さて、右の如くに廣く檢して見ても、トラと似た形のものとては見あたらず、t の音を有するものゝ中、tiger と成るやうな類のものでは無くして、a・u・o の如き母韻を伴ふものを求めると、

  • 滿洲語の tas-ha 系統のもの
  • オロチョン語の duse
  • 支那梵語の於菟・烏擇(ギリヤークの at, attと形がやゝ似て居る、但し關係の事は知らぬ)が存するのみであるに過ぎない。南方系に至りては Dioi の toueu を除くと全く形は異つて居る。して見ると、自分の手にして利用できた材料のみから云へば、國語のトラに類似した形は先づ見當らないと云はなければならぬ。さすれば外來語と見る事も、輕々しくは云へない事であるが、自分としてはやはり、豹に對する國語ナカツカミ――中之神ナカツカミの義であらう――の如きでは無いと思ふ。しかして私が結びつけようとするのは、朝鮮語である。

蓋し萬葉集にも「韓國の虎ちふ神」と云ふ風に詠まれて居り、其他日本紀中の虎の記事は朝鮮關係のものであり、處と朝鮮とを結びつけるは不都合であるらしくも想はれないからである。其の上、朝鮮語が日本語と最も親しい關係にある語であると云ふ事實も存するからである。ところが其の朝鮮語に於いては虎と云ふ語は上述の如くにして、決してトラと云ふ語と似た形のものは存せないのである。其れにも拘らず、私が朝鮮語に結びつけて、トラの語原を知らうとしたのには大膽過ぎる妄説を抱いたからである。斯くて私はその私の解釋の當否を質したい所存から其れを書いて纒めようとして居る際に、たま〳〵小倉進平博士の「平安南北道の方言」(昭和四年三月刊)を讀み「山人蔘採取業者の隱語」の章の中に、彼等山人蔘の採取に從事する人間が「單に日常使用する朝鮮語を使用することは、却つて人蔘の生ずる靈域をけがし、山神の忌諱に觸れ、隨つて人蔘の收獲も減少すべしといふ一種の信仰」に基いて、種々の隱語を使用して居る記事を讀過したのであつたが、其の中に、彼等が隱語として、虎の事を

to-ru-par-i
江界郡
to-ru-pa-ri
慈城郡
san-chu-in
厚昌郡

と呼んで居る事を知り、愕然としたのであつた。蓋し to-ru と云ふ形が、他人の空似かは知らぬが餘りにもトラと酷似して居るかに見えたからである。だがしかし、小倉博士は san-chu-in が、「山主人」の義であることを指摘して居られるに過ぎずして、to-ru-par-i, to-ru-pa-ri には全く言及しては居られないのである。一體隱語と云ふやうなものは、語原語史の不明なものが多いから、恐らくは、小倉博士もトルには言及せられなかつたのであらう。して見れば私の如き門外漢には此の to-ru-par-i につき考へて見ようとする事さへをこがまし過ぎる事であると信ずるし、又實際、考察できる筈も無いので、今は全く此の to-ru 云々には觸れないのである。しかも、なほ、トラを朝鮮語に結びつけて行かうとするのである。全くの妄説である事を、くれ〴〵もお斷りせなければならぬ。
さて私の妄説は、即ち、朝鮮の古語では 「靈」がトラと云ふのに近い形であつたのでは無いか、日本語のトラは其の 「靈」と關係があつたものでは無いかと云ふ解釋であり、全く素人の考へである。以下盲蛇式にあつかましく述べて見る。