とにかく斯う云ふ次第で、日葡辭書にはセンズリとして記されて居るのだが、是れが撥音である事がら考へて、日葡辭書より八十年乃至六十年前の宗鑑の犬筑波(犬筑波の時代については、其の後、○○氏の岩波日本文學講座本江戸時代書目に「大永三年以後、天文八年以前の間に成つたものと推定される」とあるのに氣づいたから、今は其れに從ふ。なほ氏には昭和三年十二月刊行の「書物の趣味」第三號に出した「犬筑波考」と云ふ論文もある)所見のものも亦、セヅリ、セズリでは無くて、センヅリ又はセンズリであつたらしい事を、想像しても可いと思ふ。殊に犬筑波の句では、セズリセヅリと云ふ風に三綴音語とすると「ほとけの前でセズリをぞかく」と云ふ風に、何うしても助辭のゾを補はなければならなくなるが、然うすると「けんと見てしたくぞ思ふ又は「したく思ふぞ」)文殊しり」の句にもゾが存して、兩方にゾがある事と成り、いぶかしい事と成る。ところがセンズリと云ふ四音節とすると、一方のゾが消える事と成り、ゾが二つ重なると云ふ不都合が無くなるのである。此の事實から考へても、此の句は元來「佛のまへでせんずりをかく」とあつたのだと見るのが至當であるやうだ。
因みに、此の句をまたもや引き出したに就いて一言せなければならぬ。其れは、私が文殊ちごもんじゆの事を述べた事であつて、私は兒文殊の性質を説明する必要も認めなかつたのであるが、其の後私の周圍の人より、兒文殊の意味が判らなかつた事を聞かされ、判らないが爲めに、最近滿洲へ學術研究に行かれた某氏の如きは、滿洲の廟の佛前とか神前とかで、婦人が爲す妙な性的行爲と結びつけたりせられたと云ふ事を聞かされたので、其れでは捨てゝ置けないと思ひ私は今、あらためて兒文殊の説明をする次第である。さて兒文殊とは文殊像の一種であるが、其れが殊更らに、可愛らしい童形どうぎやうに畫かれ、又は作られて居るものであり、自然に、法師對兒文殊の親しみは、基教信者の婦人がキリストの像に心を引かれ、男子がマリアの姿に思慕の情を感ずると云ふのと、同じやうな關係に導かれるに至つたのであつた。法然上人がまだ勢至丸と呼ばれた幼少の時に上人を叡岳西塔の北谷持寶坊の源光の許へ送り屆けた觀覺得業が、源光への状の中で「進上大聖文殊像一體」と書いたのは「これ智惠のすぐれたる事をしめす心なりけり」と云ふ法然上人行状繪圖詞書作者の、眞面目くさつた解釋も可能ではあらうが――現に其の儘に解して融通無碍の解釋をする連中を苦笑せしめる老大徳もある。今の法師ならば知らず、行状捨圖詞書作者が洒落を理解しなかつたとは思はれない。或ひは殊更らにあんな事云つて居るのであるかも知れない――勢至丸が兒文殊に見立てられて居ると云ふ解釋も否定は出來まい。大近松の「心中萬年草まんねんぐさ」に

文殊の御相傳、大師の弘め置き給ひ、俗も尊む若衆のなさけ

とあるのに成ると、ぺでらすていの道は、弘法大師が、兒文殊より相傳し、始められたもの、斯道の元祖として、たわいもない事(尤も近松が云ひ出した事では無く古い俗傳である)を述べて居るのである。然う云ふ兒文殊であつたればこそ、あの佛の前での句も出るのであつたのだ。