四八 所拒(一五)
- ○四八 所拒(一五) 下渠呂反、正宜㆑作㆑×、違也、
鳥足着安後延 - 慧苑に見える。私記は作字を脱したが今補うた。×は慧苑では山篇に巨を書く字だが、私記は止篇に臣を書いて居る。巨が正しい。私記は慧苑の一部に據つたのであり、慧苑には鳥字以下の註は無い。さてこゝは經文〈七五オ上九〉に
「普悉包容無㆑所㆑拒」
とある拒字についての註であるが、會玉篇や康熈字典を見るに、山篇の字に違とか抗とかの義は無く、止篇のには違也戻也
の義があるが、經文に拒に作るものを、わざ〳〵山篇の字や止篇の字に改める必要は無いのではあるまいか。慧苑が今經本從㆑才者此則時俗共通耳
と云つて居るのも不要と思ふ。さて私記がアゴエの訓を註して居るのは拒距通じるからであらうが、コバムと云ふ義に訓む可き拒字に、アゴエの訓を附したのは是も不穩當であらう。但し經文中の意味と異る意味の倭訓を註した例は本書では珍しく無い。さて鳥足着安後延
は、トリアシ(トリノアシ)ニツキタル(ニツク)アゴエとでも訓む可きだらう。本書ではコの假名に、古己を使用して居るが、何れも清音としてゞある。しかして此の「後」はこゝに一度使用せられて居るだけだが、わざ〳〵此の字を使用して居ると云ふのはアゴエと濁音語に訓ませるためであらうと思ふ〈なほ後にも再説する〉。アゴエは雉科の成鳥の雄の或るもの〈雉科の鳥の全部にアゴエがあるのでは無い、又雌のは貧弱である〉例へば鷄の足に存する距の事にして、今は普通に蹴爪 と云つて居るが、京都附近ではジラと云つて居る。又アゴと云ふ語もある。アゴエの省略せられたものである。然らばアゴエの語原は何うか。アはアシであると認められさうだ。コエは平安朝末のものと覺しい世尊寺本眞本字鏡にアコエ
の語もあるが〈二七ウ三〉又アコユ
の語もある〈二九オ六、何故か一字にアコエを二度註す。漢字は共に距字だが前者は旁を臣に作つて居る〉のを見ると、コエはコユと云ふ動詞の名詞形で、これが連濁でアゴエと成つたのであるらしい。しかして其のコユと云ふのは、明言は出來ないが蹴ルの古語らしい。現に松井博士辭典もコユの語を擧げて新撰字鏡の万利古由
、和名抄の「蹴鞠、末利古由」
類聚名義抄〈法上八五〉の「蹴〈クユ、化ル、コユ〉」
の三例を引き、他動詞下二段、ケルの古語として居る。此の他天安二年所講石山寺大智度論にも蹴をコユ
と訓じて居る。世尊寺字鏡〈上二六ウ〉も「蹴〈クヱル、コユ(他に四訓あり)〉」
とある。故に若しコユがケルの義であるならば、アゴユの名詞形が鷄のケヅメたる安後延
となるのも當然である。延の假名も正しい、但しゴの假名の當否は、比較すべき用例も無いので判然とせないが、有坂秀世氏の第二則によると甲類の後で正しい。さて此のアゴエは後にアゴと成るのだが、其れまでの變遷を辭書類により示さう。- アゴエ
- 石山寺藏大智度論〈天安二年所講〉新撰字鏡〈
阿古江
〉和名抄〈阿古江
〉以下、前田家本雄略紀七年、世尊寺字鏡、三卷本色葉字類抄、類聚名義抄、字鏡集、十卷本字類抄、永祿五年本節用集 、饅頭屋本節用集、古活字和玉篇、元和三年版下學集等は、アゴエ
・アゴヘ
と書く事はあるが、アゴエ系である。 - アグヒ
- アゴエがアグイと轉じたのをアグヒと書いたので、これは古本和玉篇系に見える。長享本和玉篇〈上ノ四四ウ〉慶長二年寫本等が其れであるが、玄順本は濁點を誤り
アクビ
と書く。斯う云ふのは譯判らずに寫したからであらう。弘治二年の四喜管蒼集〈四ノ六〇ウ〉に、ケヅメ、アグイ
、京大所藏下學集古寫本にアクイ、ケツメ
。 - アゴヤ
- 永祿二年十二月に出來た日我色葉字盡に見えるが、著者日我は九州人そして關東で本書を書いたのだから關東の方言であるかも知れぬ。
- アゴイ
