日本島に棲息して居たとは動物學的に信ぜられぬ大蛇・蟒蛇ウハバミはヤマタノヲロチ傳説を始めとして、江戸期の文學では、立派に日本に棲息して居ると説かれ、又今でも大蛇が棲んで居ると信じて居るものは、夥しい事であらうが、虎に關しては其れが日本に棲んで居たとか、棲んで居るとか云ふ話は全く聞かない。しかして虎は現在では日本列島(北海道・樺太や海南諸島・臺灣をも含める)には山野に棲息して居ない。悠遠の太古のことは不明であるが、例の魏志倭人傳に成るとやはり「其地無㆓牛馬虎豹羊鵲㆒」と記してある。考古學的に證明できるか何うかは知らぬが、先づ日本列島には、最初より此の猛獸は棲息して居なかつたと見て可からう。萬葉八も「韓國乃虎」と呼んで居るのであつた。さて然う云ふやうに、日本島には棲息しては居なかつたものではあるが萬葉集には

あたみたる虎か吼ゆると……

虎に乘り古屋ふるやを越えて……

韓國からくにの虎ちふ神を生け捕りに……

などゝ見えて居り、

和名類聚抄〈七ノ五五オ〉「説文云虎〈乎古反、止良〉山獸之君也」

の訓から見れば、又萬葉集の句に於ける字數から察すれば、此の虎字は無論トラと訓まなければならないものであつた。

持統紀三年七月の「生部連虎」
皇極紀四年正月の「鞍作得志以㆑虎爲㆑友」
天武紀朱鳥元年二月の「虎豹皮」
欽明紀六年十一月の膳臣巴提使の虎

の如きも無論トラであらう。虎と云ふ人名のものも、生部連虎の如くに存するが、他にも正倉院文書に

物部刀良
中臣部刀良賣
尼君刀良
秦部刀良
上屋勝刀良

と云ふ名がまことに夥しく見える。當時の人名には牛・馬・羊・犬・猪・熊・龍・鳥其の他の動物名のものが夥しいから、此の「刀良」も無論虎であらう。
斯う云ふ風に、虎は日本に居ない動物ではあるが、日本語としてはトラと云ふ名を古くより有して居たのであつたが――日本に居ない動物が、日本語式な名稱を有して居る例は、和名抄などの辭書を檢すれば珍しくない事であるのは云ふまでも無い――恐らくは、日本人が虎と云ふ動物に關して多少の知識を得た當時からのものであつたかも知れない。

さて虎と云ふ動物は、日本國土には元來棲息して居なかつたのにも拘らず、トラと云ふ名を得たのである。外來名の借用であるか、外來物にわれ〳〵の祖先が、國語を以つて名づけたのであるかの何れかで無ければならぬ。しかして、外來物、もしくは日本國土には棲息せない鳥獸であり乍ら、國語に基づく名稱を有して居るものゝあるのは、多々例がありて珍らしく無い事であるから、虎が外國産のものであるからと云うて、其の名稱が國語を土臺として生れたもので無いとは斷言できぬ譯である。しかし同時に又或ひは外國語の借用であるかも知れないのである。
それにしても、先人らは、トラの語について外來語と見たか、純粹の國語と見たか、又其の語原について何う考へて居たかを檢して見ると、左の如くである。管見に入つたものを順序不同に擧げるに過ぎない。

