本書著述の動機や樣子や時期の事などは、恐らくは序文が存したであらうと想像せられる第一卷が闕けては居るにしても、第二卷の序、第七卷の序、第十卷の實時自筆跋文の三種によりて大體明らかである。今其れらを順々に示さう。先づ第二卷のものは左の如くである。句読點や濁點旁點は例により今施したのである。(今後引くものは、一々斷らないが皆さうである)

名語記卷第二                                         沙門經尊撰
一字名語 イロハノ四十七言コレ〈ヲ〉ツクセリ
右コノ書〈ノ〉〈キ〉ナルオモムキ〈ハ〉釋尊ノ遺教〈ニ〉ヲイテ、宗〻マチ〳〵ナ〈レ〉ドモ、顯教〈ハ〉法門〈ノ〉奧義ヲノミ談ジテ、文字〈ノ〉沙汰〈ニ〉トヾコホラズ、大日如來〈ノ〉眞言教〈ニ〉ツキテ、悉曇〈ノ〉一道アリ、ヨク梵字〈ノ〉名義ヲ流通シテ、反音〈ノ〉肝心ヲシラシメタリ、大國ノ先徳、カノ道ニ達シテ顯密ノ聖教ヲ漢字〈ニ〉翻譯セリ、日本ノ祖師タチモ、入唐ノトキ直〈ニ〉正説〈ヲ〉ウケナラハレテ、根性ヲノ〳〵明敏ナリシカバ、禽獸〈ノ〉音ヲキヽテモ、カレラガ所存〈ヲ〉察シ、風波ノヒヾキ〈ニ〉ツケテモ、宮徴ノミナモト〈ヲ〉サトラレケリ、サレドモウラムラクハ、三國融通セルヤマトコトバノ尺マデヲバ、ツクリヲカレズ、孔子老子ノ典籍〈ニ〉ヨセテハ、上代ノ碩哲、古今ノ名儒、ヲノ〳〵文筆〈ニ〉タクミニシテ、平他〈ニ〉ツケテ、ヨク韻聲ヲサダメタル書籍ヲツクリ、一字〈ニ〉ヲイテ、イクツノヨミアリトイフ口傳ヲバ、ヨニツタヘシラシメタレドモ、ソレモマサシクモノゴトニ、ソノユヘヲトキアラハシ、コトバゴトニ、ソノオコリヲ、ワキマヘノベタルアト〈ハ〉キコエズ、コノユヘ〈ニ〉人ミナ不審ヲフクミ、世サナガラ蒙霧ノ散ゼザルモノモノ(マヽ)也、コヽニ愚質稻荷山〈ノ〉幽栖〈ニ〉シテ、老眠ツ子ニサメ、イタヅラニ〈ヲ〉ノコセル曉ゴトニ、シヅカ〈ニ〉コノ事〈ヲ〉案ズル〈ニ〉〈ト〉イヒ、コトバ〈ト〉イヒ、トモニカヘシニヨリテ義〈ヲ〉ナセリケリ〈ト〉〈シ〉ヨセタリ、シカルアヒダ、末代〈ノ〉幼童ラガ迷闇ヲヒラカシメムタメニ、イマコノ集ヲ録シテ名語記〈ト〉ナヅケムトコヽロザストコ ロ也、タヾシオモムキミナ理ニソムケリ〈トテ〉ソシリステム人〈ヲバ〉ウラムベカラズ、實ニモイニシヘヨリイマダナキコト〈ヲ〉ハジメ〈テ〉ツラネヲケル今案〈ノ〉トガ、ノガレガタキユヘニ、ヲノヅカラマタ、ムカシニモカツテ、キカザリツルヲシヘナリトテ、ユルシ感ズル仁〈ニ〉アヘラバマユ〈ヲ〉ラクベシ、アヤマリ〈ヲ〉サダムルヒロキナサケヲ、ヲモクスベキユヘ〈ニ〉ヨリテ、オモヒウルニシタガヒテ、一二兩字カツ〴〵モテ類聚ス、三四五言コレ〈ニ〉准ジテ、ヨロシクシリヌベシ、トキニ文永五年〈戊/辰〉 月 日一部六卷勘進功ヲヲフ、イフコトシカナリ

