一五七 抱持(六八)

○一五七 抱持(六八)  上取也、牟太久ムダク
慧苑に無し、萬葉集十四〈三四〇四〉上野カミツケヌ安蘇ノマソムラカキ武太伎寢レド飽カヌヲドカ吾ガセムとあり、成實論天長五年七月點に拘をムダカバと訓んで居るが、其の萬葉集も、抱手而我タウダキテワレハイマサム〈六ノ九七三〉手拱而タウダキテ事無キ御代ト〈一九ノ四二五四〉タラチシ母ニ所懷ウダガエ〈一六ノ三七九一〉ヲトコジモノ負ヒミ抱見ウダキミ〈三ノ四八一〉はウダクと訓んで居る。しかして紀には抱とか懷の字ありて、國語辭典はイダク・ウダク兩訓で引いて居るが、假名書は無いから明瞭で無い、ウダクの假名書は靈異記下第九話の十抱の抱を干田支と名詞で書き、興福寺本第卅話に抱〈有太/加之〉(兩行一字づゝ缺か)とあり、地藏十輪經元慶點に懷字を有太介(バ)、仁徳紀六十二年の太十圍を前田家本は(フト)サトウタキと訓み居る。新撰字鏡にはイダク・ウダク・ムダク何れも見えないが、名義抄にはムダクもあるが、ウダク・イダクが見え、字鏡集ではムダクもあるが、ウダクよりはイダクの方が優勢である。それが今ではダクと成つて居る。ダクはイダクのイの脱落である事は云ふまでも無い。そしてイダクはウダクの轉訛であらう。其のウダクは或いはウデ(腕)を動詞化したのではあるまいか(丁度ウナグ、肩グ、股グ、腹ム、束ム、爪ムのやうに)とも常識解釋せられるが明言は出來ないし、ウダクとムダクとの關係も推定は容易では無い。國語辭典はムダクは身抱クの義として居るが、其れも當否は明言できぬ。ムダクの用例が東歌に一例あるのみだから、ムダクを東國方言だらうと考ヘ易くなり、他の抱や懷をウダクと訓まうとするやうに成るのも一應は首肯はできるが、音義私記に牟太久の例が存する以上は、抱懷をムダクと訓んではいけないとも斷言できない事と思ふ。とにかくムダクを古形とせば〈腕ク説は消滅す〉ムダク→ウダク→イダク→ダクの變遷でありウダクを古形とせばウダク→ムダク→ウダクと變遷したのであり、丁度、ウマ・ウメが〈其のウの音價は純粹のウでは無かつたらうとの説はあるが〉後にムマ・ムメと成り、やがて又ウマ・ウメと成つたと同じであらう