一六 騰暉綺(五)

○一六 騰暉綺(五)  上音登、訓擧也、暉音貴、訓照也、綺音奇、訓加尼波多カニハタ
此の語、慧苑に無い。經文〈二四ウ上五〉布影騰暉若㆓綺雲㆒とあるものゝ註である。前にも二三ウ上一綺麗とあり、綺は單に美しいの義で使用せられて居る。此の綺字を、本邦では或る高級の布を意味する註として使用して居る。加尼波多が其れだが尼字は天壽國曼荼羅繍張銘伊奈米足尼スクネ〈稻目宿禰とあり古事記はネ、紀はニ、萬葉集は大部分がネで、明白にニと訓み得るは、九卷の白管自吾爾尼保波氐シラツヽジワレニニホオハの例あるのみだが、是れさへ氐は尼の誤字としてネと訓まねばならぬと云ふ譯にて、尼をニと訓む場合は少いのである。だから、此の加尼波多はカネハタであるか、カニハタであるかゞ疑問であるが、自分はカニハタであると信じる(私記はニに爾・二・而の字をあてゝ居り、其れらには疑問は無いが、此の尼だけがはつきりせないのである)。さて自分が然う訓む理由を述べる。垂仁紀三十四年に山背大國不遲之ノオホクニノフチノ女綺戸邊と云ふ婦人が、美貌にして帝寵を得、磐衝別イハツクワケノ命を生んだとあるが、同じ所に又、天皇が少し前に山背ヤマシロ苅幡戸邊(これはカリハタトベと訓む他は無い)を娶られて、祖別オヂワケノ命、五十日足彦イカタラシヒコノ命、膽武別イトシワケ命の三皇子を生ませられたとある、しかし其の二佳人の關係は何とも書いてない。ところが古事記垂仁段では山代大國之淵ノオホクニノフチの女、苅羽田刀辨カリハタトベしで落別オチワケノ王、五十日帶日子イカタラシヒコ王、伊登志別イトシワケ王らを生ましめ、更らに又其の大國之淵の女、弟苅羽田戸辨オトカリハタトベを娶して、石衝別イハツクワケノ王、石衝毘賣イハツクビメノ命を生ましめられたとある。記紀の間には多少の齟齬はあるけれど、同じ事を云つて居ると見る他は無いから、從うて、紀の苅幡戸邊と綺戸邊とは姉妹にして、記の苅羽田刀辨姉妹に當る事は確實である。だが綺戸邊を何と呼んで居たかは判りかねる。一應はカリハタトベと呼んで居たと見たいところだが、紀では綺戸邊と苅幡戸邊とを別な文字で示し、又其の姉妹關係ある事も積極的には示さず、むしろ別な文字を使ふ事により、姉妹なる事を否定して居ると見たいところである。即ち一方はカリハタ(苅幡)戸邊だが、綺の方はカリハタに似た發音ではあるが、多少は異るところある音を示すために、苅幡に對し綺の字を以てしたど見たい。然う見る場合に考へられるのは、此の私記のカニハタの語である。カニハタとカリハタとは酷似した言葉にして、ニとリとは屡音通するので知られて居る二音であるのだ。で要するに、カリハタがカニハタと轉じたか、其の逆であつたかは不問にするにしても、綺戸邊がカニハタトベと訓まる可きは、此の私記の加尼波多の語が無くても想像せられるのだから、まして、加尼波多の假名書例が存する以上は、綺戸邊がカニハダトべである事は、疑ふ餘地が無いのである。現に其の綺の地を和名抄蟹幡の文字で示して居るのである。尤も發音はすでに轉訛して加無波多と成つて居る。しかして織布としての綺も、和名抄加無波多と書いて居る。カンバタと云ふ撥音であつたと信ぜられる。カンバタは此の後又變化して、ンが脱落しカバタと成つた。圖書寮藏保延四年戍午四月二日移點文鏡祕府論の傍訓に見える。但し此の後とてもカムバタ・カンバタの訓を施して居る辭書類は多い。〈綺字の訓方については、拙稿「日本書紀の綺戸邊の訓み方に就いて」(立命館學叢昭和七年四月號)を參照せられたい〉