さて是れによると、著者經尊は稻荷山に幽棲して居る老年の沙門であつて、悉曇の心得もあるのであつたが、入唐の日本の祖師達も、悉曇の正説は受學せられたけれど、ヤマトコトバの尺〈解釋〉までは試みず、孔子老子の儒籍に親しむ上代の碩哲、古今の名儒は漢字については、韻やヨミを研究はして居れど、ナやコトバに關してユヱ(義であらう)やオコリ(語原)を研究したと云ふ事も聞かないので、其の點を慨歎し、老の寢覺の曉ごとに、ナやコトバのユエやオコリを考へてナやコトバはカヘシ(反)によりて義をなして居る事をはじめて悟り、本書六卷を作り、コトバとに因みて、名語記と名づけるに至つたのである。斯う云ふ事は「イマダナキコト」であり獨創説である。故に、誤りがあるからと謗られても怨みとはせない、自説を容認してくれる人があらば喜悦の眉を開くのだ。一字二字の言葉を説明する。三字・四字・五字のものは准じたら直ぐ判るから其れは説かぬ、と云ふのであり、此の六卷の勘進を完成したのは文永五年戊辰某月某日である。著者はナとコトバとを對立せしめて居ながらも、其の意味は説いて居ないのである。名と云ふと大體は物の名であり、コトバは其れ以外のものを云ふのではあるまいか。著者はテニハと云ふ術語も使用して居る人である(三分類説は後述す)
ともあれ、此の序文は二字名語の第六卷までのものなる事が明らかである。
斯くの如く、經尊は、二字名語まではかつ〴〵書くと云つて、三字以下の名語は書かぬ由を言外に含ましめたが、必要にせまられて、後に成りて三字名語・四字名語・五字名語をも解釋する事に成り、こゝに、三字名語の第七第八、四字名語の第九、五字名語の第十卷を作つて、其れに序を加へたのであるが、其の序文は左の如くである。

右一二兩字、カツ〴〵モテ類聚〈ス〉三四五言〈ハ〉コレニ准ジテシリヌベキヨシ、ハジメカムナノ序〈ニ〉申ヲケリトイヘドモ、二字〈ヲ〉反シテ一字〈ト〉ナス事ハ、反音ノツネノ作法ナレバ、鈍者モ心エヤスカルベシ、コレ〈ハ〉一字〈ノ〉不審ニツキテ、カヘリテ二字ノミナモトヲサグリイダセレバ、幼童ナヲマドヒヌベキユヘニ、カサネテ三四五字ノ名語ヲ、記シクハフルトコロ也

一字ノ不審云々は、名語中の一字の意味が判らぬ場合に其のミナモトたる二字――經尊の言によると名語はカヘシで成立して居るのだから一字の根源は二字である――を探り出すには迷ふ事もあるから云々と云ふのであるやうだ。
ところで第十卷の尾の實時の跋文は

建治元年六月廿五日、稻荷法橋經尊之所㆓送給㆒也、件帖者、去文永六年愚草之名語記、令㆓進上㆒之時、正備㆓高覽㆒、下㆓賜御所御返事㆒之上、御馬牽預了、生前面目、老後大幸也、而氣味不愚之餘、重令㆓案立㆒、三四五字之反音、今度邪推之時、聊故實出來、先進之書、僻案䚹謬多々之間、大畧令㆓改註㆒了、仍十帖進㆓上之㆒、於㆓先度之六帖㆒一向可㆑被㆓破却㆒云々〈此帖稱㆑有㆓所縁㆒奧州家人□□宮内左衞門持㆓來之㆒〉者、先度雖㆑不㆑知㆓書之善悪㆒、感㆓好文之志㆒領納了、今度又宜㆑然者歟 越州刺史(花押)

