四囘に亙る私のOnanie語史攷に關して得た教示、其の他を記す事とする。
先づ、最初に擧げるのは「補攷」に引いた「棹を片手に河をあちこち」の唄の事であるが、私は是れを、何と云ふ理由も無しに、俗謠であると獨りぎめして居たところ實は然うでは無くて、狂歌であつたのだ。そして此の狂歌に關しては四氏よりの教示を得たが、本誌に人種祕誌を載せて居られる山中源二郎氏が、香川縣琴平町にて明治四十年頃聞かれたものは

せ   は淺瀬の川の渡し守棹を振つて川をあちこち

と云ふのであつた。また岡山市の佐官茂氏が「共同便所にあつた樂書」で知つたとして教へられたのは第一句が「へんずりは」にて、第三句が「渡舟」と成つて居るだけの相違がある。但し、此の歌としては、「渡舟」では何うであらうか、落ちつかぬやうだ。「渡し守」の方が穩やかであるらしい。佐官氏が古老に聞いたものとして、第二信で報ぜられたのは「へんずりは淀の淺瀬の渡し舟」と云ふのであつた。次ぎに兵庫縣加古郡阿閇村の栗山一夫氏の教示に見えたもので、播磨や大阪市附近で口にせられて居ると云ふのは、

へんずりは船の船頭にさも似たり棹を握りて川をあちこち

と云ふのであり、大分異つて居る。しかし此の方は「船の船頭にさも似たり」と云ふ風に、餘り説明的に墮して居るのを見ると、是れは「淺瀬の川の渡しもり」を、俗耳にも理解せられやすいやうに作りかへたらしい疑ひがあるやうだ。恐らくは原形は「淺瀬の川」の方であつたのでは無からうか。なほ、神奈川縣大船町鹿島政雄氏の報ぜられたもの 「せ   は清き隅田の渡し船棹を片手に……」である。第二、三の兩句が、此の狂歌としては比較的重要で無いために種々に傳へられる可能性のあつた事がわかる。因みに栗山氏は、書状によると、左翼運動關係の人にて、われ〳〵の知らぬ變態性慾相の一部を報道せられたのであるが、國語學徒として語史研究の立場を執して此の學術的漫文を物する私としては、其れらの報道は紹介致しかねるのである。又氏は學生間には「マスカク」と云ふ語があると報道せられ、氏自身は其の語の正しい形を知られない趣きであるが、これは英語の masturbationの略語を、類推により、日本語の言ひまはしで使用するものであり此の語の使用ならば、少くとも二十年以前に溯り得るのだが、外國語に基づくものだから、私は知りつゝも殊更ら擧げなかつたのであつた。しかし此のマスから「須磨の浦」の隱語が生れた事を思へば、やはり斯う云ふものも、列擧する方が、後世の國語史家の爲めには有益であるやうだ。

しかして、此の種の類語としては、「性慾學語彙」「世界艶語辭典」「日本性的風俗辭典」「世界性慾學辭典」〈以上刊本〉「圖解日本性的風俗百科辭典」〈是は稿本〉の著者として有名な佐藤紅霞氏が、詳細な高教(四百字詰原稿紙五枚)を與へられたのだが、其れを全部掲げる事は、佐藤氏に對しても非禮であると考へるから他の機會にでも、佐藤氏の許可を得て全文を本誌に轉載させて頂かうかと思つて居る次第である。