五二 喉吻(一七)

○五二 喉吻(一七)  下無粉反、口邊也、唇兩邊也、上音呉、訓乃美土ノミド
慧苑にも大治本にもある。大體大治本に據つたと思はれるが、反切は慧苑によりしものであり、莫×〈旁は分/篇は木〉とある大治本に據つたので無い。なほ倭訓は大治本には無い。本書二十五卷八八にも能美等とある。等では判らぬが土を書く以上まづノミドであらう。土の假名は本書ではこれ以外に無い。さて現今のノド(喉)と云ふ語の古形としては、從來和名抄能無度〈度はドであらう〉と云ひ、吭を能無度布江と云つて居る例以外には、古いものが知られて居らず、此のノムドのムの音價は、後述の例と同樣に、ムであるか撥音ンであるかは判りかねるのである。此の後の書では三卷本字類抄名義抄字鏡抄字鏡集ノムドが多いがノドも二例あり、誤字か〉十卷本字類抄等はノムド七卷本世俗字類抄長享本和玉篇などはノンドであり、ノンド頓要集塵芥温故知新書永祿二年本同五年本節用集饅頭屋本・易林本節用集天正十七年本運歩色葉集等に見える。是れでノド→ノンド→ノムド→ノミドと云ふ順で古形へ溯り行く事が判るが、ノムドのムはンであらうと思ふ。斯くて奈良末期頃には、此の音義私記の例によりて、ノミドであつたと考へられるのに、萬葉集に例の奴延鳥乃能杼與比居爾エドリノノドヨヒヲルニの句があり、其の能杼與比が「喉喚び」の義と見られるので、此の解に從ふ時はノドの形が古くて、次ぎにノムドが現はれ、再びノドに還つた事と成る。しかしてノドがノムドと成り、再びノドと成ると云ふ事も、強ち無い事とも斷定できないのであつたが、これは橋本進吉博士が黒板博士本金剛般若集驗記〈二ノ三ウ〉の古訓に乃ト與フ己惠と云ふのがあるのを發見せられ、しかも其れに對する漢語が、直接に喉に關係なき「細〻聲」と云ふ案外な文字である爲めに、こゝに萬葉能杼與比について、果して喉喚ノドヨビであるか何うかと云ふ疑問が抱かれるやうに成つたのである。其の橋本博士の劃期的な高説は日本文學論纂に見えて居るのだが左の如くである。

今日では「喉喚ぶ」が定説の如くなつてゐるが、この語は他に全く所見なく、唯ノドヨヒの語をその形から「喉喚び」と解したゞけで、何等の根據があるものではない。その上咽喉は、和名抄に能無度とあり、又同書に吭を能無度布江とあつて、平安朝初期にはノムドといつてゐたのであり、漢文の訓點には、後までもノンドと呼んでゐる。奈良朝には、まだ假名で書いた例を發見しないから、明かでないが、果して當時ノドといつてゐたかどうかは疑問である。で猶又、奈良朝にはヨの假名に二類の別があつて、與・余・餘の類と欲・用の類とは、大抵區別して用ゐられて居り、「喚」「呼」のヨブのヨには欲の類を用ゐたのが常であるから、能杼與比の與比を喚の義のヨブと解する事も果して妥當であるか、甚疑はし。

此の後、此の説は一般に承認せられ、最近では〈昭和十四年七月の「國語解釋」誌〉北條忠雄氏が、此の説を土臺として、ノドはノドカのノドでおり、ヨヒは接尾辭であらうとして居られる由であるが、此の説、恐らくは妥當であらうと思ふ。

斯くの如く、和名抄能無度に先行する形としてのノドは、橋本博士により消極的に否定せられたのであるが、此の音義私記には、從來知られず、(橋本博士も氣づいては居られたいのである)、辭書にも出て居らないノミドの形が、まさしく二例も存するのであるから、萬葉集能杼が咽喉であると云ふ説は容易に否定し得るし、又和名抄のノムドがノミドの轉訛した形である事も認め得るのである。さてノムドは從來常識解釋上呑ムと關係あるとせられて居たが、ノミドの語がある以上は、これが呑ムと關係ある語なる事も云はずして承認できるであらう。ドは何か、連濁のドであらうから、又はであらう。しかして門も處も甲類の假名であるから區別は出來ない。〈處の假名には混亂があるが甲類であると思ふ〉さて此の音義私記の乃美土の土は甲類で正しいが、能美等の等は乙類であるから妥當では無い。しかしトの假名は、十三音中でも比較的早く混亂しだしたものだから、土・等が相違して居ても仕方あるまい。美は正し。