とあるのである。〈書誌學所引のものでは、重乞案立と成つて居り、又十帖進上之の下に於字が脱ちて居る。因みに氣味不愚では御身ぼめとなるやうだ、下愚とでもあつたのではあるまいか。目の屆かなかつた事を惜しむ。令字は關先生の氣づかれたもの、於字は自分の氣づいたもの〉此の識語では、實時の言の中に經尊の言が引用せられて居るのであるが、經尊の言は去文永六年又はもう三字を加へて件帖者より破却云々までゝあり他は實時の言であらう。さてこれによると、文永六年に〈其れよりはるか以前より實時は書物の蒐集に努力を拂つて居た〉經尊が六帖本名語記を實時に進上した所高覽に備はり、御所即ち實時の御返事を下し賜はり大いに面目を施した。〈「御馬牽預了」の意味は、馬を引出物として貰つた事ではあるまいか。關先生に別の解がある〉しかし、重ねて更らに三字四字五字の語の反音をも考へた所、聊か「故實」――こゝの故實は定則原則と云ふやうな意味で使つて居るものらしい――が判つて、先度進上の六帖本には僻案䚹謬多々ある事に氣づいたので、今度は大畧改註した。そこで本も十帖本として、前の六帖に、三四五字の部四帖を加へて十帖として進上する。從うて先度の六帖本は未完成本として破却し、此の十帖本を定本として保存してほしい、と云つて、文永六年よりは六年後の建治元年六月に經尊が實時に進上したのである。〈經尊は、實時に直接に進献せずして、所縁ありとの理由で隩奧守の家人宮内左衞門を經て贈つたものらしい。宮内左衞門の上の二字分は虫損により何うしても讀み得ない〉ところで是れに對して、實時が記して居る云ひぐさが面白い。經尊は、先度の本は僻案䚹謬が多々あるから破却してくれなどゝ云うては居るが、自分は先度の書の内容の善惡は知らぬ、たゞ經尊の「好文之志」に感じて好意を納れて領納したに過ぎない。今度の十帖も亦其の通りなのだと云ふのである。實時は六帖本も、十帖本も恐らくは目も通さぬのであつたらう。當時の學術としては、漢籍や内典の如きが重んぜられ、國書としては四道の書が喜ばれ、假名文は輕んぜられて居たのだから、實時も然う云ふ内外典、四道關係の書ならば、流石好學の大名として、披見もしたらうが、和語の語源解釋の如きは何うでも可いのであつて、披見するやうな事はなかつたらう,又たとひ披見したところで、日常語の語原解釋などに、興味も感じ得なかつたらうと云ふ事は想像に難く無い〈今日の國語學者でも語原研究に興味を有して居る人は僅少であると思ふ。一般人も然うだらう。ました武人や貴族においては然うだらう。〉經尊は最初の六帖本獻進の時に實時より、手厚い謝禮に接したので、「生前面目、老後大幸」などゝ感謝し、感激したからこそ、十帖本の進獻をしたのではあるが、經尊が、此の「不知書之善惡云々、今度又宜㆑然者歟」と云ふ識語を、寓目する事あつたとすれば、唖然として苦笑する他は無かつたであらう。上人の感涙いたづらに終つたに相異ない。だが富貴の實時が經尊を感激せしめたるは、十帖本を生む動機とも成つて居るのだから、結果に於いては、われ〳〵にとりては有難い事である。
とまれ經尊は、六帖本を文永六年に完成し――其の本は實時に見せるためであつたか、自分の趣味の滿足からであつたかは、疑問である――其の後六年間には恐らくは進獻の意志で六帖本を改註し、又第七帖以下の四帖を加へて十帖本を作り、建治元年六月廿五日に〈此の五月に實時は所勞による六浦ムツラの別業即ち金澤に籠居したのである。〉實時に贈つたのであり、本書中に敬語の多いのは對照として實時を考慮に入れて居たが爲めであるとも考へ得るのである。然らば現存の本はまさしく其の十帖本である筈であるから、第二帖に、六帖本としての文永五年の序文などは無くて濟む筈であるのに、其れが十帖本にもあるのは何故か、これについては今日の十帖本は、舊い六帖本と、後の十帖本中の七帖以下の四帖とが金澤カネザハ氏の書庫内で、誤つて組み合はされたためではないかとも考へられはするが、本の體裁や文致や、筆致に於いては、此の兩部分が時を異にして作られ、又寫されたものであると云ふ推定は出來ず、兩部を文永末又は建治初年の成立・訂正・書寫であらうと思ふのである。(其の六帖本は、文永六年に贈られたものだから、翌文永七年十二月の實時邸燒失の時に自然完然に、破却せられて居たかも知れぬ。因みに實時は、此の本を贈られた翌年、即ち建治二年十月二十三日に五十三歳で歿して居る。)
故に、六帖本としての序があつても、其れは、たゞ舊本の序を保存しておいたと云ふ他に特別の理由があるやうにも考へられないと思ふ。