本書の書誌學的な紹介は既に關先生が書誌學八月號の中で三頁餘りにわたりて物して居られるのであり、先生は他日其れを訂正して詳しい解説を物せられる御豫定であられるので、今自分が、其の方面に觸れるのはまことに心苦しい次第であるが事の順序として記す事を許していたゞく。
名語記は前述の通り身延山久遠寺の支院〈此字を書く子字に非ず〉、武井坊正行院の什寶である。其の武井坊の什寶と成つたのは三・四・六・七・八・一〇の五帖の尾題の次ぎに大きく「延山武井房住物 日述(花押)」とあるにより、〈此の記入は五九の二卷には無し〉日述上人の代、又は其れ以前の事である事が判るが、其の日述上人と云ふのは武井坊の歴住を記したもの〈大正十四年に整理したる新しいものにて、武井坊自身がアテにならぬものと自認して居る。石碑の如きも無論無い。〉を見ると、七世〈元和七年六月卅日寂〉と十二世〈寶永五年八月廿五日〉との二人が同名の日述(註)であるので、此の中の何れであるかは今のところは判らぬ。しかも表書皮には毎卷左側の方に、比較的小さな文字にて□□寺公用と記されてあり、其の寺名に當るところは、故意に擦り消されてはあるが「久遠寺」と判讀せられるから、武井坊の有に歸するまでは久遠寺の藏書であつたと信ぜられる。そして又各卷の首題の左下方〈但し第七帖の如きは扉の裏頁に存する〉尾題の下方には「金澤文庫」の長方形大型墨印があり且つ第十卷々尾には金澤文庫の創設者と推定せらるゝ「越州刺史」即ち越後守北條實時の自筆の跋文が載せられて居るから本來は金澤文庫のものであり、且つ最初から金澤文庫に進獻する目的で著述せられたものなる事が判るのである。此の書が、金澤文庫・久遠寺・武井坊、此の三者以外の所有と成つて居た時代があるか何うかは不明である。〈なほどこかの寺へ貸してあつたのは、別だから問題とはせぬ。〉(註。寛文五年に大島へ流された不受不施派の大立者に日述が居る。參考までに挙げて置く。)
本の大きさは縱七寸四分位、横五寸位にて、所謂粘帖綴(大福帳綴式)であり、用紙は自分には判らぬが、關先生によると麻紙と云ふ事である。強靱な紙質にて、其の紙の裏表に、濃い墨にて、克明に書いてある。書皮は本文用紙に別に同じ質のものを貼付したらしく、其のものには雲母模樣が施されてあつたと見えて、所々雲母が殘つて居る。
毎卷、無郭無界で、行數は大體十行、十一行にて二・三・四・五・六の五卷は十一行、七・八・九・一〇の四卷は十行、但し其の第十卷には九行の頁もかなり混じて居るから、他の諸卷にも十行と十一行とが混じ、又時には九行がまゝ混じて居る事もあるかも知れない。各行の字數は片假名漢字混りにて、大體がかなり大まかな宣命書きであるため無論不定だが、寫眞の分を數へると先づ〳〵一行二十二三字乃至二十八九字位であり、二十五・六・七字が最も多いやうだ。字形は小さいと云ふ可き方である。細字記入もかなりにあり、又小紙片を貼付して細字にて書き込んだものもあり、文字を訂正して傍記したものもあるが、何れも全部一筆である。朱筆記入としては、まれに、指聲符(アクセント符)が存するに過ぎない。なほ極めてまれには朱筆で傍訓を施したものもある。(但し自分の調査した帖の中で氣づいたのは、第三帖の中の一つであつたやうに記憶して居る)
一巻が一帖のものにて、第十帖の卷尾の跋語によると、十卷十帖本である事は明らかだが、現在では惜しい事に第一帖は殘存せず、九帖〈此の中にも不完全なるものもある〉が存するのである。しかも長らく虐待せられて放置せられてあつたゝめに、綴糸も殆んど不完全にて、第八帖の中間の六折七十丁が離れて別帖の如く成つて居たり、又一部が缺けたりして居るのである。其の上に無慘にも蠧害滿紙、中には殆んど網の如しと云つても可い位の紙もあり特に綴糸の所に於いて甚しく、かなりの紙片が蟲害にて所々離れて居るのは珍しく無く、本を繙けば、蟲害により斷片と成つた小紙片(文字の片畫や全形を有するもの)が飛落したりするが、如何ともしがたいと云ふ有樣である。