一〇

本書所見の鎌倉時代語彙の例示は是れ位で止めて、最後に、民俗、子供の遊び、社會状態などに關する記事を擧げて見る。云ふまでも無く本書の性質として、是れらのものは至つて少いのである。

  • ○次、小童部〈ノ〉遊戲〈ニ〉、ヒ□クメ〈ト〉イフ事アリ、如何、コレ〈ハ〉オカシキアダ事ナレドモ、實詮アル事也、地藏菩薩〈ノ〉比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷〈ノ〉四部〈ノ〉弟子〈ヲ〉御コシ〈ニ〉トリツカセテ、ハグヽミスクヒタマフヲ、獄マヽ〈ガ〉ウバイ、トラム〈ト〉スルマネナリケリ、トリヲヤガトラウ〳〵ヒフクメトイヘル〈ハ〉獄率〈ガ〉トラウ〳〵比丘・比丘尼〈ト〉イヘル義也、ソレヲオシミヲヤ〈ガ〉サリトモエトラジトテ□□□□〈四字分程不明〉地藏薩埵〈ノ〉罪人〈ヲ〉オシミ給ヘル〈ヲ〉マネベル也、カミ〈ヲ〉ミヨ、ハリウリ、シモ〈ヲ〉ミヨ、ハリウリ〈ト〉イヘル〈ハ〉カミ〈ヲ〉ミヨ、頗梨〈ノ〉〈ト〉イヘル義也、上頗梨ノ鏡ノ面〈ニ〉所造〈ノ〉罪業〈ハ〉アラハレタルハ、トイヘル義也、コレ〈ニハ〉種〻ノ詞ある歟、

子供の遊ぶ「子を取ろ子取ろ」と云ふ遊戲〈骨董集下、比々丘女條、國語辭典、嬉遊笑覽等參照。自分の子供時代には「じやんじやの桃食お、桃まだ青い、青いのが好きや、好きなら裏行て取つて來い」と云ふ唄が問答的に唄はれたのであつた。遊戲としての名は無かつたやうに思ふ。地方によりて唄に相異があるかも知れない。ジヤンジヤノ桃は何の事か、未だに疑問である。〉は其の名と遊び方とに變遷があり、名稱は後京極攝政良經の作庭記の木版類從本に「ひゝくめ」とあり、玄棟の三國傳記卷八比々丘女初事の條には、片假名ではヒフクメとあり乍ら〈但し、大日本佛教全書本による、骨董集は木版本を引いたのであらうかやはりヒフクメである〉漢字では比々丘女と書いて居るので、國語辭典はヒフクメを擧げずに、ヒヒクメを擧げて居る。しかして名語記では、はじめの方のは蟲損で第二字目が不明であり、次ぎのも同じく不明ではあるが、其れでも右肩の鋭角に曲つて居る字である事は明らかだから、三國傳記を對照して、ヒフクメと書いてあるものなる事は明言できる。三國傳記は惠心僧都が、閻羅天子故志王經所見の地藏菩薩の悲願により、此の遊びを案出したとあるが、惠心云々の事はともかくとして、原形が比丘比丘尼であつたとすると、ヒヒクメが轉じてヒフクメと成つたものと考へられるから、ヒフクメも辭典には採用する方が可いと思ふ。なほ遊び方に就いて云へば、作庭記は鬼に當るものが七・八も居るやうに書き、三國傳記も「兩方〈ヘ〉〈ヲ〉〈テ〉」とあるのに據ると、獄卒が多勢居るやうだ。名語記の書き方もトリオヤの語から考へると、鬼に當る獄卒はどうやら多かつたらしい。が是れらの事はともあれ、此の遊戲の記事としては、本書は作庭記に次ぐものであり、ヒフクメの名では、三國傳記よりも古いから〈三國傳記は辛亥の年のものらしいから、骨董集の如く永享三年に擬定して置く〉此の點で遊戲史的には興味が深い。

ロヽ法師如何、答、前ニ申侍ベリツ、小兒ヲモリフスル時ノ詞也、ロヽ〈ハ〉波多迦王ノ舌ノコハクテ、ロヽ〈ノ〉〈ヲ〉ノタマハザリシ時、乳母〈ニ〉イハセシ詞也、法師ハヒジリ法師ノ心歟〈十帖。前ニ申侍ベリツとあるが、第二帖にも三帖にも見えない〉

