「國語學講習録」に就いて

  • 新刊紹介
  • 岡田希雄
  • 國語・國文 4(7): 89-91 (1934)

昨年〈昭和八年〉の七月二十六日から二十九日へかけての四日間、長野縣松本市で、松本女子師範學校を會場として、信濃教育會東筑摩部會主催の國語學講習會が開催せられ、柳田國男氏、新村出小倉進平兩博士、金田一京助助教授の四氏が講師として、造詣と蘊蓄とを、僅かな時間の中に於いて傾けられたのであるが、其の講義全部の筆記を講習會當事者が公刊したのが「國語學講習録」一卷である(講義筆記の原稿は柳田氏のもの以外は、各講師により、或ひは校閲せられ、又は書き改められもした由である)。今本書に就いて、其の演題と頁數とを擧げると左の如くである。〈一頁十六行、一行五十字詰〉

  • 國語史論(四十五頁分) 柳田氏
  • 〈規範的對歴史的〉日本文典(四十一頁分) 新村博士
  • 日本辭書の現實と理想(二十六頁分) 新村博士
  • 國語學に於ける朝鮮語の問題(三十頁分)小倉博士
  • 國語學に於けるアイヌ語の問題(四十頁分)金田一助教

さて簡單に右の各篇の内容を紹介するに柳田氏の「國語史論」は、國語史なるものを大きく見て「國語學の全部」と解する立場から、國語史とは何か、國語史研究の目的は何か國語は何故變遷して行くのであるかと云ふやうな設問から、現在の國語教育の不完全なるに言及したものであつて、要するに、國語の變遷は、無教養なるが爲めに、無教養な民衆が變遷せしめ行くのでは無く、必要あればこそ、古い形が多少變化したり、又全く新しい形の言葉が生れたり、意義の變遷も生じるのであり、新語を作るは一つの言語藝術であり、「審美主義即ち新しい物を愛する藝術的な氣持も斟酌」せられて、不適者亡び適者生存して、今日の言語と成り、今日の文章とも成つたのである、ところが現在の國語教育は畫一主義に墮して、標準語なるものをやかましく云ひ、一概に方言を賤視し、語彙を貧弱ならしめ、うまく意志を表示する方法を教へない。一方日本人の造語技術を抑へつける事をやつて居るから、そこへ附け込んで、「つまらない人間が日本人の初物喰ひの弱點に乘じ、馬鹿々々しい新語を全國に充滿させた」と云ふのであつて、氏の風貌躍如たる壮快な、胸のすく論であり、(尤も部分的には異見も立て得るが)そんぢよそこらの歐洲語を汎濫させる事しか知らず、國語的に低能兒たる一部ヂヤーナリストに強制的に讀ませたい文である。がしかし「現在の國語學が學であるか何うかといふ事である」と云ふ辛辣な言に至りては、現在の國語學者は仕方なく、先づく甘んじて受けねばならぬ一大痛棒であらう。次ぎに新村博士の「規範的對歴史的日本文典」は、流石に先生のお話だけあつて、章節をつけ、整然たる組織のもとに文法を説いて居られる。節を擧げると、「文法と云ふ名稱」「文法の限界或は定義に就いて」「文法學の歴史の大要」「文法の範圍論」「文法編成上の態度・主義」「文法の目的」「言語の差別相及び流轉性」「文法の項目」と云ふ風に別れて居る。但し何分短時間内の講演であるため「文法の項目」の中の助辭以下の項目の説明が省略せられて居るのは惜みても餘りある事にて、他日「論攷」として公表せられる時期を鶴首して待たなければならない。次ぎの「日本辭書の現實と理想」の一篇は、明治廿七年頃の帝國文學誌上で藤岡勝二博士が「辭書編纂法並日本辭書の沿革」〈希云、日本辭書の沿革までは言及せられなかつたのである〉の題名で説かれた事があつて以來、説かれる事も無かつた問題であるが、私自身としては、かね〴〵、斯う云ふ事は考へて居たので特に興味深く讀ませて頂いた次第である。「辭書の種類」「語の選擇」「字形及び字綴」「發音符」「語原及び語史」「語釋」「插畫」「同意語と反意語」「熟語・成句其他」「用例及び出典」の十條に分けて説明してある。一つの時代語辭典、一つの特殊文獻辭典の無き今日、中學生向きの低級な「じびき」のみが、商品的價値が豐富であり、金に成るとの理由で、堂々たる虚僞の編纂者・著者の名を笠に着て横行跋扈する今日に於いて、新村先生の述べられたるが如き方針で、英が世界に誇るN・E・Dにも勝る如き大辭書編纂を計畫し、着手し得るならば、よしや其の完成には百年の長日月かゝりてまのあたり、完成の姿は見るを得ないにしても、さぞかし學徒として快い事であらう。