人もあるが、成程、此の言葉の語原を聖書に就いて穿鑿すれば Selbstbefleckung の義には成らず、別の行爲と關係あるものであるの…

一三

寛濶平家物語に見える「手篇」の語については、「挊」字をおなにいの義に使ふから、其の隱語として、生れたもので、文字通りに手篇{てへん}である、挊字の篇の事を云ひて、其の字全體を匂はすのであると云ふ解釋を聞く事を得たから書き加へる。

一二

おなにいの事を支那で放手銃と云うた事は嬉遊笑覽附録〈近藤本七七四頁〉にも指摘して居る通りに、笑林廣記に見える。此の書は、短い笑話を古艶部 腐流部 術業部 形體部 閨風部などゝ云ふ風に、四卷十二部に分類したもので乾隆頃のものと云ふ〈嬉遊笑覽七五…

一一

長沼氏本三九頁の文は若道關係の青年の告白文であるが、其の頁の末の所にも Xicaru tòcoroni, màie no confession no nochi: tezzu carami mi vo momi atçu cŏte in,vo nãgàita cŏto xigueô gozatta. mata votòco to tagaini fãgi vo motaxete morà xi mora…

一〇

初期の吉利支丹文獻にCONFESIONと云ふのがある。書名は其の羅馬字綴りを飜字すれば「日本の言葉に善うコンフエシオンを申す容態{ヨウダイ}と、またコンフエソルより御穿鑿{ゴセンサク}召さるる爲めの肝要{カンヨウ}なる條々{デウ〳〵}の事{コト}談…

Onanie語史續攷 下

大藪訓世 『ドルメン』3(1), pp.66-68, (1934)