一三

以上で、名語記の語原解釋の方針や實際を――僅かに二・三・七・九・一〇の五帖によつて――述べたのであるが、讀者はも早大體、本書について批判を下す事も出來るであらう。
こゝで自分は更めて、本書の語原解釋の價値批判を略述して見ると、流石に鎌倉期のものだけあつて、學術的價値の至
つて乏しいものなる事を斷言せざるを得ないのである。

(一)

先づ、音通で説明する事であるが、これは確かに正しい方法ではあるが、むやみやたらに濫用する事は明かに不都合である。しかして著者のは、確かに無定見で濫用しすぎて居る(但し此の事は、實は名語記の著者についてのみ云ふ可き事では無く、徳川期の學者にも云ふ可く、今日の古語解釋の實例についても亦云ふ可き事である。要するに、五十歩百歩と云つて可からう。次ぎの通・約も亦其の通りである)

(二)

音の省略も亦、言語轉成の際の一樣式であるから、語原解釋の一方法であるのは確實であるが、これも名語記では濫用せられて居り、しかも、荷について「ニナフトヨメル、ハジメヲトリテ、ニ〈ト〉イヘル歟」〈二帖〉と云つて居る如き、本末を顛倒せしめて居るかの如き説もあるのである。此の最も濫用せられた例として徳川期の倭語小解五卷享保十一年成、源式如撰〉がある。

(三)

カヘシと云ひ、反語と云ひ、約言と云ふ用語の含む聲音變化現象は、中々複雜なものであり、確かに聲音變化現象中の優勢なものであるのは認められるが、これも無論濫用せられると困る。しかも徳川末期でさへも濫用せられるのが通常であつたのだから、本書が言語道斷と云ふ位に濫用して居ても咎むるに足らないが、やはり、何と云つても大缺點である。

  • ○詞ニカヽリケリ如何、カクアリケリ也、中〈ノ〉クア反リテカナレバ、合〈テ〉カヽリトナル也(十帖)
  • ○タライ如何、盥〈ト〉カケリ、但手洗也、テアラヒ〈ヲ〉タライ〈ト〉イヘリ(七帖)
  • ○御トナブラのトナについて「御トノアブラ〈ト〉イヘル中ノノア反リテナトナル……」(三帖)

位で止めて置いてくれたならば、可かつたのだが、

次、サイバラ〈ニ〉飛鳥井トカキ〈テ〉アスカヰ〈ト〉ヨメリ、飛鳥ヲアスカトヨメル覽樣如何、コノ事サダメテ子細ハンベル覽、イマノ反音〈ニ〉ツキテ、コレヲ推スルニ、トブトリハ天ヲカケレバ、アマサル〈ノ〉心アリ、天〈ノ〉アマ〈ヲ〉反セバ、ア也、サル〈ヲ〉反セバ、ス也、カナ〈ヲ〉反セバカ也、アスカ〈ト〉ナリヌ、天去哉〈ナリ〉カヤウ〈ニ〉心ウレバ、飛鳥〈ハ〉マサルカナ〈ノ〉心ニテアスカ也、ヰ〈ハ〉井也。

の類の極端な牽強附會が大多數であるから、手がつけられないのである。*1。(一體名語記流に、「反」によりて語を説くと、一音節語が存するためには二音節があるべく、二音節の前には四音節がある可く――其の中では單語の分解も可能であらう――四音節の前には八背節ある筈と云ふ風に、等比級數的に溯り行かねばならなくなり、其の不都合な事は、極めて明確である上に、其の間には循環論法の誤謬に陷る事は必然であり、愈〻不都合である事は判りきつて居るのだが、名語記著者をはじめとして、此の語原解釋法を採る人々は全部然う云ふやうな事には全く無貪着であり、便宜主義なのである。だから此の種の語原解釋法は、大體非難せなければならない事にも成るのである。)

(四)

次ぎに、字音語、又は字音語らしいものに、漢字を當てる事は、國語研究に於いては、常の事にて、別に云ふ可き事も無いが、名語記が其の漢字を當てるに當りて、擬聲語と信ぜられるムリ〳〵(今のメリ〳〵、ミリ〳〵に當る)に無理〳〵を當てたりするからいけないのである。しかし、國語の殆んど全部を、其の語史に無關係で、皆字音語に結びつけようとする理博松村任三氏や、故與謝野寛氏等の異常の努力もあるのだから、名語記の態度も必ずしも笑へないのである。

(五)

