さてトラの語原説は以上の如くであるが、首肯するに足るものがあるとも思はれない。しかして注意すべきは外來語となす説であつて、其の外來語と見なす説の中でも、名言通や井口氏の説は採るに足らない。たゞ支那の楚地の方言於菟と結びつけるもののみはかなりに面白いものではあるが、正しいか何うかは知らない。
がとにかく外來語と見る場合には、わが隣邦語に、トラと云ふ語形に似たものが有るか無いかを、檢して見る事は、最も緊要である。
そこで自分は、隣邦語のみならす、出來るだけ廣くトラと云ふ語を調べるつもりで、隨分材料は見たのであつたが、歐洲語により、引き出す辭書とか語集による他は無く、其の反對の辭書・語集は利用できない事の爲めに、又收載語彙が少くて、若しくは、其の種族にはトラと云ふ語が無くてトラと云ふ語を載せないが爲めに、こゝへ記す事が出來なかつたものも甚だ多い。又引用したものゝ中にも、誤解により誤つたものもあらう。又、それらの言語を示す個有文字を讀み誤つたゝめに、飛んでも無い語形と成つたのもあるかも知れない、又ノートを採る際の誤記もある事と思ふ。なほ言葉には、其れ〳〵新古と云ふ事をも注意すべきであるが、左に引くは大體現在の言葉が多いものである事をお斷りする。

(イ)ニクブン(即ち樺太黒龍江のギリヤクにて非ツングース系、但し、又ツングース系とする學者もある)語
Klunt(中目覺氏ニクブン文典や獨譯文による)Att, at(〈GrunboのGiljakisoho wörter=verzeichnissによる〉
ゴルド語(ツングース族)
tásxa, mafáinare, mare-mafa Kutty-mafa (次ぎのグルーベのゴルド語も參照せられたい
Gold tàsxa.
Buchta-Solonen tasxá
Žučen tàh-si-hāh
Orotschen duse, dus̅a.
Mandschu tasha(以上ゴルド以下Grubeによる
滿洲語
tacxá(A. O. IvanovskiのMandjuricaによる
塔斯哈(「滿珠語」による)
女眞語・滿洲語
塔斯哈 tas-ha(これは大阪外語講師渡部薫太郎氏の高教による女眞語は古語である
蒙古語
バラス Baras(橘瑞超氏の蒙古語研究による
韃靼語
巴兒思(華夷譯語韃靼館雜字による故に古語である
オツトーマントルコ語
Péléng
回回語
迫郎克 (華夷譯語回回館雜字による故に古語である、右のオツトーマントルコ語と同語である
ハンガリー(匈牙利)語
tigris
フィンランド(Finnish)語
tiikeri
朝鮮語
ho-rang-i(虎狼の字昔語)
Pöm(右二種は現在語の母韻は第三母韻
uöm(以上二種は李氏朝鮮初期の古語、第三母韻。雞林類事麗言攷による
虎曰監〈蒲南切〉高麗の古語、雞林類事による、監はいぶかしいが前間氏は何とも云つて居られない
支那語
虎 hu (李自珍本草綱目第五十一卷上に「虎象㆓其聲㆒也」とあり
老虎 lao-ha
獸君 shou-chün
山君 shan-chün
大蟲 ta-chúng
於兎 yü-tu
於擇 yü-tsê
山猫 sham-mao
嘯風子 hsiao-fang-tzu
烏×
烏擇(漢書所見)
李耳(楊子方言に「江淮南楚之間謂㆓之李耳㆒」とあり
△×(楊子方言による、江淮南楚の方言
李父(楊子方言に「陳魏之間謂㆓之李父㆒」とあり
伯都(楊子方言に「自㆓關東㆒西謂㆓之伯都㆒」とあり
貓 (李時珍云「今南人猶呼㆑虎瓦㆑貓」
以上「鳥×」以下は李時珍の本草綱目第五十一卷上に見ゆる古語である。×の所へは、虎を篇とし兔を旁とした文字が入り、△の處へは虎を篇とし烏を旁とする文字が來る)
Dioi語(印度支那地方)
Kouk, toueu, meou
西藏語
staga, stag, gzig
琉球八重山語
tura 虎寅(宮良當壯氏の八重山語彙による、同氏の南島採訪語彙には見えないやうだ
琉球語
Tura(伊波普猷監修の琉球語便覽による
マレイ(馬來)語
harimau, rimau, harî-mau, rîmau, mâchan, matjan(二書により引用す
Pangan語
Nyah, "tiger"
Mon-Khmer語
Klah, krah, kula, "tiger" (以上二語は坪井九馬三博士の「我が國民國語の曙」四〇頁による
lolo(インドシナ半島)語
梵語
vyāghra(これは梵漢對譯佛典にも vyāghrah として見ゆ
Nakhin(爪を持つものゝの義、故にライオンにも云ふ
Çārdūla
Nakha-āyudha(爪を武器として持てるもの
dvipin(洞をもつもの)
梵語の事は畏友佐保田鶴治氏教示による
暹羅語
思(華夷譯語暹羅館雜字による、古語
ye(これは羅馬字化するのに誤りがあるかも知れない
シャン shan 語(ビルマ地方
hsü(これも羅馬字化するのに誤りがあるかも知れない
ヒンドスタン語
Bágh
Bágha
Palang(leopard にも tiger にも云ふ。回回館雜字の古語を參照せられたい
アラビア語
Nimr(tiger にも leopard にも云ふ
ペルシア語
palang, babr
「The first commonly signifies the leopard, and the second the royal tiger, an animal sometimes, but rarely, fonnd in Persia.」
ギリシヤ語
tigris
ラテン語
tigris
英語
tiger
露語
tjgr(ロシア文字を便宜上ローマ字に改め、語尾の半母韻は省略した
獨逸語
tiger
佛蘭西語
tigre
和蘭
tijger

此の他歐洲現代に於いては虎と云ふ語は皆是れに類した形であるが Cecil Wyld の説によると、Old Persia 語の tigra 即ち「矢」の義から来たものであらうと云ふ(ワイルドの説は畏友藤井啓一氏の教示による) (未完)

附記。

拙稿の中、虎の語原説のところへ、トラは「くらひ」の義とするたわいも無い故林甕臣ミカオミ氏の「日本語原學」〈昭和七年十二月刊〉を添へ、又虎の朝鮮語として、咸鏡南道豐山地方の山人蔘採取者の使用する隱語。to-ri-pa-ri を添へ(小倉博士の「咸鏡南道及び黄海道の方言」による)、渡部薫太郎氏の「〈新編〉全史名辭解」により

  • 巴爾 bar
  • 巴爾斯 baras

を添へる。何れも蒙古語である。
次ぎにお斷りすべきは、私の此の文の説は豫じめお斷りして置いたやうに、虎に關する語の羅列と、虎の崇拜を記した事とが、せめてもの取柄となりて、其の語原説は、たわいもなく崩れてしまふたらしい事である。其れは、八月號分の校正を濟ませて、七月五日に新村出先生にお目にかゝつた時に、先生より「耽羅島に因む獸だからトラと呼ばれたのであらう」と云ふ高説を承つたからである。私は自分の妄説を棄て全く高説に與し、其の高説を敷衍する一文を此の私の愚文の尾に添へて、讀者への御詫びをせうと考へて筆を取つて見たのであるが、さて書いて見ると、又長々しい文と成つてしまひ、とても附加的に載せて貰ふ譯にも行かないので、やむを得ず續稿として次號にでも載せて頂く事にしたのである。御諒恕を乞ふ次第である。(七月十三日記)