  • 日本外來語辭典(上田・高楠・白鳥・金澤博士等編)人を「捕る」と云ふ説、「於兎」と關係ありとする説の如き古説を述べて居るに過ぎず。
  • 溯源語彙(理學博士松村任三氏大正十年七月刊行)に、トラのトは「抓 to. to scratch, to tear with the claws.」であり、ラは「裂 la. to tear.」とす(一七三頁
  • 日本書紀通證(谷川士清撰、寶暦元年脱稿、欽明紀二〇オ)「楚人謂㆑虎爲㆓於菟㆒見㆓左傳㆒、 ハ發聲也、倭語亦猶㆓楚語㆒ ハ語助也」
  • 和訓栞上篇(谷川士清撰)「人をとるの義也、一説に楚人虎を於菟といふ、於は發聲なれば、倭人も同音にいひしにや、らは多くそへていふ辭也といへり、或は高麗の語也ともいへり」(和訓栞は通證より後のものである。「人をとる」は日本釋名にも見える
  • 日本釋名(貝原篤信撰元祿十二年成、中の四九ウ)「とらはとらゆる也、人をとらゆる獸也」
  • 箋注和名類聚抄〈七ノ五五ウ〉(狩谷望之撰〉「左傳云楚人謂㆓ ヲ於菟㆒、方言、虎江淮南楚之間、或謂㆓ ヲ於×㆒、王念孫曰、今江南山邊、呼㆑虎爲㆑×、則知 ハ×之於發語、猶〈三〉謂㆑越爲㆓於越㆒也、然則和名止良トラ即×、 ハ助語也」(×のところへは虎を篇とし兎を旁とする字が來る)
  • 言元梯〈三七ウ〉大石千引撰文政十三年成るか)撰字の註に「マダラ」と書いてある、マタラと云ふ語からトラと云ふ言葉が生れたと云ふ事である。撰斑より名が生れたとするのである。
  • 東雅卷十八(新井白石享保四年完成)「撰トラ 義不詳。撰もとこれ此國の獸にあらず。貂をテンといひ、黒貂をフルキといひ又水豹をアザラシといひ、羊をヒツジといふが如き、並に海外の方言に依りしも知るべからず」
  • 萬葉集品物解(鹿持雅澄撰)「…彼土(支那の事)にても、獸王とも、獸君とも、斑寅將軍とも云よしなり、按に等良トラ韓語カラコトなるべし」
  • 日本語原(井口丑二氏撰大正十五年六月撰〈三八九頁〉「虎は朝鮮語ポーラムの轉にあらざるか」
  • 南留別志(荻生徂徠〈一九頁〉「虎をとらといふ。羊をひつじといふ。此國になき物なれば和名あるべきやうなし。とらは朝鮮語なりといふ。さもあるべし。ひつじも異國の詞なるにや。象をきさといふは、舟に刻みめをつけて、おもさを知りたるよりいふと云へるは、異國の古事なり。いぶかしき事なり。豹をなかつかみといふは、歌書にもいはずむつかしき詞なり。何ものゝ作りいでたる事ならん」
  • 名言通(後に和訓六帖と改題せらる、服部宜著、天保六年撰、上四一オ)「或云朝鮮ニテノ名ナリ、按ズルニ朝鮮今トツピト云フ」
  • 本朝辭原(宇田甘冥撰、明治四年成るか)「捕ヘノ略トラナリ、山中ニアリシヲトラヘ來ルユヘトラト云ナリ、又此獸ハ他ノ鳥獸ヲ捕ヘテ食モノナリ」

先づ如上の如くである。此の他、俚言集覽、僞書和訓精要鈔、僞書桑家漢語抄、倭語小解、松岡氏日本古語大辭典、大矢博士國語溯原、大島博士國語の語根とその分類、同博士の前著、國語の組編、林甕臣氏日本語原乃研究の如きも檢したがトラの語原説は見出せなかつた。又和語のしるべ(和句解?)、奉勅撰次和訓、和語私臆抄の如きは、手近かに無く、また調査を依頼する人も無いので檢する事は出來なかつた。

さてトラの語原説は以上の如くであるが、首肯するに足るものがあるとも思はれない。しかして注意すべきは外來語となす説であつて、其の外來語と見なす説の中でも、名言通や井口氏の説は採るに足らない。たゞ支那の楚地の方言於菟と結びつけるもののみはかなりに面白いものではあるが、正しいか何うかは知らない。
がとにかく外來語と見る場合には、わが隣邦語に、トラと云ふ語形に似たものが有るか無いかを、檢して見る事は、最も緊要である。
そこで自分は、隣邦語のみならす、出來るだけ廣くトラと云ふ語を調べるつもりで、隨分材料は見たのであつたが、歐洲語により、引き出す辭書とか語集による他は無く、其の反對の辭書・語集は利用できない事の爲めに、又收載語彙が少くて、若しくは、其の種族にはトラと云ふ語が無くてトラと云ふ語を載せないが爲めに、こゝへ記す事が出來なかつたものも甚だ多い。又引用したものゝ中にも、誤解により誤つたものもあらう。又、それらの言語を示す個有文字を讀み誤つたゝめに、飛んでも無い語形と成つたのもあるかも知れない、又ノートを採る際の誤記もある事と思ふ。なほ言葉には、其れ〳〵新古と云ふ事をも注意すべきであるが、左に引くは大體現在の言葉が多いものである事をお斷りする。