從つて本書を讀む事は、概して判讀と云はねばならぬのである。しかも讀めない所は夥しいのである。故に假りに幸ひにも本書が寫眞版により實物大に複製せられる事ありても、實物では判讀できるものであり乍ら複製本だけを見て居ては讀めないところも多々出來るだらうから別に活字になほしたものをも添へねばならぬ。とにかく亂れた本であるため、關先生の如きも全卷十帖のものとせられて、卷序不詳の一帖を、餘分のものとして認められた程であるが、再度の調査の時に至りて漸く、其の所屬不定のものが、第八帖中に收まるものなる事が判つたのである(其の錯簡を正されたのは關先生である。感謝致さなければならぬ)。今各卷の存闕と其の紙数とを示すと左の如くである。紙數は關先生の御計算と、自分のものとが一致せないものもあるが、紙が密着したりして居るためであり、自分は一枚位の事だから、時間を惜みて其れを確める事をせなかつたのである。

第一帖(闕)
 
第二帖(不完全)
卷首白紙一丁、墨附五十九丁、以下闕、卷首にある金澤文庫印は卷首の白紙の裏頁の左下方に存する。
第三帖(不完全)
首闕、墨附五十四丁、但し、第二十丁と第二十一丁との間に闕あり、卷尾白紙四枚。
第四帖
卷首三枚、但し其の中二枚は完全に密着して離れず、即ち表書皮である、墨附百九丁(關先生の計算は百八丁)卷尾白紙四丁。
第五帖
卷首白紙二丁、墨附九十五丁、卷尾白紙二丁。
第六帖(不完全)
卷首白紙二丁、本文は、首闕、墨附百四丁、卷尾白紙二丁。
第七帖
卷首白紙二丁、墨附百三十六丁、卷尾白紙八丁。
第八帖
卷首白紙二丁、墨附百五十二丁、卷尾白紙二丁、但し裏書皮なれば離れず。
第九帖
卷首白紙二丁、墨附七十八丁(關先生は七十七丁)、卷尾白紙四丁、うち二丁は離れず。
第十帖
卷首白紙二丁、墨附は識語を加へて四十六丁、卷尾白紙四丁。

此の中、卷首や卷尾の白紙と云ふ中には、二丁貼付けの書皮が含まれ居り、或るものは糊の粘着力失せて離れ、或るものは離れないものである。全九帖の墨附の總數八三三丁、(一六六六頁)九帖を積み重ねると四寸程である。
さて本書は、一口に云へば色葉分類語原辭書で、其の分類が言葉即ち名語の字數により、一字のもの――これを一字名語と云ふ。故に書名を名語記と云ふのである名語は呉音にてミヤウゴと呼ぶ可きだらう――二字のもの、三字のもの四字のもの、五字のもの(それ〴〵を二字名語、三字名語、四字名語、五字名語と呼んで居る)に大別〈五字以上のものは無い〉して居るので、各卷は其れ〴〵一字名語の卷、二字名語の卷、三字名語の卷、四字名語の卷、五字名語の卷と云ふ風に成つて居るのである。各卷の大體の定型的形式は、卷首表頁に

名語記卷第何        沙門經尊撰

とあり、其の次ぎの行に少し下げて
「一字名語 イロハノ四十七言コレヲツクセリ」と云ふ風に其の卷の内容綱要を明示し、さて序文のある第一卷・第七卷の兩卷を除くと、一行乃至二行程空白を置いて、イ・ロ・ハ・ニ……と標目を一字で示すか〈一字名語四字名語五字明語の各卷〉又はイロ・イハ・イニ・イホ・イヘ・イトと云ふ風に二字で示すか 〈二字名語、三字名語の各卷〉の何れかである。此の第二言までも色葉順であると云ふ事は、從來は、此の種のものとしては徳川初期の類字假名遣や鸚鵡鈔が現存最古のものとせられて居たのだから、色葉分類辭書史上では大いに注意すべき事である。次ぎに卷尾の所を見ると、各卷「名語記卷第何」と尾題が存するのである。金澤文庫の藏書印は、卷首では何字名語云々とある左下方にあるのか普通であり(卷二・七の如きは卷首頁に對する前頁の左下方に存する)、卷尾では尾題の下方に存するのが普通であるが、卷九の如く右下方に存するものもある。第八卷のものはさかさまに捺されて居る。さて是れだけ大體の事を述べて置いて、さて各卷の内容を説くと

第一卷
