センズリと云ふ言葉は、三百三十年程前に出た吉利支丹キリシタン辭書にも見えて居るのであつた。しかして此の事は、もとより私の見出した事では無くして、○○○○翁――翁の御意志に從ひ殊更に翁と申すのである――より御教示を得て知つた事である。其の吉利支丹辭書と云ふのは、慶長八年に本編が、翌九年に補遺が刊行せられたところの長崎耶蘇會學林刊行、耶蘇會諸士編纂の日葡對譯辭書である。本書の吉利支丹傳道史上の、国語學史上の、日本印刷史上の價値などは、今更ら云ふも愚かである。世界でたゞの三本しか無いのだと云ふ事を述べただけでも、本書が如何に稀覯なものであるかゞ、斯う云ふ事に無頓着な人達にも判るであらう。本邦に將來せられたロトーグラフ版にしたとこで十部もあるまい。或ひは五部も無いのであるかも知れない。

さて其の日葡對譯辭典の本編(補遺の部に非ず)には左の如くに見えて居る。

Xenzuri. L, Iiin. polluçăo feita por suas măos. Xenzuriuo caqu. Ter polluçăo.

是れは、殆んど原文通りに忠實に擧げたのであつて、suas の頭字の s (英語の f の横畫が右へ貫いて居ない形)を普通の字體に改め、maos の次ぎの或る符號〈用例をあげる時に附するもの、現在の辭書にてもこれを使用して居る〉を省いたに過ぎない。イタリック體も原文に從うたのである。さて此の羅馬字綴りせられた口語に於ける音節の音價の中注意すべきを説くと

  • xe は se に非ずして she である。
  • zu はズであり、ヅでは無い、ヅならば zzu と綴られるのである。
  • Iiin I は J に相當するから要するにジイン(自淫)の羅馬字綴りである。   

さてポルトガル語の方は L は「即ち」の義であつて、Xenzuri と Iiin とが同義語である事を示すのであり、polluçăo 以下は英譯すれば

pollution made with(by) his own hands.

であり、用例の方の葡語譯は

to commit pollution.

の義である。しかして「ジイン」は又別に、其の項では

Ii-in. Mizzucarano in. propria polluçăo.

とある。こゝでは Ii-in と云ふ風にハイフェンが使はれて居るのである、是れが正しい。ミヅカラノインは「自淫」のパラフレエズであり、其れで葡語では是れが Proper pollution の義に譯せられて居るのである。
ついでながら、此の辭書のパジエス佛譯本では

Chenzouri, センズリ, ou Jiin, ジイン pollution personnolle. Chenzouriwo cacou, センズリヲ カク. Commettre cette pollution.
JI-in, ジイン (Mizzoucarnno in, ミズカラノイン). propre pollution.

と成つて居る。
さて此の日葡辭書により、われ〳〵は

  • センズリ
  • センズリ ヲ カク
  • ジイン(自淫)

と云ふ單語や云ひまはしが、慶長八年頃に存した事を知り、たゞ是れだけでも、興味を覺えるのであるが、更らに、センヅリと書かれて居ずに、センズリと書かれて居る事に、一層深い興味を覺えるのである。けだし此の語の古い形は、既でに説いた通りに、セツリ又はセヅリであり、其のセヅリが撥音化して、センヅリと成つたものであるから語中のズはズである可きでは無く本來ヅである可きものなのであり、しかしてまさしく、土佐方言ではセンヅリであるのだから、私はヅズの區別がまだかなりに殘つて居る九州地方の方言では、センヅリと云ふ發音もあるだらうと想像して居るほどであるから、まして慶長年中に長崎地方で編纂せられた日葡辭書には、當然センヅリと見える可きものと豫想して居たのに、以外にもセンズリの形で記録せられて居るからである。一體此の辭書は、カミ即ち近畿地方の語と、シモ即ち九州一圓の言葉との方言的相違をもかなりに注意して記録して居る程であるから當時九州でセンヅリと云つて居たとすると、其の發音通りに標記する事もあるだらうと考へられるのであるが、若し辭書の編者が、語史には無頓着で標準語意識のみから、政治の中心たるカミの方の言葉を以て標準語として採録したのであつたと解すれば、若しくは、此の辭書の編纂に關與した日本人が、九州人では無くて上方人であつたとか、九州人も交つて居たにしても、上方人の方が優勢であつたとか云ふ事を想像する時に、本辭書にセンズリと記されて居る事の説明もつく事と思ふ。從うて本辭書にセンズリとあるからと云つて、當時の九州方言、殊に長崎方言がヅでは無くてズであつたのだと決めるのは未だ早計であらうと思ふ。なほ又、一方ではズ zu と.ヅ zzu との字面上の相違と云へば z 字が多いか少いかの相違に過ぎないのだから、勢ひ誤植も生じやすいであらう、從うてこゝも Xenzzuri とある可きものが Xenzuri と誤植せられたのではあるまいかと疑うて見る必要もあるが、無論解決はつかない。
斯う云ふヅズの區別の解決に苦しむにつけても、九州方言に於ける音價を知りたいのであるが、右の日葡辭書を見た後に至つて九州方言を二種知ることが出來たのであつた。
即ち、此の語の九州方言に於けるズの音價については、かねて、九州方言研究家たる○○○○氏に教示を乞うて置いたのであるが、九州の一地方のものたけを知る事が出來たのである。それは、○○氏が筑後を生國とせられる○○○博士に聞いて確められたものにして、やはりセンヅリであり、ズでは無いのであつた。「矢張ヅださうです。そして(○○博士は)小い時聞いた經驗があるさうです。語源は擦る聯想すると云はれましたから、是非御參考迄に」(訓世云、斯う云ふ語原説は○○氏の書翰中にも見えて居る事を後に氣づいた)と云ふのが○○氏の文面であつた。福岡などはジヂズヅは全く差別が無いとのことである。次ぎに畏友○○○○氏は、長崎縣五島の生れであるが、五島ではズヅの區別があつてセンズリは shendzuri である。
他地方の事の知られないのは遺憾であるが、これだけの事が判明したゞけでも喜ばしい。さて此の筑後方言や五島方言から察すると、日葡辭書の Xenzuri のズは、愈々これを九州地方の言と見るのは、いぶかしく成る事と思ふ。或ひは愚考通りに、上方の訛形が政治の中心地の語なるが故に、標準語意識から載録せられたのかも知れない。又誤植であるかも知れない。(なほ九州四國の方言に關する調査は、○○○○○氏が熊本・鹿兒島・高知の三縣出身の學生について質して下さつたところに據るとズである由。また○○○○氏が調べて下さつたところに據ると、「熊本市では、一般の語に於けるジヂズヅの區別は無い。皆ジズの方である。鹿兒島・宮崎・大分・福岡出身の學生百四十人の中ジヂズヅの區別をするは僅かに十二人、その中の九人について、おなにいの語を質したところズが七人、ヅが二人である」〈右採意〉由である。國語教育普及の結果、方言的特質が失はれ行く事は當然であるから、二十歳前後の學生に就いて聲音の方言的特質を聞いても結局は駄目であるらしい。やはり無教育な老人連を相手にせなければならないのであらう。)