だがしかし不可能である。其の時としては東洋にて未曾有の大百科辭書たる秘府略千卷淳和天皇天長八年撰か〉を作つた當時の學者、即ち滋野貞主等の意氣と云ふものは、考へれば考へる程貴いものであつた事が、今日の學界を顧る場合にしみ〴〵と理解せられて來る。現在に於いては、日本のN・E・Dを考へる事は白晝夢以上のはかなき事であらう。小倉博士の「國語學に於ける朝鮮語の問題」は此の講習會の講義としては、私が最も強い興味を感じたものだから、講習録としても、先づ此の文を讀みはじめたのだが、本年三月十日刊行の國語科學講座中の一篇として同博士の「朝鮮語と日本語」を讀んだ直後の私としては感銘が淡くあつたのは事實である。同じやうな題目についての論文であり、講演であるのだから、内容も大差無くなるのは當然である。しかして兩者に於いては、國語科學講座の方は六十一頁〈一頁は十六行、一行五十二字詰〉にて、量もやゝ多いのであり、一方は講演會の事にて老婆心が加はりがちであるに對し、一方は其の斟酌は不要と云へるから、博士としては、むしろ、國語科學講座の方を重視せられるのではあるまいか。内容は音韻・語彙・文字の三方面について、日本語との比較を試み、又は關係を考慮し、最後に系統編に及んで居られるのであるが、ウラル・アルタイ語としての母韻調和に關する考慮の如きは最も興味ある研究で博士の獨擅場である。博士が「素人が、現在の日本語と朝鮮語とを、又現在の朝鮮語古事記萬葉集等の古語と比較して面白がつてゐる事は、何等の利益無く、却つて學問上の害になる事と思ふ。要するに、私は微力である爲、朝鮮語の歴史的研究を完成する事も出來ず、又日本語を深く顧る暇も無いので、日鮮兩語を比較する氣持には未だなりかねて居るのである」と云つて居られるのは、學問上至極の言として同感はできるが、餘りに愼重潔癖な態度では、諺文創製以前の朝鮮語研究に上る事は事實上困難と成りはせないだらうか。柳田氏の「國語史論」は文獻偏重を排斥し、現在生きて居る方言を尊重する立場であるが、古文獻の絶無と云ふ可き朝鮮の朝鮮語史研究には、特に方言研究が今後重視せられる事だらうと想像せられる。
次ぎに金田一助教授の「國語學に於けるアイヌ語の問題」は、序論でアイヌ語研究史に觸れ、さてアイヌ語の本質的特色〈六頁餘り〉を説き、アイヌ語は日本語の原語か、姉妹語かと云ふ事につき、チエンバレン説を批判しつゝ異系統語なりとし、言語接觸の例として、國語に與へたアイヌ語の影響、アイヌ語になつた國語、國語になつたアイヌ語を説き、〈因みに一九〇頁十行に、マタヽビもアイヌ語と日本語と同じであると見えるが、マタヽビの古語は、本草和名、和名抄、名義抄八ノ二一オ七、三卷本色葉字類抄、十卷本字類抄等によると、ワタヽビにして、それがm・w相通によりマタヽビと成つたのであるから、アイヌ語のMatatambu(Batchelorによる)が、日本語のマタヽビと成つたと見るは、無理でないかと考へる。〉本州に於けるアイヌ語地名〈但しナイ・ベツの二語を三陸兩羽に求めたもの〉に言及し〈奧州以外のものは金澤庄三郎博士の還暦記念論文集「東洋語學の研究」に讓るとあるが、私は遺憾乍ら未見である〉結論の中で、アイヌ語に於ける敬語の起原〈希云「ユーカラの研究」に詳しい〉を簡單に述べて居られる、しかして是れも國語科學講座の一篇「アイヌ語と國語」〈昭和八年十一月三十日刊、三十八頁分、アイヌ語の本質的特長の所は七頁半である〉と大體似たものである。
さて以上の如き本文の他に序文が二頁、後記が七頁存し講習會の模樣を記して居る。菊版假裝の質實な本である。
此の講習會については、私も聽講させて頂きたくて、早くより樂しみにして居たところ、七月十二三日頃、古辭書の校合をやつた爲めに齒痛を起し、湯水も激痛のため咽を通らぬ状態となり、其の爲めつひに、よう參加せず、其の講演筆記の少しも早く出よかしと待ちがてにして居たものであるから、特に本書を手にして感慨が深いのである。
信濃教育會東筑摩部會内國語學講習會編「國語學講習録」菊判假裝一卷二〇一頁、定價一圓二十錢、東京神田區駿河臺町一ノ八岡書院昭和九年四月一日發行)

  • (昭和九年四月廿九日稿)