- 建長七年校點群書治要に
アコイ
、慶長版倭玉篇〈上五一ウ〉にもアゴエ
・アゴイ
の二語を載せて居る、下四五オではアゴ
を出して居る。元和版も同じ。 - アゴ
- これは今も使はれる語である。原本節用集よりは後のもので、文明十六年の温故知新書よりは古い塵芥、永祿二年本節用集、慶長二年易林本節用集、其の易林の所謂夢梅本玉篇、慶長版倭玉篇下四五オ等に見える
こゝに引用した書の中、鎌倉期までのは、濁點を施したものが無いが、室町期のものに成ると、アゴエ・アゴ・アグイ等のゴ・グには大體濁點を施して居るのである。これにより當時はゴ又はグを濁つて發音して居た事が判る。しかして本書にも
安後延
とありて、ゴを濁つて居たと認められるのである。故に、平安朝期や鎌倉期のものに、アコエとあるにしても、それは濁音標記が不完全であつたが爲めと見る可く、國語辭典にアコエと清音語にして居るのは、妥當で無いと考へるのである。こゝでアゴエの語原語義につき再言する。私はコエはコユ、即ち蹴ルの義かとしたが、其はかなり單純な臆測に過ぎず、眞相は判らないのである。一體ケルの古言クウは、神代紀の
、皇極紀三年法興寺條の倶穢諾邏々箇須 打毬
〈ゴルフやホツケイ式のものでなく、蹴鞠である事は、皮鞋隨毬脱落
の文句で判明する〉の古訓〈岩崎文庫古鈔本吉澤義則博士は一條天皇頃のものとせらる〉クウルマリ
〈クウルはクウの連體形である〉梁塵祕抄の「舞へ〳〵かたつぶり、舞はねものならば、馬の子や牛の子にくゑさせてむ、踏割らせてむ……」
、松崎天神縁起の「くゑころされぬ」
〈二七頁〉「雷公をつかはしてくゑ殺し」
〈三一頁〉等が見え一方其れのラ行四段活訛したクェル・化ルは、世尊寺字鏡に,クェル
、類聚名義抄に化ル
〈四例あり〉と見え、字鏡集では直音でケル
とあるのだが、奈良朝期では恐らくはクウ時代であらうのに、同義語のコユがあるのが、一寸をかしい(同義語の存在を怪しむのは愚であろ事は知りつゝも)。さらに、クェル、化ルの所見は少いのに、コユの所見が夥しいのも怪しい。又同じ蹴字にクェル、コユの二訓があるにしても、コユがクェルの同義語であるか何うかを斷言する事は大いに難しい事である(此の事は辭書の總ての訓について云ひ得る事である)。さらに、山田孝雄博士が、和名抄などのマリコユ
のコユにつき、蹴るの義で無く、超ゆの義であると云つて居られる事〈平家物語の語法上卷六一二頁〉も參照すべきである。だからアコユのコユが蹴ルの義であると云ふ事は疑問と成るが、オドリアガルとと云ふ樣な義に解すれば必ずしもコユが名義抄や字鏡集でクユ
と成り、一方皇極紀のクウルマリ
が岩崎本の墨筆〈吉澤義則博士は院政時代とせられる〉ではクユルマリ
と成り、釋日本紀祕訓でも、續く「之侶」の二字を加へてマリクユルトモガラ
と讀んで居るのを見ると、當時としては恐らくは死語であつたらしいクウに近いクユルがコユに引づられて完全に蹴るの同義語としての連體形に成つて居た事を認める他は無い。しかし其は早くとも平安朝末期の事らしい。であるから奈良朝期文獻たる此の音義私記のアゴエを足蹴 の義と解する事は、かなり躊躇を要する事と考へるのである。因みに云ふが超越のコユの假名は萬葉集では古・故(甲類)である、後は第十三巻〈三二三六〉に山城宇治附近の地名阿後尼之原
の用字として一例あるのみだから、甲乙を決め難い譯だが、橋本博士は古・故の類とせられ、菊澤季生氏の言の如くに、古・故の類に屬せしめて可いのである。だから此の點ではマリコユのコユを超の義と解釋せられる山田博士の説に從ひ、アゴエのコユも超であると見て可いやうであるが、明言は不可能である。(後記〈餘り考へ過ぎずに單純にコユをクウの同義語と認めても可い樣だ二月二五日〉)