一四

とは云へ、觀點をかへると本書の國語學的價値は又大いなるものがある。

(一)

先づ其の語原解釋の中にも、妥當なものが無いでも無い。

  • ○タナゴヽロ如何、掌也、手〈ノ〉コ ヽロ〈ヲ〉タナコヽロ〈ト〉イヘル也、手〈ニ〉〈ヲ〉イヒクハフル時〈ハ〉カナラズタナ〈ト〉イハルヽ也、ソレハテノ〈ト〉イフベキヲタナトイヘル也(十帖)
  • ○タマクシゲ如何、玉匣也、タマハ稱美〈ノ〉詞也、クシゲハハコ也、櫛ヲイルヽ箱歟、櫛笥〈ノ〉義歟(十帖)
  • ○シバタヽク「シバ〳〵ノ義也、タヽタ〈ハ〉扣也」〈十帖〉○ナイガシロ如何、答、蔑也、無〈ガ〉〈ノ〉〈ト〉キコエタリ(十帖)
  • ○ハキ物ニワラマヽ如何、藁沓也、ワラク〈ヲ〉ワラウツマヽ〈ト〉云也(十帖)
  • ニハトリ如何、答、鷄ナリ、ツネ〈ニ〉〈ニ〉スメ〈バ〉庭鳥歟(九帖)

斯う云ふ例もかなりに存するのである。だがしかし、是れらの類も、實は是れらが四字名語又は五宇名語として、これより以上の細い解釋が無いからの事であり、うつかりすると、

短髮ノモノヽカクルカツラ如何、鬘也、×(長を篇とし、ク皮を旁とした文字)也、カミツラ也、ミ〈ハ〉〈ニ〉カヨフ、カムツラト云ベシ、髮マヽ也、髮連也、カムツクラカ、カムタルラカ、カミツルラヤノ反(七帖)

のやうに、カミツラ・カムツラで止めて置けば可いものを、一歩進みてカムツクラカ、カムタルラカ、カミツルラヤなどゝ云ひ出したゝめに、駄目と成つてしまつた例に成りやすいものである事は、充分認めてかゝらなければならぬ*1

(二)

次ぎに、著者は、言語に於いて、音の相通や省略や縮約(反)の生ずる理由に關して、

  • ○卅目〈ハ〉ミトカ〈ト〉イフベキ〈ヲ〉舌ツキ〈ノ〉イヒニクケレバ同韻〈ノ〉〈ニ〉ウツリテミソカ〈トハ〉イハルヽ也(十帖員數事)
  • ○稻荷……イナニトイフベキヲ、イナニ〈ガ〉舌ツキテイヒニクケレバ〈ガ〉同韻〈ノ〉隣ノリ〈ニ〉ウツリテ、イナリトイヘルナリ〈二帖荷の所。舌ツキノ・舌ツキテは何れか一方が自分の誤寫であるかも知れない〉
  • 衣手コロモデは元來コロモソデの反なるコロモセであるが「コロモセ〈ガ〉コハクテ同韻ノテ〈ニ〉ウツリテ衣手〈トハ〉イハルヽニコソ」(二帖)
  • ○ヌキヌ・果テヌのヌにつきて、ヌルの反、ナルの反、ノクの反、ノフの反などゝ云うた後で「又推シテ云、タルノ反ハツ也、ヌキツ、ハテツ、トイヘルガ詞コハクテヌトイヒワタサルヽ歟、見ツ・聞ツモ同體ノ詞ナレドそ、コレラハ、ニヌ・キヽヌ〈ト〉イヒテハ、アラヌスヂニキコユベキ〈ガ〉〈ニ〉〈ト〉イヘルナルベシ、ツトヌト所ニヨリテカヨフ事、ツネノ儀タル歟(二帖)

と云ふ風に、發音の難しいが爲めであると云つて居るが、一々の例の妥當如何は別として、著者が斯う云ふ事を考へて居たと云ふ事は、流石に注意するに足る事である。

(三)

