題してOnanie語史攷と云ふのである。おなにい(Selbst-befleckung)其れ自體は、本能的であるとは云へ、公けに口にすべきではあるまい。だがしかし斯う云ふ事實が存する以上は、其の事を示す言葉に就いて考察する事を、卑猥なりとして唾棄する不眞面目な論者もあるまい。古語としての美蕃登の語は充分考察せらる可きであり、生田耕一氏により考究せられた。自分の此の一文も亦、其れと同じ嚴肅な態度で書いて居るのである。誤解曲解をせられない事を希望する次第である。

おなにいを示す言葉は、何分にも事柄が事柄であるから、隱語的に成り易い筈であるから、從うて其の種類も歴史的に、又方言的に、種類が多い事と察せられる。しかして猥褻廢語辭彙、日本性語大辭典などゝ云ふ類の書には、さだめし、此の類の語を數多く採收して居る事であらうと思ふが、自分は此の種の書を――其れが馬鹿々々しくも高價であるため、購入もせないし、また其れが圖書館の類には存せぬ爲め、また大學研究室の類でさへも備へつけざる爲めに――見もせないので、從うて同義語として如何なるものが存するかも全く知らないのであるが、此の文では單に二語のみに就いて言及せうと思ふ。