2008-07-05から1日間の記事一覧

然らば其の經尊は何う云ふ沙門であつたらうか自分は全く知らず、關先生も「史料編纂所で査べて貰つたが、全く判らなかつた」と云はれたのである。他日外部的材料によりて、其の傳記が判明してくるまでには、本書に現はれた經尊の面影をつかむ他は無い譯だが…

本書著述の動機や樣子や時期の事などは、恐らくは序文が存したであらうと想像せられる第一卷が闕けては居るにしても、第二卷の序、第七卷の序、第十卷の實時自筆跋文の三種によりて大體明らかである。今其れらを順々に示さう。先づ第二卷のものは左の如くで…

既述の如く、本書は遺憾乍ら第一帖が、失はれて居るのだが其の内容が何う云ふものであつたかを考へるに、一字名語は第二帖より始まつて居る事から察すると、第一帖は單語の語原の解釋を試みたものでは無くて別な内容のものであつたらしい。しかして、徳川期…

本書の書誌學的な紹介は既に關先生が書誌學八月號の中で三頁餘りにわたりて物して居られるのであり、先生は他日其れを訂正して詳しい解説を物せられる御豫定であられるので、今自分が、其の方面に觸れるのはまことに心苦しい次第であるが事の順序として記す…

さて本書の發見に至るまでの經路を述べるには其れが今までに如何に待遇せられて居たかを述べなければならぬ。 そも〳〵本書は身延山久遠寺の支院武井坊正行{タケヰバウシヤウギヤウ}院(住職は小松海淨師、久遠寺の執事、紺綬褒章拜受、日露役の名譽の負傷…

徳川期に於ける語原解釋の主なる主義は、通畧延約説と音義説と、擬聲説とであるが、此の中鈴木朗の擬聲説は、今日から云へば最も注意すべきであるが、實際としては最も勢力無く、〈音義説が朗の説より出て居るとの解釋は自分は取らない〉その悉曇の字義字相…

鎌倉期の語原辭書名語記十帖に就いて(上)

岡田希雄 國語・國文 5(11): 81-106 (1935)