本書の中では、

  • ○次、コトバノスヱ〈ニ〉ヲケルコレニ、カレニナドイヘルニ如何、ナミノ反〈ハ〉ニ也、並也、對揚〈ノ〉事アル時イヘル歟、又ナリ〈ヲ〉反セ〈ハ〉ニ也、ナリ〈ハ〉ニアリトモイヘリ(二帖)
  • ○次、カレ〈ト〉コレ〈ト〉、イヘルト如何、コレ〈ハ〉兩樣〈ヲ〉對揚スルヨシ〈ノ〉トナレバ、トモノ反ノト也、與ノ字ヲカケリ、カタヘヲハナタヌ心ナルベシ(二帖)
  • ○次、ミム〈ト〉キカム〈ト〉セム〈ト〉セシ〈ト〉ナドイヘル詞ノスヱ〈ニ〉平聲〈ニ〉ケルト如何、コレハ萬葉〈ニハ〉跡抒登常共止コレラノ字〈ヲ〉カキカヘタル歟、サシテナニノ心トイフ義ヲオモヒサダメザル故〈ニ〉カヤウニ所々〈ニ〉カキカヘタリトミエタリ、反〈ニ〉カヽリテコレヲサグルニ、ツヨヲ反セバト也、コノスヂハツヨシトイヘル心歟(二帖)
  • ○問、詞ノスヱ〈ニ〉ケリ、ナリ、サリ、セリ〈ナド〉イヘルリ如何、答、リキ〈ノ〉反ハリ也、又レリノ反ハリ也、又云ケリ〈ハ〉キアリ、ナリ〈ハ〉ニアリ也(二帖)
  • ○次、ソレヲ・カレヲトイヘル詞ノスヱノヲ如何、イト〈ノ〉反ハヲ也、最ノ心也、物ヲサシテ取出スヨシノ詞也、最ノ義〈ニ〉カナヘリ
  • ○コレ歟、カレ歟ノカに就いて「クラヲ反セメカトナル、アキラカナラザル心ナレバ、暗也、闇也……又云、クマ〈ノ〉反ハ、カ也、クマハ阿也、カクレタル心ナリ」(二帖)
  • ○問、トレ、キレ〈ナト〉イヘルレ如何、答、ラレ〈ヲ〉反セバレ也、被也、カウブラシムノ儀也(二帖)
  • ○次、サヤアリケム、アルラムナド不審スル詞ノスヱ〈ニ〉ヲケルム如何、ミヌ反リテム〈ト〉ナル、不見ノ義也(二帖)
  • ○ミテ、キヽテ、トモシテナドモイヘルテ如何(二帖)
  • ○ニゴリテイハルヽミデ、キカデノデ如何(二帖。何れも左旁に指聲符を朱記す)
  • ○アリテゾヨキ、ナクテゾヨキ、若〈ハ〉キテゾ、カヘリテゾナドイヘルゾ如何、(二帖)
  • ○詞ニマダコソツネ、キカネナドイヘルネ如何(二帖)

などゝ云ふ風に、語法に關する單語や、單語(但し用言)の中の語法に關する部分に就いての解釋が夥しく存する事は、よしや其の解釋は、例によつて例の如しと云ふ程度のものであるにしても、とにかく、目の着け所は高く評價せなければならぬ。此の類の中には、

  • ○次、イデミム、キカムナドスヽメル詞ノスヱノム如何、マク〈ワ〉反セバム也、ミマクホシ、キカマクホシ〈ナド〉イヘルマク反〈ノ〉ナルベシ(二帖)
  • ○次、ノタマハク如何、ノベタマフ也、ハク反リテフ也、フ〈ハ〉ハク〈ノ〉反也(十帖)
  • ○次、ネガハクハ如何、子ガフ〈ヲ〉子ガハトツカヘリ、願也、欣也、ク〈ハ〉ケクノ反、ハヽテニハノハ也(十帖)

の如きもあるが、此の説明を逆にすれば眞淵の延言となるのであり、結局は眞淵の解釋と同じであると見ても可い事に成るのであり、是れ亦注意する價値がある。なほ、名語記の著者は、

  • ○次、カラカマシ、シウクガマシ〈ナド〉イヘルカマシ如何(七帖)
  • ○ヒトツ、フタツ等ノツ如何〈二帖。十帖員類事の條にも見ゆ〉
  • ○次、ヨロヅノ詞ノスヱ〈ニ〉ミル・トル・スル〈ナド〉ヲケルル如何、ル〈ハ〉ラルノ反、被ノ字也、カウフラシム〈ト〉ヨメレ〈バ〉マヽノ義也、用〈ヲ〉ホドコス心也、ミル〈ハ〉〈ル〉也、トル〈ハ〉〈ル〉也、又云、ラク〈ノ〉反、オモヘラク(二帖)
  • ○ヲトル、ヲハフ、ヲタツ、ヲサク、ヲハシラカスのヲは追の義である。(二帖)
  • ○サヨフケテのサ、サナエ・サワラビなどのサ、ハヤサ・オソサのサ、ユクサカヘルサのサ
  • ○コレユヘ他事ヲワスルヽヲ、ミトル、キヽトル〈ト〉イヘルトル如何、サヤウノトルハトラカサルヽ心ニキコエタリ、蕩也(三帖)