今、語史に無關係でと云つたが、語史に無貪着であり、其の語の原形は知らずして、變化した後世の語形により、語原を考へたり、江戸時代の發生にかゝる新語と南洋土人の現語と比較したりする事は國語學徒ならぬ人々の間には普通に見る事だが――尤も語史の穿鑿は困難であるために、堂々たる國語辭書であり乍らも、變化した語形を土臺として滑稽な説を立てゝ居る例は珍しく無い――名語記の著者も亦其の通りである。例へば、

  • ○圓座〈ワ〉ワラダ〈ト〉ナヅク如何、コレハワラザ也、藁座〈ヲ〉ワラダトイヒマギラハセル也〈七帖。ワラダの原形は藁蓋であらうと思はれる〉
  • ○イモシリ如何、蟷螂トカケリ、ユリミヲスチレリ〈ノ〉反、イモシリ〈ハ〉童部〈ノ〉〈ヲ〉タヽキ〈テ〉イモシリヤ、ヘホウ、カウカメヤ、ヘホウ、トハヤセバ身ヲユリテ、舞フヨシヲスル也、ソノ心ニヨセテ、コノ反歟〈ト〉推ヲナセル所ナリ〈九帖。イモシリの原形はイヒボムシリである。新撰宇鏡伊比保牟志利、和名抄以保無之利。疣(イヒボ)を毟り取る義。其れがイボウシリ・イモウシリとなり、やがてイボシリ・イモシリと成つたのだ。シの清濁は不詳〉

の如きが其れであるが、イグチ(缺脣)についてアキグチ・オニ口などゝ云ふ説を述べて居るのも、イグチが元來はウグチ(兎缺)であり、これがイウ・ウイの相通にて(動〈イゴク/ウゴク〉 今〈イマ/ウマ〉 芋〈イモ/ウモ〉 茨〈イバラ/ウバラ〉の類)イグチと成つたのだと云ふ事を知つて居ないからであるのだから、全く無意味と成る(「神官〈ニ〉ハヽリ如何、祝也」と七帖にあるのもハフリと云ふ古形を知らないで解釋して居るのである)

(六)

著者が字音について甚だしく認識不足であつた事は、雙六がスグロクと成り、相樂がサガラカ、因幡がイナバ、設樂がシダラ、駿河がスルガ、讚岐がサタキ、播磨がハリマ、愛宕がオタギと訓まるゝ事に無理解であつた事から、充分に窺はれるが、此の字音に對する知識の不足と云ふ事も、本書の缺點の一つである。

(七)

本書が擬聲語や擬態語の語原までも、反なんどで説明して居る事は既述の通りであるが、此の種の語に語原解釋を試みた事は、字音語關係のものならば知らす、さも無くば、大部分が無意味である可きである。ところが、著者は、然う云ふ事は考へもせず、溺れる時のアブ〳〵、アプ〳〵、アツプ〳〵の如きまでも「泡吹く」だなどゝ説明し、極端な例としては

鹿〈ノ〉ナク音〈ノ〉カイヨ〈ト〉キコユル如何、コレ〈ハ〉ヲジカ〈ノ〉ツマヲコフルコヽロ〈ニテ〉コヒシヨ〈ト〉ナクガ、カイヨトキコユルナリ、又コヒシヨ〈ノ〉〈ノ〉ヒシ反リテヒ也、コヒヨトナル、コヒヨ〈ガ〉カヒヨトキコユル也、又ヤガテコ〈ヲ〉〈ト〉ナキナセル義モアルベシ(七帖)

の如きもあるのである。「カイヨ〈ト〉キコユル」のであるならば、たゞ然う聞こえると云ふだけで濟ませて置いたら無難であつたが「戀ヒシヨ」と鳴くのが「カイヨ」と成つたのだと云ふに至つては、痴か狂か、著者の心理状態は、まことに不思議なものである。〈かう云ふ例は他にもある〉森羅萬象中の音響の或るものに、人間が意味をつけて聞きなす事は、普通の事だから、云ふ事は無いが、名語記の説明は鹿が人語を解して、人語にて鳴いて居ると見なして居るのが、馬鹿〳〵しいのである。
要するに、以上の如きは、名語記の語原解釋の方針や、實際の解釋に於ける缺點である。此の缺點あるがために、本書は、語原解釋と云ふ點では、價値が至つて乏しいものと成つてしまつたのである。

*1:(註)(一)しかも其の反切の原語には、言葉としては意味をなさぬものが多いから、いよ〳〵言語道斷と云はなければならなくなる。