まだ物も云へない幼兒を遊ばせる時にオロロロ……と云ふやうな聲を出して見せて喜ばせる事は今でもあるが 〈嬉遊笑覽のレロ〳〵もこれであらう〉ロヽ法師の事は、後醍醐天皇の文保・元亨頃に出來たと覺しい聖徳太子傳卷一にも「寢入れ〳〵小法師、ゑんの〳〵下に、むく犬の候ぞ、梅の木の下には、目木羅々のさふらふぞ、ねん〳〵法師にをゝつけてろろ法師に引かせう、露々法師にをゝつけて、ねん〳〵法師に引かそう、御めのとは何處ドコぞ、道々む小川へむつきスマしに、ねん〳〵〳〵〳〵ろゝゝゝ、梅の木の下には、目きらゝのさぶらふぞ」と見えて居るのである〈拙稿「鎌倉時代末期の子守歌」(「歴史と地理」昭和二年正月號)を參照せられたい〉

  • ○小兒〈ヲ〉アゾバカス〈ニ〉ヌカ〳〵セム〈ト〉イヘル如何、コレ〈ハ〉ヒタヒ〈ヲ〉アハスルアソビナレバ、ヌカ〳〵トナヅケタル也〈九帖〉 額を合せて押し合ふ遊びである。
  • シソヽリトイヘル事如何、コレ〈ハ〉小児ヲサヽゲテ愛スル由也、四足ソリ也、コレニハ大職冠ノ御事ニツキテ甚深ノ義侍ベリト申人アリ、タヤスクアラハシ尺スル〈ニ〉アタハズ〈九帖〉
  • ○小童部ノアシカキトテ、ヲドル如何。カタキヽノ反ハカキ〈ト〉ナル、片足ヲバモテアゲテ、タヾ足ヒトツニテヲドレバ、カタキヽナルベシ、又云、足〈ヲ〉セキカヾメタレバ、鎰〈ノ〉義ニテアシカギ〈ト〉イヘル歟〈九帖〉 今日でも斯う云ふ姿勢を取る遊戲はあるが、たゞ跳り歩くだけでは無く、此の姿勢の二人が、一定の範圍内で押し合ひ、埓外に押し出すを勝とするのが普通である。
  • ○次、ツルガコシ如何、コレ〈ハ〉越前國ニツルガトイヘル所ノ山〈ヲ〉〈ニ〉荷ヲ負セテコス也、ソレヲ摸シテ勝負ノアソビ〈ヲ〉ツクリテ、ツルガコシトナヅケタリ、ツルガトハ敦賀トカケリ〈十帖〉
  • 長谷ハセの條に紀長谷雄は長谷觀音の祈り子なれば此の名があると説き、さて「熊野〈ヲ〉信ズル人〈ノ〉〈ヲバ〉能ナニトナヅケ、南部〈ノ〉〈ハ〉カスガ〈ヲ〉アフギ〈テ〉〈ヲバ〉春ナニ〈ト〉イヘルガゴトシ」とある。
  • ○人〈ノ〉〈ニ〉トヨ如何、答、土用ニムマレタル〈ヲバ〉トヨトナヅクル也〈三帖。子の旁訓は朱筆、ネと混ずるを避けるためにコと書いたのだらう。〉
  • ○人〈ノ〉〈ニ〉トヂトイヘル如何、トヂハ閇也、トヅル義也、コレ〈ヲ〉カギリ〈ニテ〉イマ〈ハ〉コモウマジ〈ト〉チカフヨシ〈ニ〉トヂ〈トハ〉ナヅクル也〈三帖。トヂに指聲符あり、トは下位、チは上位二點〉今のトメ吉の留に類したものであるらしい。
  • ○鵼に關して「コノ鳥ハ恠鳥ニテ、ナグ音〈ヲ〉キク人ハ誦文〈ヲ〉シ、アルイハソノ家〈ヲ〉シバラクタチサル也、コレニヨリテ、ニクイヱ、ニクヤケテイ〈ノ〉〈ニ〉ヨリテ、ヌエノ名ヲツケタリケル也」〈三帖〉 とあるが、頼政の話などを想起して興味が深い。野鳥が家に入ると其の家を一時的に捨てる習慣は未だに奄美大島の如き地方では行はれて居るが、恠鳥の聲を聞くだけで家を、一時的にもせよ、捨てる風習は、今は何處にもあるまい。