の例の如くに、單語の構成要素について、分解的に考へる事もして居るが、是れ亦、其の觀察を認めてやらなければならぬ。

(四)

本書にテニハと云ふ言葉が少し見える。

  • ○□□□□〈○四字分破缺〉イフニ符合シタル〈ヲ〉サレバヨトイヘルバヨ如何、答□□□□〈○こゝも亦同じ〉テニハノハ也、ヨハイトノ反(三帖の第一紙右)、○所以トカキテソエ〈ニト〉ヨメリ如何、答、ソノユヘ〈ヲ〉ヲ反セバソエ也、ニ〈ハ〉テニハ〈ノ〉ニナリ(七帖)
  • ○問、コヽニテ、カシコニテ〈ナド〉イヘル詞〈ノ〉ニテ如何、答、ニテ〈ハ〉ニシテトイフ心也、ナリトケノ反、成逐也、但ニハテニハ〈ノ〉ニ也、テ〈ハ〉トメ〈ノ〉(三帖)○詞〈ニ〉コヽ〈ニハ〉カシコ〈ニハ〉ナドイヘルニハ如何、コレ〈ハ〉ミナテニハ也、ニ〈ハ〉ナリ也、ハ〈ハ〉ハタ〈ノ〉反、ホカ〈ノ〉反、他〈ニ〉對スル心也(三帖)
  • ○次、ネガハクハ如何、ネガフ〈ヲ〉ネガハクハトツカへリ、願也、欣也、ク〈ハ〉ケクノ反、ハヽテニハノハ也(十帖)

一體テニハ・テニヲハと云ふ術語は、乎巳止點の中の或る種のものより出た名稱であつて、歌道の方面では八雲抄卷六に「てにをはといふ事」、又文永三年に仙覺が萬葉集卷一の末に加へた識語の中に「手爾乎波之字」とあると云ふ具合で、テニヲハと云つて居たらしいのだが、一方では其の略せられた形としてのテニハもあつて、定家の作と云はるゝ手爾波大概抄以來室町末期までは此の省略形の方が有力であるものゝ如くであるが、其の手爾波大概抄は定家の作では無く、又定家の時代のものでは無いと云ふのが定説であるため、テニハと云ふ省略形の使はれ出した初期の事は不明であり、阿佛尼の「よるのつる」には是れが見えるので、山田博士も「夜の鶴」を以て、テニハと云ふ語の「確かなものに見えたもの」の初見とせられ〈國語學史要一〇七頁〉「寧ろ阿佛尼の頃か、若くはそれより後のものであらうと思はる」〈一一三頁〉と云はれたのであるが、其の夜の鶴〈阿佛口傳〉は時代が全く不詳であるために〈阿佛は建治元年に爲家に死別し、五年後の弘安三年に歿して居る。建治元年と云へば、名語記十帖本が實時に贈られた年である〉テニハと云ふ術語の使用年代の確實性に於いては、建治元年に實時に贈られた著者自筆本の名語記の方が、はるかにすぐれて居ると云はなければならぬ。而して、十帖本にテニハの語がある以上は、七年前の文永五年の六帖本にも亦、テニハの語が見えたであらうと云ふ事も考へて可いやうだ。文永五年と云ふと仙覺が萬葉集卷一の尾に「手爾乎波之字」と書いた文永三年よりは二年の後である。とにかく、本書がテニハと云ふものに注意し、テニハと云ふ術語を使用して居る事は、本書の價値の一つであり、國語學史上、かなりに注意すべき事である。(本書中に見えるテニハと云ふ語の用例をば全部擧げて、本書のテニハが何う云ふものを意味するかを檢する事が必要である)

(五)

本書は自序が示す通りに、ナとコトバとのユヱやオコリを説いたものであり、ナは名であり、コトバは語であり、そこで一字名語・二字名語と云ふやうな言葉もあり、名語記と云ふ書名も與へられたのであるが、斯くの如くに、國語に關して説く場合に、ナとコトバとに大別し、時に又テニハを加へて三分類すると云ふ事は、鎌倉末期から室町へかけての頃には珍しく無い事であつた。今山田博士が擧げられたものにより例示すると

手爾波大概抄(傳定家作、但し僞作ならん)
詞・手爾葉
竹園抄(藤原爲實)
てには・物の名・詞字
連理祕抄(二條良基)
物の名・ことば・てにをは
連歌新成(同右)
物名・詞
愚祕抄(傳定家作、但僞作)
てにをは・物の名

