だがしかし、此の語は徳川期では濁音語と成つて居り、又撥音介在語と成つて居た。そして漢字としては「挊」字を當てゝ居り、「當挊あてがき」の二字をAte-gakiと訓んで居た(松屋筆記卷六十一)。與清は是れに就いて、挊の字をさう訓むのは「つくりもじにて挊の字に然る義あるに非ず」と解釋した。が此の解釋は何うか。博覽な與清は、擁書漫筆第三卷の廿三項で挊字を説き、流石に色葉類函の創製者として博引傍證振りを發揮して居る。
一體此の字は康煕字典に五音類聚を引いて註して居る通りに「弄」字の俗字である。しかし古くから使用せられて居るもので、石晉可洪の新集藏經音義隨函録にも屡々見ゆる如く、經典には珍しからぬ文字であり、我が國に於いても平安朝初期の文献に既でに

  • 延暦廿三年神宮儀式帳
  • 古語拾遺(大同年中のもの〈儀式帳より四五年後〉

の例があり、類聚國史・貞觀儀式・延喜式などにも用例がある。しかし其れらは、專らカセヒの義に使用せられて居た。カセヒは絲を卷くところの器具で、今でもカセの語で普通に使用せられ、またサルヲガセ(猿紵挊の義、松羅)の語にも殘つて居る。カセの語も萬葉集に「をとめらが績麻ウミヲ鹿背之山カセノヤマ」(鹿背山は類聚國史にはカセ山とも書かれて居る)とあるのを見ると古い。按ふに伴信友(比古婆衣卷七・一六二頁)の説の如く、カセと云ふ名詞に活用語尾フが融着して出來た動詞カセフの名詞形がカセヒであるのだらう。では何故挊の字をカセ・カセヒと訓むに至つたかと云ふに、此の字の本義とは一致せないが、手篇にてしかも上下するの義ある故に、手を上げ下げして動かすと云ふ義から、支那に於ける本義と離れて、カセ・カセヒの語と結びついたものだらう。支那に於ける本義と離れた意味で、漢字を使用する事は、珍しくは無い。

此のカセ・カセヒから、カセグの語も生れ、挊字もはじめは書かれるが、今では主として稼字が書かれるに至つた。