全部闕失して居るから、内容は不明だが、後述する如くに、總論の卷であると信ずる。これには、全六卷(又は全十卷)としての序文があつたらうと想像せられる。
:第二卷
「一字名語 イロハノ四十七言コレ〈ヲ〉ツクセリ」とある通り、一字名語の卷であるが、卷首にかなり長い序文――但し六卷分の序である。此の事も後述する――が存し、三行明けて其れよりイロハ順の語原釋がはじまり、卷尾の裏頁は最終行が、ミ部の第一行で終つて居る。即ち其れ以後は闕け失せたのである。イよりメまでの平均丁數から云へば、ミよりスまでは十丁分程のものだつたらう。
第三卷
此の卷は卷首は闕けて居るが、卷尾は完全である。當然「二字名語」の卷にして、イよりヲ部のヲスに至る十二字分の二字名語を解釋したものであるべきだが、現在ではサレバヨのハヨの語より始まり(其の丁は紙の上方が五字分以上破れ失せて居る)其れ以前は闕けて居る。又卷の内部ではニ部のニキまであり、其れよりヘ部のヘクまでは闕けて、ヘヤより始まりヲスで終つて居る。落丁は三十丁位のものだらうか。
第四卷
卷首に「二字名語〈ワカヨタレソツネナラム/已上十一字記〉」とあり、第三卷に續くものである。
第五卷
卷首に「二字名語〈ウヰノオクヤマケフコエテ/已上十二字記之〉」とあり、第四卷に次ぎて二字名語の卷である。
第六卷
前卷についで二字名語の卷であるから、恐らくは「二字名語〈アサキユメミシヱヒモセス/已上十二字記之〉」とでもあつたらうが、今は卷首は闕けて、(其の闕失は十數丁又は二十丁位のものだつたらうか)アヤより始まり、ス部のススで終つて居る。さて此の卷までの六卷で名語記はひとまとまりと成つて居るものらしい。其れも後述する。
第七卷
卷首に「三字名語〈イヨリムマデ廿三字記之/疊字コレヲノゾク〉」とあり、卷尾の尾題の前の行には「已上三字イヨリムマデ記之」とある通り、三字名語の卷である。三字名語であるとは云へ、標出するには二字名語の卷同樣に二字で濟ませて居る。(疊字云々とある疊字は他書の用例から云つても、本書の用例から云つても漢字の二字熟語の義である。さて此の卷には、卷頭の三字名語云々の次ぎに七行分の序があるが、其れは七・八・九・一〇の四卷に對する序文であつて注意すべきものであるから後述する。)
第八卷
卷首に「三字名語〈ウヨリスニイタルマデ/已上廿四字記之〉」とあり、尾題の前の行には「右三字名語記録如件」とある。第七卷に續く三字名語の卷で、もと中間の七十丁〈クヲよりキリに至る〉が別卷であるかの如くに分離して居つたのだが、再調査の時に關先生の御努力で原形に復せられたものなのである。さてこゝでイロ・イハ・イニ式の標目の擧げ方につき一言すると、解釋せられる語中に、イロ・イハ・イニと續くものがあらうが無からうが必ず悉く擧げて、然う續くものがある場合のみ其の語を解して居る。例へば第七帖で云へば、イイ・イロと標出してあつても、イヽと續く語は無く、イロと續くイロハ・イロフ・イロコがあるのみである。イニ・イホ、イヲ・イワ、イレ・イソ、ノ子〈命云イ子の誤り、まゝ〉イナ、イヰ・イノ、イエ・イテ、イア・イサ、イセ・イスの如く二種づゝ標出してあるものは、全部上段のものは解釋中に然う續く語の見えないものである。ロの部ではロイ以下ロウまでの二十四種が、三行にわたりて擧げてあり、最後のロウに關してロウシ(簏子・樓子)が擧げてあるのである。
第九卷
巻首に「四字名語イロハノ卌七言コレヲツクセリ」とあり、卷尾に「已上四字名語畢」とある。四字の名語を擧げたものだが此の一冊でイよりスに至る全部にわたつて居る。從つて語彙の少いのは云ふまでも無い。イロ・イハと云ふ風に擧げずして、イ・ロ・ハ・ニ……であるが、本文では無論第二言も色葉順である。
第十卷
卷首に「五字名語イロハノ卌七言コレヲツクセリ」とある。五字名語の卷で二二三語を解釋して居る。スの最後の語スヽカブト(餅味噌水の名)の次ぎに「右一二三四五字ノ反音ノ名語、大概記録畢、但一具タル事、散在シテハ、ナヲ分明ナラザレバミム人〈ヲ〉シテ、心エヤスカラシメムタメニ、ヲノ〳〵一所〈ニ〉ヨセテ、シルシ申事等ホノ〻コレアリ」と云ふ斷り書きが四行あり、さて其れより二行置いて、