と云ふ具合である。しかして名語記は、自序ではナとコトバとを對せしめて居るだけであり、テニハの事は云つて居ないが、書中ではテニハの事も云つて居るのだから、名語記も亦、明確には云つてないが、ナ・コトバ・テニハの三分類主義であつたのでは無いかとも考へられない事はない。だがしかし、ナ・コトバ・テニハが其れ〳〵何う云ふものを意味して居るかと云ふ事は、全く明言して居ないから明確で無い。しかしテニハの性質は比較的推測が樂であるやうだ。ナは物の名にて、名詞であるらしいが、名詞と云つても、抽象的なものが含まれたか何うかは疑問であらう。山田博士は、兼良の連珠合壁集の「詞」は大體用言であると云つて居られるが、名語記のコトバ・詞・語は用例から見て、用言と限る事はできぬやうである。(因みに名語記では、廣義のコトバ、即ち名と對立せしめない場合のもの、と狹義のコトバ、即ち名と對立する場合のもの、とがあるやうであるが、其の狹義のものが、用言であるとまでは云へないのである。ナとコトバの事も佚亡した第一卷に説明があつたかも知れない)。
とにかく、名語記がナ・コトバ・テニハと云ふ風に分類して居るかに察せられる事は、當時の分類と大體同じであるが、然う云ふ類の分類をして居るものとしては、現在知られて居る範圍内では名語記が、最も年代が古く、しかも最も確實なるものである點で、注意すべきである。

(六)

此の他「江河〈ヲ〉ワタル如何」の條に「又ワタリ〈ハ〉渡也、體也、ワタルハ自行也、ワタラスハ他行ナリ……」とあるのは、「體」「自行」「他行」の語が、後世の體言用言の「體」、自他の語と關係あるから、注意すべきである。

(七)

さらに又、本書中には、珍しい鎌倉時代語が夥しく擧げられて解釋せられて居るが、其の點が大いに有難い〈是は別に説く〉

(八)

同時に又、解釋の地の文は、鎌倉時代の語彙や語法を研究する資料として貴い。

(九)

最後に、鎌倉時代の中期、文永五年、若しくは建治元年と云ふやうな古い時代、即ち語原研究の專書などゝ云ふやうなものが有りさうにも考へられない時代に於いて、――名語記の著者も、「實ニモイニシヘヨリイマダナキコトヲハジメツラネヲケル今案〈ノ〉トガ云々」と云つて居る――語原研究の專書、しかも總論の卷の存する組織整然たる色葉分類辭書として本書が出現したのであるから、本書の語原研究史上に於ける價値は言語に絶したものと成るのである。

(十)

しかして、其れは單に語原辭書としての價値であるが、單に辭書史の立場から云へば、

(イ)

色葉分類辭書として本書より古いものは、色葉字類抄の一類と、梵語辭書多羅要鈔とが現存して居るに過ぎないから、此の點で注意すべきである(色葉辭書としては、法三宮眞寂法親王の梵漢雙對集が延長頃の古書で、文獻で知られる限りでは色葉辭書の最古のものであり、又色葉歌の存在を物語るものとしても最古のものであるが、遺憾乍ら佚書である。立命館文學所載拙稿「梵語辭書史概説」參照〉

(ロ)

十帖と云ふ卷數は、量――八三三丁現存。完全であつた時には、少くとも九〇〇丁は有つたらうか――に於いて優れて居る。

(ハ)

辭書と云へば、古いものは、其の説明は漢文であるのが常であるが――吉野朝頃より假名文のものもぽつ〳〵現はれて來る。しかし、室町期を通じても假名文のものは少い――本書は假名文である。假名文辭書としては、現存最古のものだらう。

(ニ)

本書の色葉分類は第二言までが色葉順である。一體色葉分類辭書は、古いものは、凡て語頭音が色葉順であると云ふのみであり、第二言でも色葉順であるものとしては徳川期に成りて

  • 類字假名遣七卷 荒木田盛徴撰〈萬治三年秋頃成、寛文六年九月刊〉
  • 古今類句 山本春正撰 〈寛文六年五月成、同時刊か、〉
  • 鸚鵡抄百卷 荒木田盛員〈盛徴の子〉〈寛文十三年二月起稿/貞享二年四月成、寫〉

が出たのが最初とせられて居るのだから〈春正のは類句であるが、第三言までも色葉順である〉名語記の組織は注意すべきである。

と云ふやうな諸點に於いて、獨歩の地位を占めて居るのである。
以上述べるところに據りて、本書の國語學的價値、国語學史的價値の多大であるは既に明かであらう。

*1:(註)(二)十帖に「ヲノツカラ如何、自也、ヲノレツカラ〈ト〉イヘル義也、テヅカラ、ミヅカラ〈ノ〉如シ、ツカラハタルカラ也」とあるのも、ツカラを反で説いたが爲めに無意味と成つてしまつたのである。