  • ○山田〈ニ〉タツルソホヅ如何、コレ〈ハ〉〈ノ〉スガタ〈ニ〉ニセタル物〈ヲ〉タツル也、シロヒトタツ反リテソホヅ〈ト〉ナル也、代人立也、又流水〈ニ〉〈ヲ〉ツリテナラス事アリ、オナジク鹿〈ヲ〉オドロカス術〈ノ〉カマヘナレバ、代人〈ニ〉准ジテソホヅ〈ト〉イヘル也〈七帖。別にソウヅの條にも殆んど同じ説明が見える〉 國學院雜誌に出た橘氏の文の例證とも成る。
  • ○千秋萬歳トテ、コノゴロ正月〈ニハ〉散所〈ノ〉乞食法師〈ガ〉仙人〈ノ〉裝束〈ヲ〉マナビテ、小松〈ヲ〉〈ニ〉サヽゲテ推參シテ、樣〻ノ祝言〈ヲ〉イヒツヾケテ、録物ニアヅカルモ、コノハツ子日〈ノ〉イハヒナリ〈七帖、ネノヒの條〉 散所は産所・算所とも書き平安朝中期の末には既でに存した賤民部落の事である〈國語辭典には此の意味の解を施してない〉その村より、乞食法師らの藝人が出で生業として居たのである。此の名語記に出て來る千秋萬歳の姿は、三十二番職人盡歌合のとは大分に違ふから、風俗史上、やゝ注意するに足るであらう。
  • ○沐浴ノヽチ千米〈ヲ〉クフ〈ヲ〉カウクスリトナヅク如何〈十帖〉 名義抄や字鏡集、三大部音義其の他に×〈旁は幾/篇は酉〉をカハグスリと訓んで居るものにして、江家次第、侍中群要や禁祕抄には河藥と書いて居り、國語辭典は松岡明義や高田與清の説によつて、天子御沐浴の時奉る藥にて、御垢を除くための糠袋であると云ふ説、白米を浸した水で玉體に塗るから、皮藥であると云ふ説、又薫藥説を擧げて居り、古事類苑は、沐後身に塗りて邪氣を避ける藥なるべしと云ふ説を擧げて居るが、御沐浴中で無くて、御湯帷を召しての後に奉るものらしいから、糠袋では無く、召し上るものでなければならぬ。しかして國語辭典は×字を擧げないが、此の字は、謂㆓既沐飲㆒㆑酒とあり、又江家次第に白米の事が見え、名語記には米を食ふとあるから、やはり入浴後に食ふものとすべく、なほ名語記によつてカハグスリは天皇の召し上るものとも限らず、一般も亦カハグスリを食うた事を認むべく、カハグスリがユカハアミ(沐俗)と關係したものであるからには、やはり河藥の義である事を認む可きであらうと思ふ。言葉としてはカハグスリが名語記でカウグスリと成つて居る事に注意する〈カハダウ(革堂)、フキガハ(吹皮)がカウダウ、フイガウと成ると同じである〉
  • ○山神ノ見テヨロコブナナル、オコシ如何、×鮓トツクレリ、オモクロセリノ反〈七帖〉 ×字は魚篇にを二つ重ねたやうな字形だが、名義抄は鰧をヲコシと訓み、字鏡集は鮓をヲコシと訓んで居る。國語辭典はヲコシの語を何故か採録して居ないが、和名抄にも見え、又物部尾輿の名にも見える古語である。今ヲコゼと云ふ。さて山神がヲコシを喜ぶと云ふ事は何う意味であるかは、民俗學者より説明を承りたい。中山太郎氏の日本民俗學辭典には見えぬ。
  • ○十帖のクシカヘルの條に「孔子ト申セリシ聖人……賢者〈ノ〉一失〈ト〉イヘル事〈ノ〉對記〈ニ〉アヒテ、ヲノヅカラ、オボシアヤマツ事〈ノ〉アルスヂ〈ヲ〉イヒヲケル歟、孔子タウレズトモ申ス同心歟、又云コユセリ〈ノ〉〈ハ〉クシトナリ、アマリ事〈ノ〉サシコエテイフヲ、クシカヘルトハ申ス歟、カヘル〈ハ〉反也、飜也」とある。孔子顛倒カヘルであるか何うかは判らぬ説明である。對記の對字は變な字形であるが對であらうと思ふ、「對記」は諺と云ふやうな意味であるらしい事は、次ぎのノミノイキ天ヘノボルの條の用例で窺はれる。因みに「孔子タウレズ」とあるが、普通は「孔子クジの倒れ」である。
