其の一つは「かはつるみ」と云ふ語である。是れは、宇治拾遺しふゐ物語卷一の「源大納言雅俊一生不犯僧に金打たせたる事」の條に左の如くに見えて居るので、普く知られて居る。

是れも今は昔、京極の源大納言雅俊といふ人おはしけり。佛事をせられけるに、佛前にて、僧に鐘うたせて、一生不犯ふぼんなるを撰びて、講を行はれけるに、或る僧の禮盤らいばんにのぼりて、少し顏けしきたがひたるやうに成りて、鐘木を取りて振りまはして、打ちもやらで、暫しばかりありければ、大納言いかにと思はれける程に、やゝ久しく物も云はでありければ、人ども覺束なく思ひける程に、この僧わなゝきたる聲にて「かはつるみはいかゞ候べき」と云ひたるに、諸人おとがひを放ちて笑ひたるに、一人の侍ありて「かはつるみは、幾つばかりにて候ひしぞ」と問ひたるに、此の僧、頸をひねりて、きと「夜べもしてさぶらひき」と云ふに、大方とよみあへり。其の紛れに早う逃げにけりとぞ。

宇治拾遺物語は、時代も撰者も不詳であるが、畏友後藤丹治氏は「宇治拾遺は、建暦二年から承久三年までの或る時期に作られたが、更に承久三年以後に増補された」(岩波の「文學」第四號「建久御巡禮記を論じて宇治拾遺の著述年代に及ぶ」)と推定して居られるもので、今昔こんじやく物語に類する書であり、今昔物語中の説話も多く見えて居り、(今昔と宇治拾遺との關係については論がある)此の源大納言雅俊は、村上源氏の六條右大臣源顯房の二男で、鳥羽天皇天永二年正月廿三日に、四十八歳で權中納言より權大納言に轉じた人で、時代から云ふと、今昔物語の出來たらしい時代――今昔物語の時代も撰者も不明であるが、自分は永久二・三年頃(天永二年より三・四年目)には、大體出來上つて居たのでないかと思ふ――の人であるから、此の話の如きも、或ひは今昔にも見えるものでは無いかと思はれるが、生憎くにも、現在の今昔は完全な本で無いから、是れを確める手段も無い。從うてかはつるみの語を、宇治拾遺より更らに溯らせる事も出來ない。