語法的な事について云ふと、格助詞「と」が承ける述語は係結の無い場合は當然終止形であるべきだのに詠歎か何かで、連體形と成つて居る例は珍しく無いが、地の文に於ける終止の「けり」が「ける」、と連體形になつて居る例が、

さて、その心ざしをとげたまひける〈上六ウ〉

わが身はやがて、その日出家して、しづかなる所しめて、いみじくおこなひ侍ける〈下四ウ〉

あるが、これも、他の動詞なら知らず、良變の「けり」では大して珍しくは無い事である。

「いはんや」「いかにいはんや」は、下に「をや」を取るが、「おいてをや」の例は全く無い、これも當然である、永平承陽大師の正法眼藏は、漢文調の文だが「おいてをや」の例は全く見えぬ。

下卷なにがしの院の女房が、釋迦佛を頼む事の話の末尾に「さてもこの佛〈○釋迦〉の御事のかきたく侍まゝに、なにとなき事のついでを悦侍ぬるにこそ」とある。「かきたく」は「書きたし」と云ふ希望を示すのであるが、爲相本は「かきたゑ侍………」と書き、「ゑ」の右旁に「く歟」と註して居る、當然「書きたく侍」とあるべきだ。さて斯う云ふ「たし」も此の頃としては、先づ注意すべき方である。

  • (八月二十三日)


解説は、書名の閑居の訓み方につき、カンキヨで無く、カンゴ又はゲンゴとよんだかも知れないと云つて居るが、これは從來誰も云はなかつた事であるが、いかにも緇徒用語としては、有りさうな訓み方である。だが閑居の二字をカンキヨと訓む事もあつた事を、前田家の三卷本色葉字類抄疊字門の記事により申し添へて置く。(校正の時記す)