員数事
文字通り員数に關係した事を述べる。約五丁分ある。ヒトツ・フタツ・ミツ・ヨツなどのツの語原解釋や、算の事などが見える。やはり無論片假名文。
支干事
「員數事」と二行隔りて是れがある、漢文や和文で、二丁分のもの。干支とは無くて支干事とあるのである。
年限事
右の「支干事」から二行程隔りて「年限事」十三行分がありて、今年コトシ去年コゾ去々年サイトトシの三語を説いて居る。
日限事
右の「年限事」と一行の隔りありて「日限事」がある全部で二十四回、今日ケフ昨日キノフ一昨日ヲトトヒ・サイトヒ「〈一昨日ノア/ナタノロ リ〉」明日アス明後日アサテ・シアサテ〈明後日ノ/アナタ〉などを説く。
があり、これらは全部で計九丁と半頁分とである。さて此の卷と第九卷とではイロ・イハ・イニと云ふ風には標出せずして大きくイ・ロ・ハと云ふ具合である。
多くの名語(單語)を擧げて解する模樣は、イロと續く語を擧げる場合で例示すると、先づ「問、イロ……云々ハ如何、答……」の形式にて、其より後は「次、イロ……云々ハ如何、答……」と順々に「次」で續くのが普通の形式である。即ち問答體である。「答」を畧する事はまゝある。答の内容は一種とは限らず「イグチ如何、アキ反リテ、イ也、アキクチ〈ノ〉義歟、エリ〈ノ〉反モイ也、エリクチ歟、オニ〈モ〉〈ト〉カヘル、鬼クチ歟」〈三帖〉と云ふ具合に概して二種三種の解答を擧げるのが常にして四月ウツキの語の如きは、五種の「推」即ち臆測を試みて居る。從うて各語の解釋は長短さま〴〵にして、一行のものもあれば、正月ムツキの解の四頁と五行分、ホトケの解の四頁分の如く長いものもあるが、大體二三行乃至四五行程度か。第十帖は三十五丁の裏一行までに二二三語が解釋せられて居るから、一頁十行として勘定すると一語が三行の平均である。以て全豹を推すに足るかも知れない。解釋の文は敬語が豐富である。解釋せらる可き語を補ひ、又解釋其のものを補ふには、行間に細字で書くか、又はまゝ押紙を施して記入して居る。皆一筆である。解釋せられてある語は、雅言と云ふべき王朝語もある事はあるが、概して鎌倉期の生きた言葉であると見られるのである。(此の點が實は本書の最も有難い點である。後述)固有名詞の類は地名又は其れに準すべきものが少しあるのみである。(人名にトヨ・トヂ・クマをつける事の説明もあるが、其れは別の事である。〈後述する〉)同じチタメクがチタの所に見えたり、又チタメクの所に見え、イグチが二帖と七帖とに見えたりする例もまゝある。
こゝで假名づかひの事を云ふと、イロハ四十七字は何時も全部が、標出せられて居り、ヰオヱを省畧すると云ふやうな事は無いが、然うかと云うて、假名遣が正しいと云ふ譯では無く、誤りのある事は云ふまでもなく、ヲの部に擧げる時はオでも皆ヲで示すと云ふ風である。標出せられた語彙の他に、其れを説明する用語に假名遣の不正なものゝ多いのも勿論である。
ついでに本書を標記の方面から觀察すると、漢字混り片假名文にして、宣命書き體である。假名字體の、今日のものと異るものを擧げると、ケに近い形のもの。尤も今のケと殆んど同じものが多い) シ(之の草體に近いもの。今のシに近いものもある) せ(單用にてセは無い) (ツにやゝ近い形のものもある) (單用) (ホも使つて居る) (單用であるらしい) (單用) ワ(二筆で圓形に近き形のもの)などが注意すべきである。此の他、ヌヒヘムメモリルヱなども今のとかなりに違ふ。濁點は全く施さず、撥音は必ずムで示し、促音は標記せないやうである(例が少い)。重點は〳〵が普通でまゝである。まれに言葉の左旁に朱の指聲符〈濁音は二點〉を施して居る。第二卷のカトのところの寫眞は、指聲符を施して居る例の標本として撮影したものである。、や。は無論無い。