七
ところが此の挊字が、おなにいの義を示すのにも登用せられたのである。而して與清は挊字に然う云ふ意味が存するのでは無いと解釋して居るが、其れは何うか。
與清は十誦律第五十六卷(○第五十二卷の誤か)間妄語事第四問十三事に「 」とあり、其の音釋に「挊〈ハ〉盧貢切、與㆑弄同、戲也」とあるものを引用し、挊はかはつるみの事であると解して居る。松屋筆記と併せ考へると、與清は此の挊字やカハツルミを、おなにいの義に解して居た事は明らかである。
とにかく、此の挊は、對象を必要とするぺえでらすていであるか、對象の要なきおなにいであるかは、假りに問題とせないにしても、卑猥な意味での弄又は戲の意味がある事は動かせないから、支那に於いて既でに斯う云ふ特殊の意味に使用して居たのである。然らば、挊字をおなにいの義に使ふに至つたのは、然う云ふ義が此の字に本來無かつたのだと見る事は出來まい。支那に於いて既でに特殊の用法があつたのだから、日本でも亦其れを摸倣して、おなにいの義に使用したのであると見て支障あるまい。
では然う云ふ意味に使用しだしたのは何時頃よりか。是れを檢する事は、同時におなにいの語史的考察と關係を有するに至る事は云ふまでも無い。しかして、考察の資料としては、一般文獻もあるだらうが、其れらの檢出は至難であるから、自分は、便宜上、特殊文獻たる辭書類を査べて見る。
以下大體年代的に列記しよう。
- 新撰字鏡〈七ノ一四オ、昌泰中もしくは其れより後間も無き頃のもの〉「挊〈力東反加世比〉
- 類聚名義抄〈三ノ二五オ〉「挊〈谷弄字モテアソフ、マサクル サツク、ナフル、テウチマフ、テウツ、テスル ミシカシ、クタリ〉」
- 貞應無名字書〈三四ウ〉「挊〈六盧貢反、モテアソフ カサテスル ウツ セツリ〉」
- 字鏡集一〈一二ノ三三オ〉「〈マウチマウ、モテアソフ テウチ、ウツ ハラヒノソク、ミシカシ マサクル、テスル、サツル、サクル ハラフ、タタク、テウツ、ウツ、カセ〉
- 温故知新書〈文明十六年六月他序、三二ウ〉「挊テスル」
- 中田本和玉篇〈長享三年八月書寫〉「挊〈ヨロコフ、テウツ、テヌル(テスルの誤りならん) カセヒ モテアソフ〉」
和玉篇 〈右と同じ系統の本〉「〈テスル テクツ カセ ヒ ヨロコフ モテアソフ〉」- 塵介〈七八ウ〉「
故出 〈今世出(○書宇か)字也後京極殿御作出也〉」 - 天台六十卷音義〈三ノ三六ウ〉「挊〈テツス、テツ、カセテヘン ハキアク、モテアソフ、テスル、カセフ、イハラフ〉」
- 日我色葉字〈永祿二年成る五九ウ〉「挊〈セツリ/作字歟〉」
調査した古辭書の數は、是れより多いものだが、右は、必要のものを擧げたに過ぎない。なほ善寫本を得ない爲めに、誤字脱字があつて、一語やら二語やら判明できぬものもあるが、大體を知るには妨げはあるまい。
とまれ挊字には右の如き諸訓が存した。