  • ○次、ノミノイキ天ヘノボルトイヘル對記アリ、蚤ノ息〈ノ〉ソラヘノボレル證據アル歟、如何、コレハノミホドノ小蟲ナレ〈ド〉モ、憶念ノムナシカラザルタケハ、サダメテ天ヘモノボル覽、善根ノ廻向〈ノ〉小雲〈ノ〉大虚〈ニ〉遍ズルガ如シトイヘル同心ナルベケレバ也、又云、コレハ蟲ノノミニテハアラズ、農民〈ノ〉イキ天ヘノボルトイヘル事也,民ノナゲキコリテ、天〈ニ〉アラハルヽ〈ヲ〉慧星〈ト〉ナヅクトイヘル文アル歟、コノ心ヲサシテイヘル對記ナルベシ、アノ聖徳太子ノ十七箇條ノ憲法〈ニ〉〈ヲバ〉冬ツカフベシ、春〈ハ〉東作、夏〈ハ〉蠶養、秋〈ハ〉西收、コノ三季イヅレモイトマナシ、田ツタラズバナニヲカクハム、桑トラズ〈バ〉ナニヲカキムトシルサレタリ、又賢王ノ治世〈ハ〉撫民〈ヲ〉ムネトシ、仁政〈ヲ〉徳トシ給ヘリ、唐土ノ堯舜〈ハ〉采椽不刮、茅茨不〈レ〉翦ナドキコエシモ、セメテ民〈ノ〉ワヅラヒ〈ヲ〉イタハシクミ給ヘリシユヘナリ、シカル〈ヲ〉州縣〈ヲ〉管領シ、庄園〈ヲ〉知行スルトモガラ、事〈ヲ〉出役〈ニ〉ナヅケテ、日〻夜〻〈ニ〉土民〈ヲ〉クルシメツカヒ、利〈ヲ〉私用〈ニ〉ムサボリテ、臨時非分〈ニ〉用途ヲアテセム〈ニ〉ヨリテ、民ノナゲキツモリテ天〈ニ〉變異ヲ現シ、人ノウレヘカサナリテ、世ニ夭殀オコル也、サヤウノ事〈ヲ〉農民ノイキ天〈ニ〉ノボルトハイヘル也〈ト〉申ス説アリ、コノ義サダメ〈テ〉マコトナル覽カシ」役人や政治家の服膺すベき言である。諺語大辭典によると、今も此の諺は生きて使用せられて居ると云ふ。源平盛衰記四十五卷大地震の條にも見える〈通俗日本全史本、〉但し、これは「蟇ノ息天ヘ上ル」とも作つて居る。
  • ○カモシヽの皮をニクと云ふ事の條に女房らが疏んじ憎むからとの一説を述べた後で「カモシヽ〈ノ〉〈ヲ〉ニク〈ノ〉カハトイヘル故〈ハ〉ニクキ心ニテハ侍ラズ、カレハ美作國〈ニ〉オホカルモノ也、美作ニハ鍬〈ヲ〉濟物ニスル國也、シカルヲ鍬〈ヲ〉モタザル民〈ハ〉クハ〈ノ〉〈ニ〉カノ皮ヲ濟スル〈ニ〉皮一枚〈ヲ〉鍬二口〈ガ〉〈ニ〉ナスガ、カギリアル國例〈ト〉ナレリ、故〈ニ〉鍬二口〈ガ〉代ナレバ、二口トナヅケタル也……」〈三帖〉とある。ニクはニク即ちシトネの義であるから、鍬二口の事は無論附會ではあるが、鍬を持たぬ農民の事はまさか勝手の言でもあるまいから、經濟史的見地から見て注意するに足らう。
  • ○問、諸國檢注ノ時、テシロハシロ〈ト〉イヘル〈ノ〉如何、答、テシロ〈ハ〉十代也、トシロ也、ハシロ〈ト〉ハ廿代也、ハタシロ也、檢注〈ハ〉國〻ノ風〈ニテ〉名目ミナカワレリ、歩ドリノ所アリ、代トリノ所アリ、ツヱトリ所ノアリ、杖モ二樣也、六尺杖ツカフ國〈ハ〉ムツヱヲ一段〈ト〉せり、七尺二寸杖〈ヲ〉ツカフ所〈ニハ〉五杖〈ヲ〉一段トサダメタリ、又合取〈ノ〉國モアリ、ソノ堺ニ入〈リテ〉心ウベキ事也」斯う云ふ事は、われ〳〵には理解し難いが、經濟史研究者が見たら、多少は役立つかと思ひて擧げるのである。「國ノ詞」は地方の言葉の義であらう。