一三六 久如當得(六四)

○一三六 久如當得(六四)  舊經曰、久如當成、伊久比左〻安利天可イクヒササアリテカ成佛耶、問状耳
慧苑に無し。問状耳の下に那羅素云々の九字の註があるが、是れは別項である。經文〈三〇五ウ下一〉に故善財童子、言聖者、久如當㆑得㆓阿耨多羅三藐三菩提㆒答云々とあるものにて、舊譯クヤクの六十經では、久如當得を久如當成に作つて居ると云ふのである。崇神紀八年の歌に、此ノ御酒ハ我ガ御酒ナラズ大和ナス大物主ノカミシ御酒、伊句臂左とあり、類聚名義抄〈佛中六〉には久如をイクビサヽと聲點づきで註して居る。萬葉集〈六六六〉の不相見者幾久毛不有國を、國語辭典はアヒ見デハイクヒササニモアラナクニと訓みてイクヒササの例に引用して居るが、是れはアヒ見ヌハイクバクヒサモ、又はイクヒサシクモ、イクヒサシサモなどと訓めるから、例には引きかねる。さてヒササと云ふ語は、イクが添うて居る名詞だから恐らく、ヒサシサの轉訛したものであらう。しかしヒサシサがヒササと成つた事を認めるにしても、其の轉訛の經路は推定しかねるが意佐賀ノ大室屋のオサカ(忍坂)が、意柴沙加オシサカ〈隅田八幡宮所藏鏡の銘文〉の轉訛である事と同じであると解したら可い。ヒササのヒの假名も是れで可い。こゝで此の「久如」の語につき一言するに、既述の如く華嚴の六十經、八十經にありてイクヒササアリテカと云ふ風に疑問に讀み居り、點本の假名訓を集成したらしい類聚名義抄も亦イクビササと疑問の不定數詞を添へ訓んで居る。斯う云ふ例は上杉文秀博士の往生要集講録文句篇に據れば、維摩經觀衆生品に「舍利弗言、天 ルコト㆓此 ニ レ ニ シキヤイカ、答諸經云㆓十劫㆒、」又六十華嚴經にも「得㆓此解脱㆒ レ ニ シキヤイカ〈○以上の訓方は上杉博士による〉とある由である。六十經の品名は不明だから檢索せないがやはり疑問文である事は明らかだ。其の維摩經につき諸本を檢した所、楊起元評注本〈「正保四丁亥仲秋吉辰要法寺之前堤六左衞門開板」〉に「天トドマルコト㆓此 ニ レ ニ久如ヒサシヤ」と訓み居り、後秦の釋僧肇選の註維摩〈「貞享三丙寅九月吉日版」〉・煕は「久如」に傍訓は無いが、注に「什曰、梵本云㆓幾久㆒也、肇曰‥‥」と見えるのである。幾久を和讀すればイクヒササと成る。什は此經の譯者鳩摩羅什の事である。次ぎに本邦人の作だが、惠心僧都の往生要集、下卷大文第十、問答料簡第一、極樂依正十七問答の第二問答にも見え、數種の刊本は大體「問、 ノ ノ シテセン已久如イクヒサシトカ㆒、答‥‥」と云ふ風に讀み、平安朝末の青蓮院本の訓は例によりイクヒサヽトカセムと訓んで居るが、江州安養寺所傳享徳三年卯月書寫延書本には「カノ佛成道シタマヒテイクヒサシサトカセン」とある。しかして花山信勝氏の〈原本校註漢和對照〉往生要集〈昭和十二年七月刊〉は新に「佛成道したまうて已に久しとんやいかん」と延書して居る。さて是れらの用例により、久如がイクヒササ、又はイクヒサシサと云ふ疑問や不定の名詞に訓まれ來つた事が判明するが、漢文專攷の學者にお尋ねすると、如が文首にでもあらば疑問の義とも成らぬでは無いが、久如の如く續く場合には、久如の如は突如・豁如・晏如等の如と同じく語助であり、久如とつゞいても疑問とは成らず、如一字をイカンと讀む事は出來ぬ、然るに、實際の文では疑問文として訓まねばならぬのは、問答の文と成つて居るからであらう、との事である。此の説に據る時は往生要集を花山氏式に改讀するは妥當で無く(道長時代の惠心は無論當然イクヒササと訓んで居たらう)、維摩經や上杉博士所引六十經の久如も亦、イクヒササと訓む可きであるは云ふまでも無い。(四月頃に成つて偶然、堺市梵語研究者大島仲太郎翁に、書面で教示を仰ぐ事が出來たが、アプテの英梵字典にも How Long--kiyac ciranとあるが、久如は漢文として疑問とすると云ふのは理解しかねると云ふ事であつた。)