二
其の一つは「かはつるみ」と云ふ語である。是れは、宇治
是れも今は昔、京極の源大納言雅俊といふ人おはしけり。佛事をせられけるに、佛前にて、僧に鐘うたせて、一生
不犯 なるを撰びて、講を行はれけるに、或る僧の禮盤 にのぼりて、少し顏けしきたがひたるやうに成りて、鐘木を取りて振りまはして、打ちもやらで、暫しばかりありければ、大納言いかにと思はれける程に、やゝ久しく物も云はでありければ、人ども覺束なく思ひける程に、この僧わなゝきたる聲にて「かはつるみはいかゞ候べき」と云ひたるに、諸人おとがひを放ちて笑ひたるに、一人の侍ありて「かはつるみは、幾つばかりにて候ひしぞ」と問ひたるに、此の僧、頸をひねりて、きと「夜べもしてさぶらひき」と云ふに、大方とよみあへり。其の紛れに早う逃げにけりとぞ。
宇治拾遺物語は、時代も撰者も不詳であるが、畏友後藤丹治氏は「宇治拾遺は、建暦二年から承久三年までの或る時期に作られたが、更に承久三年以後に増補された」(岩波の「文學」第四號「建久御巡禮記を論じて宇治拾遺の著述年代に及ぶ」)と推定して居られるもので、