右に擧げた言葉共の考察は暫く措きて、センズリの語につき考察するに、セズリの條に、犬筑波を引かぬ言泉増補版は、セズリをセンズリの訛語と認めるものゝ如くにてセンズリに就いては「千摩」の義であると解して居り、更らに古く閑田次筆も亦、同じ解釋して居る事を知つたが、成る程斯う云ふ解釋も出来ないでは無いと思ふと、失笑を禁じ得ない次第である。が斯う云ふ解釋はセンズリと云ふ現在の語形に據つたからであるが、此の語形が、此の語の發生當初からの固定した形であると見た場合には、或ひは斯う云ふ語原解釋も許されうるかも知れない。しかし此の語の語形が、當初より此のまゝの形であつたか何うかは不明である。しかして、犬筑波集には、セスリの語形で現はれて居るのである。其の眞の音價がセスリであつたか、セズリであつたかは不明であるが、後のセンズリの語と比較すると、センスリの形は、古い犬筑波時代のセスリが、セズリと云ふ濁音介在語であつたが爲めに、轉訛によつて撥音化したものと見るのが至當である。然らばセンズリの語形により、千摩の義であると解する事の誤りである事は明らかであらう。語原解釋の場合には、語の語形史を明らかにして、最古の形、即ち最初の形と信ぜられるものについて、始めて考察を下し得る筈である。(蜻蛉トンボをトンバウの形により「飛び坊」一義に解した人もあつたが、これはトンバウの古い形が、トバウであつた事を知らぬが爲めの論であつた。千摩説も全く同じ類である)

但し右のやうに斷定するに當り、疑問がある。其れは犬筑波の文句が、松屋筆記や國語辭典所引のものでは既でに引いたやうにセズリと成つて居るのに、博文館の徘諧文庫本では助辭のゾが無くて「せんずりをかく」とあり、木話本にも其の通りであるらしいのである。で、もしセンズリの方が宗鑑自筆本の姿を正しく傳へて居るとすればセンズリの前の形がセズリとあつたと云ふ論は、成立し難く成るのである。しかして實の所、犬筑波のテキストは、何れを採る可きかは、決定できないのである。(両方の句のに何れも助辭のゾが存すると云ふのも訝しいから、題句の方のゾは無い方が妥當であるやうだと見ると、何うしてもセンズリとあつたと見なければならなく成る。が、ゾが二つあつてはいけないと云ふのも強ちな論であるから從うて、やはり何れを採る可きかは、決定できないのである)