然らば其の經尊は何う云ふ沙門であつたらうか自分は全く知らず、關先生も「史料編纂所で査べて貰つたが、全く判らなかつた」と云はれたのである。他日外部的材料によりて、其の傳記が判明してくるまでには、本書に現はれた經尊の面影をつかむ他は無い譯だが、經尊が本書を作る場合には、其れが語原辭書であるからでもあらうが、全く自分の事を説かず、當時の世相をも、故事をも説かず、たゞ專ら語原解釋のみを試みて居るに過ぎず、〈此の點、實は學術的であるのだから大いに感ずべきである〉此の點では、隨筆體問答體の百科辭書と云ふ可き慶袋(建治弘安頃の作か、作者は觀勝寺の良胤か〈文學昭和七月號拙稿參照〉)十一卷とは雲泥の相異があるので、經尊の如何なる人であるかを知らんとする事には大いに不都合を感じる。〈尤もこの事は、自分の調査の範圍が二・三・七・九・一〇の五帖のみであり、其の調査も虫害のため精讀が妨げられ、從つて資料を見落した事も考へねばならぬ。今は自分の氣づいた範圍内について云ふのである。〉だが、自序や實時の跋文や、本文の中でほのかに窺はれる面影をまとめると、左の如き事が判るのである。

  • (一)稻荷山に幽栖して居た沙門であり、法橋の僧位を有して居た〈第二帖序/實時跋文〉其の稻荷山に關し、經尊はどことも云つて居ないが、稻荷山と云へば、普通は山城深草のものであらう。「フルキ文書ヲヒラキミ侍ベレバ、コノ稻荷社〈ノ〉樓門〈ヲ〉……」〈八帖ツカサの條〉と云つて居るのも、八帖のカヤカミ(紙屋紙)の條に「仁和寺〈ヘ〉マカル道〈ニ〉寶金剛院ト申ステラノカタハラノ河ヲバ、カヤカハトナヅケタリ……」と云つて居るのも、「リク〈ト〉イヘル所如何、答宇治〈ニ〉イマセル神社ノ御名也」〈三帖〉と云つて居るのも、山城の稻荷と解するに役立つだらう(京の事にも殆んど觸れて居ない)。本書中に時々宣命・告文の事が見えるのも〈二帖トの條、九帖カレコチの條、十帖ヤスラケク・タイラケクの條〉山城の稻荷であると云へる材料に成る。
  • (二)其の稻荷山は東寺(教王護國寺)の鎭守であり、稻荷と東寺とは密接な關係があつたのを考へると、稻荷山に幽栖したと云ふ經尊は、眞言宗の僧では無かつたらうか。
  • (三)文永六年・建治元年の頃、すでに老人であつた〈二帖自序/實時跋文〉
  • (四)自序に悉曇の事を云ひ、本文中にもまゝ、悉曇に關する言があるから、多少は其の方の心得もあつた人であつたやうだ。
  • (五)其の悉曇と云ふと、密教關係のものであるから、著者が悉曇を知つて居ると云ふ事は、彼れの身分を推定するに役立つのではあるまいか。
  • (六)經尊は時々「イハミカタ如何、コレハ和歌ナドノ詞〈ニ〉アル歟、ソノ心ヲバ歌道ノ人シレルベマヽシ」〈十帖〉「ケヽラナク如何、コレハ歌道ノ人申スベシ」〈十帖〉「野ベ山ベノベ如何、コレハ邊〈ヲ〉ヘトイヘリト歌道〈ノ〉人サダメ申セル歟……」〈二帖〉クレタケ如何、歌道ノ人申.ムネアル歟……」〈九帖〉「山ノハ如何、コレハ歌道ノ人山〈ノ〉〈ト〉サダメ申歟……」〈二帖〉伊勢物語〈ニ〉ヨヒトサダメヨ〈ト〉イヘル如何、コレ〈ハ〉歌道〈ノ〉人樣〻〈ニ〉申セル歟、フルキ尺〈ニ〉ユヅルベシ」〈七帖〉「古歌〈ニ〉ヲチカヘリ□ホニナクナリホトヽギス〈ト〉イヘルヲチカヘリ〈ヲバ〉一説〈ニ〉百チカヘリト尺セリ〈ト〉キコユ、百ヲヲトヨムニアタレリ、歌仙サダメテ申スムネ侍ベル覽カシ……」〈十帖〉などゝ云つて居るが、これは經尊が「歌道ノ人」「歌仙」で無く、歌道の嗜みに於いて餘り深く無い事を物語るものと見るべきであらう。
  • (七)ところが是れに似たものに「問、牛〈ノ〉〈ヲ〉ニウト〈テ〉〈ニ〉供スルニウ如何、答、ニウハ乳也、ソナフル故ハ眞言師申スベシ、子細アル事也」〈三帖〉「問、眞言ノハジメ〈ニ〉大旨〈ハ〉ヲム〈ト〉トナフ如何、答ヲム〈ハ〉唵也、歸命ノ句、助我ノ義トナヅケタル歟、但マヽ〈ハ〉梵字ノ假字也、梵字□字〈ニ〉空點〈ヲ〉ウチタリ×〈希云摩多第五に空點をうちたる字形〉〈ト〉カケル歟、フカキ心ハ眞言師シマヽルベシ」と云ふのがある。此の云ひ方に據ると、經尊自身は祈祷加持を主とする眞言師では無かつた事を認めなければならぬ(「眞言師」の語はも一つ三帖に「リヤノ半體ナドイベル事如何、答コレ〈ハ〉梵字沙汰〈ノ〉時イデクル事也、眞言師ノホカ、餘人コレヲシルベカラズ」と云ふのがあるが、是れも、眞言師以外知つて居る筈が無いから、眞言師で無い自分には書けないと云ふ義であるかも知れない。)但し眞言僧であつた事は認めて可いやうだ。
  • (八)經尊は今も述べたやうに自分が「歌道ノ人」で無く、歌道に通じて居る人間に非る事を示して居るか、其の癖、引用書から云へば〈後述の如くに〉萬集集の名が最も多いのである。此の點も注意せなければならぬ。
  • (九)鎌倉の武人中に知人があつた。

とにかくこれ位の事しか判らない。
しかして斯う云ふ經尊が遙々と金澤カネザハ文庫〈尤も此の時斯う云ふ名があつたといふのでは無い〉の主人に、著書を進呈したのである。此の事は、少し不審しいやうではあるが、實は然うでは無い。金澤文庫で書籍を蒐集した時には、文化の中心たる京都に材料を仰いだのであり、京と實時の家とは密接な交渉があつたのだから――後に水戸黄門や、前田松雲公が京畿それも主として京に、書を求めた場合を考へ合はすべきである。又實時の女兄弟や實時の女は、京の堂上家に嫁いだりして居る。――經尊が名語記を進獻しても何等不思議は無いのである。しかし、何らか特別の關係があつた事を考へねばならぬ。その特別の關係が未だ判らぬのは遺憾である。


以上説くところ、前置きとしては長過ぎたかは知らぬが自分は必要と考へて居る。以下、語原解釋の模樣や本書の國語學上の價値を述べる。(以下次號)