(イ)ニクブン(即ち樺太黒龍江のギリヤクにて非ツングース系、但し、又ツングース系とする學者もある)語
Klunt(中目覺氏ニクブン文典や獨譯文による)Att, at(〈GrunboのGiljakisoho wörter=verzeichnissによる〉
ゴルド語(ツングース族)
tásxa, mafáinare, mare-mafa Kutty-mafa (次ぎのグルーベのゴルド語も參照せられたい
Gold tàsxa.
Buchta-Solonen tasxá
Žučen tàh-si-hāh
Orotschen duse, dus̅a.
Mandschu tasha(以上ゴルド以下Grubeによる
滿洲語
tacxá(A. O. IvanovskiのMandjuricaによる
塔斯哈(「滿珠語」による)
女眞語・滿洲語
塔斯哈 tas-ha(これは大阪外語講師渡部薫太郎氏の高教による女眞語は古語である
蒙古語
バラス Baras(橘瑞超氏の蒙古語研究による
韃靼語
巴兒思(華夷譯語韃靼館雜字による故に古語である
オツトーマントルコ語
Péléng
回回語
迫郎克 (華夷譯語回回館雜字による故に古語である、右のオツトーマントルコ語と同語である
ハンガリー(匈牙利)語
tigris
フィンランド(Finnish)語
tiikeri
朝鮮語
ho-rang-i(虎狼の字昔語)
Pöm(右二種は現在語の母韻は第三母韻
uöm(以上二種は李氏朝鮮初期の古語、第三母韻。雞林類事麗言攷による
虎曰監〈蒲南切〉高麗の古語、雞林類事による、監はいぶかしいが前間氏は何とも云つて居られない
支那語
虎 hu (李自珍本草綱目第五十一卷上に「虎象㆓其聲㆒也」とあり
老虎 lao-ha
獸君 shou-chün
山君 shan-chün
大蟲 ta-chúng
於兎 yü-tu
於擇 yü-tsê
山猫 sham-mao
嘯風子 hsiao-fang-tzu
烏×
烏擇(漢書所見)
李耳(楊子方言に「江淮南楚之間謂㆓之李耳㆒」とあり
△×(楊子方言による、江淮南楚の方言
李父(楊子方言に「陳魏之間謂㆓之李父㆒」とあり
伯都(楊子方言に「自㆓關東㆒西謂㆓之伯都㆒」とあり
貓 (李時珍云「今南人猶呼㆑虎瓦㆑貓」
以上「鳥×」以下は李時珍の本草綱目第五十一卷上に見ゆる古語である。×の所へは、虎を篇とし兔を旁とした文字が入り、△の處へは虎を篇とし烏を旁とする文字が來る)
Dioi語(印度支那地方)
Kouk, toueu, meou
西藏語
staga, stag, gzig
琉球八重山語
tura 虎寅(宮良當壯氏の八重山語彙による、同氏の南島採訪語彙には見えないやうだ
琉球語
Tura(伊波普猷監修の琉球語便覽による
マレイ(馬來)語
harimau, rimau, harî-mau, rîmau, mâchan, matjan(二書により引用す
Pangan語
Nyah, "tiger"
Mon-Khmer語
Klah, krah, kula, "tiger" (以上二語は坪井九馬三博士の「我が國民國語の曙」四〇頁による
lolo(インドシナ半島)語
梵語
vyāghra(これは梵漢對譯佛典にも vyāghrah として見ゆ
Nakhin(爪を持つものゝの義、故にライオンにも云ふ
Çārdūla
Nakha-āyudha(爪を武器として持てるもの
dvipin(洞をもつもの)
梵語の事は畏友佐保田鶴治氏教示による
暹羅語
思(華夷譯語暹羅館雜字による、古語
ye(これは羅馬字化するのに誤りがあるかも知れない
シャン shan 語(ビルマ地方
hsü(これも羅馬字化するのに誤りがあるかも知れない
ヒンドスタン語
Bágh
Bágha
Palang(leopard にも tiger にも云ふ。回回館雜字の古語を參照せられたい
アラビア語
Nimr(tiger にも leopard にも云ふ
ペルシア語
palang, babr
「The first commonly signifies the leopard, and the second the royal tiger, an animal sometimes, but rarely, fonnd in Persia.」
ギリシヤ語
tigris
ラテン語
tigris
英語
tiger
露語
tjgr(ロシア文字を便宜上ローマ字に改め、語尾の半母韻は省略した
獨逸語
tiger
佛蘭西語
tigre
和蘭
tijger

此の他歐洲現代に於いては虎と云ふ語は皆是れに類した形であるが Cecil Wyld の説によると、Old Persia 語の tigra 即ち「矢」の義から来たものであらうと云ふ(ワイルドの説は畏友藤井啓一氏の教示による) (未完)

附記。

拙稿の中、虎の語原説のところへ、トラは「くらひ」の義とするたわいも無い故林甕臣ミカオミ氏の「日本語原學」〈昭和七年十二月刊〉を添へ、又虎の朝鮮語として、咸鏡南道豐山地方の山人蔘採取者の使用する隱語。to-ri-pa-ri を添へ(小倉博士の「咸鏡南道及び黄海道の方言」による)、渡部薫太郎氏の「〈新編〉全史名辭解」により

  • 巴爾 bar
  • 巴爾斯 baras

を添へる。何れも蒙古語である。
次ぎにお斷りすべきは、私の此の文の説は豫じめお斷りして置いたやうに、虎に關する語の羅列と、虎の崇拜を記した事とが、せめてもの取柄となりて、其の語原説は、たわいもなく崩れてしまふたらしい事である。其れは、八月號分の校正を濟ませて、七月五日に新村出先生にお目にかゝつた時に、先生より「耽羅島に因む獸だからトラと呼ばれたのであらう」と云ふ高説を承つたからである。私は自分の妄説を棄て全く高説に與し、其の高説を敷衍する一文を此の私の愚文の尾に添へて、讀者への御詫びをせうと考へて筆を取つて見たのであるが、さて書いて見ると、又長々しい文と成つてしまひ、とても附加的に載せて貰ふ譯にも行かないので、やむを得ず續稿として次號にでも載せて頂く事にしたのである。御諒恕を乞ふ次第である。(七月十三日記)