山中氏は右の狂歌以外に、も一つの狂歌を示された。其れは

    は日本一の富士の山 甲斐で見るより駿河一番

と云ふのである。第二句は「三國一の」とも云ふ由である。「甲斐で」「駿河」の語には、同音意義の他の語が含まれて居ることは云ふまでも無い。もつとも其の時には「甲斐で」の方の助辭は、濁音デに非ずして清音のテで無ければならぬ。此の歌になると、餘り露骨であるから記載を憚る可きかとも考へる次第であるが、「……をかく」と云ふ云ひ方が、昭和八年の現在でも其の通りであり、江戸期に於いても其の通りであり、やがて例の「男色繪卷」に聯るものなる事を示すために、語史的見地から、敢てこゝに記すのである。(斯う云ふ言葉は、何分にも猥褻語である爲めに、普通の文獻には記される機會が無い。現在に於いても「……をかく」など云ふ言葉は普通の文獻には記されるものでは無い。所謂、唾棄すべきY本か、もしくは其の正反對に學術論文にのみ記載せられ得る可能性があるだけであるから、從うて、此の語については、後世の國語學者が見出し得る材料は殆んど無いか、若しくは極めて僅少であらう。私が稚兒草子チゴザウシ繪卷で見出した材料に喜んだと同じ喜びを、後世の國語史研究家は味ははなければならない事であらう。さう云ふ事を考へるからこそ、私は此の「甲斐でよけれど」の狂歌をも掲げるのである。そして私の此の態度は私の尊敬してやまぬ「小山太郎翁」も、認容して下されたのであるから、私は萬人の身方を得た以上に、意を強うする次第である。