五 賢首の新譯華嚴經音義

賢首の新譯華嚴經音義の事は、前の新譯華嚴經音義私記解説に於いては、極めて簡略に記したに過ぎないが、今やゝ詳しく書いて見る。さて此の音義の事は、新羅の翰林學士崔致遠が、天復四年春(我が延喜四年に當る、賢首歿後百九十二年目)に書いた賢首大師傳、詳しくは唐大薦福寺故寺主飜經大徳法藏和尚傳〈大安八年壬申歳(壬申七年の筈、八年は我が建暦二年に當る)の高麗版、紹興十九年(近衞天皇の久安五年)の宋版があり、極樂寺藏宋版は國寶と成つた。本邦刊本としては、康藏法師碑を合刻した宋版を飜刻した元祿十二年版があり卍續藏にも收められて居る。〉に、鈔㆓解晉經中梵語㆒爲㆓一編㆒新經梵語華言共成㆓音義一卷㆒自敍云、讀經之士實所㆑要焉と記し、さて其れに割注して「新經音義不㆑見㆓東流㆒、唯有㆓弟子慧苑音義兩卷㆒、或者向秀之注㆓南華㆒後傳㆓郭象之名㆒乎、或應㆓潤色㆒耳」と云つて居る。向秀云々は、晉の向秀が莊子の註を書いたが、早く傳はらず、向秀の註に後れて註を作つた郭象註のみが、最古註として殘存して居る、しかも郭象註と云ふは向秀註を盜んだのだとか、よく云へば自家藥籠中のものとしたのだとか云はれて居るので、其の例を賢首と其の門人慧苑との兩音義の關係に結びつけて――ことに賢首の音義が新羅には傳はつて居なかつたので――慧苑音義は師賢首の音義を潤色したやうなものなのだらうと、想像の言をもらして居るのである。是れによると崔致遠の頃は賢首の音義の中、晉經(即ち舊經)梵語の音義一卷は傳はつて居たらしいが、新經の音義は朝鮮に傳はつて居らず、慧苑音義二卷が傳はつて居た事が判る。故に賢首音義の事は實物を見ずして何かに基きて書いたに過ぎないのである。
ところが賢首傳の後百八十六年にして、宋の元祐五年八月〈我が寛治四年〉に高麗の義天が録した所謂義天録には「梵語一卷、音義一卷」を賢首の著として録して居るが不思議にも慧苑のは記して居ない。義天の頃、慧苑音義は朝鮮では失はれて居たのだらうか。義天録は内題に海東有本見行録とありて、朝鮮に傳存して居るものを、義天が實見した上で書いたものだから、義天の頃賢首の新經音義が朝鮮に傳存して居た事は判るが、梵語一卷が舊經のであるか、新經のであるかは、判斷しかねる。さて日本では義天録に後るゝ事四年、寛治八年に興福寺沙門永超が東域傳燈目録を書いて、賢首の著として華嚴經探玄記以下全部で二十部を列記したが、其の中に

梵語一卷 〈古經〉
梵語及音義二卷 〈新經〉 序註一卷

と録して居るが、これに註して「已上二部出㆑傳云右新舊二經所有梵語、及新經難字悉具翻、及音釋記經之士、實所㆑要焉〈云云〉」と云つて居り、又慧苑の音義として「音義一卷〈新經〉」を擧げて居る。右は大日本佛教全書本に據つて引用したのであつて、誤字も其のまゝにしたが、此の永超録は善本が無く、右の註記も元より存したものか何うかも知らぬが、こゝに「出㆑傳」とある傳は崔致遠のでは無く、賢首が著はした華嚴經傳記五卷、所謂、華嚴傳の卷尾「雜述」の條に見える賢首の著述を記した記事に據つたのである事は、華嚴傳に

華嚴翻梵語 一卷 〈舊譯〉
華嚴梵語及音義 一卷 〈新經〉
 右新舊二經所有梵語及新經難字悉具翻及音釋讀經之士實所要焉

とあるのと比較すれば判る。崔致遠の記事も、實は是れに基いたものなのだ。致遠が自敍云と云つて居るので、自序があるかの如くであるが、實は然うで無くて、賢首が華嚴傳中に自ら敍述したと云ふ義である。但し華嚴傳は賢首これを完成せずして歿し、高弟慧苑・慧英等が後を續いて大成したのだと云ふ。しかし音義に關する所なぞ賢首自ら書かなかつたと假定しても、誤記は有る筈が無いと信ぜらる。たゞ遺憾であるのは、記事が簡單であつて、義天録や永超録と比較すると、新經の梵語及音義一卷と云ふのが、梵語の部、音義の部と截然分れて居りて各一卷であるのか、合せて一卷であるのか、梵語も華言註も入り亂れて居るのかゞ判らず、大體の分量も判らぬ事である。
がとにかく賢首には新經の音義の存した事は事實であるのに、高弟慧苑が自ら新經の音義を書き乍ら序文に於いても、本文に於いても、全く賢首音義を無視し、一言も觸れないのは何としても解し難いところである。師の著述があるのに、さらに同種の書物を書くと云ふ事は、師の書に滿足せなかつたからであらうが――慧苑音義が先きに出來て賢首音義が後に出來たと云ふやうな事情も想像が困難である――それにしても師の書に言及せないのは奇怪である。慧苑は所詮、背師自立の刊定記を書く程だから、性格に非難すべきものがあり、故意に師の音義を無視したのではあるまいか。それでも音義としては賢首のよりも、量や質に於いて優れて居ると云ふので、賢首の音義よりも先きに慧苑のが朝鮮に流傳したものであるらしい。本邦奈良朝期に於いても朝鮮と同樣であつたか何うかは判らぬが、慧苑音義の流傳は確實であるにしても、賢首のは判らぬ。然るに大治本音義の如きものが傳存して居るので、是れが賢首の新經音義では無いかと云ふ疑ひが生ずるのであるが、前の解説に於いて述ベた如く、自分は大治本を賢首音義に擬する事は不賛成である。殊に賢首音義が、梵語の解釋にかなり努力して居るらしいのに、現在の大治本ではたゞの七語(十二卷十三卷四十五卷各二語、三十九卷一語)に過ぎない點から云つても、大治本が賢首のではあるまいと想像して可いと思ふ。要するに大治本新經音義は、賢首の新經音義に少々倭訓を施したと云ふ樣なものでは無く、本邦人が作つたもので、慧苑音義に基く小川氏本新譯華嚴經音義私記よりは古いものだと考へる。(十五年八月二十五日補)