一一

前回の拙稿で、語原辭書としての名語記を述べた時に、徳川末までの語原辭書史を略説したく思ひつゝも、頁數の都合で果さなかつたので、今記す事とする。

(一)和語解 十八卷

鎌倉初期の神祇伯仲資王〈貞應元年薨六十八歳〉が撰述した意義分類體語原辭書であると云ふ

(二)和訓精要鈔 二卷

右の和語解を、仲資王の子息たる神祇伯某が拔粹したのが精要鈔であり、やはり意義分類體にして、其の神祇伯は業資王であるらしいが、跋文から見れば業資王の弟資宗王で無ければならぬ。さて此の書、斯う云ふものであるとすると、大變古いものと成るが、實は僅か十六紙の片々たるもので、おどろ〳〵しい奧書はあるけれど、自分は徳川期の多田義俊の僞作で享保末年のものかと思ふ〈從來は僞書であるとは云はれては居ない〉さて精要鈔が僞書である以上、和語解十八卷も僞書であると云はなければならぬ。語原説はたわいも無いものだが、日本釋名と關係があるらしい。〈和語解の事や精要鈔の事は、立命館學叢昭和四年十二月より四月に至る間に四回にわたり掲載せられた拙稿「語原辭書和訓精要鈔に就て」を參照せられたい。〉

(三)和字 四十七卷

これも語原辭書らしいが、右の精要鈔所見のものだから無論問題にならぬ。

(四)桑家漢語抄 十卷一本

和名抄式の意義分類體辭書にて、楊梅大納言顯直の撰述であり、それで楊氏漢語抄とも呼ばれるものであり、奧書を信じると室町中期東山左府の頃には存して居り、桃花老叟即ち一條兼良も文明元年十二月に寫したりして居るもので、篤胤は「誠に天正の頃の寫本にやと見ゆ」る古寫本を手に入れて、内容はつまらないが「古書たることは疑なき物」と云つて居るが、是れも不自然な蟲損や、訝しい引用書から考へるに僞書であるらしい〈兼良の奧書も怪しい。楊梅大納言顯直と云ふ人も、分脈や 補任に見えぬ人である〉しおし其の僞作が室町期に行はれたか、徳川期に行はれたかと云ふ事は判らぬ。篤胤の見た本が眞に天正頃のものであらならば室町期の僞作なる事は確かだが、果して天正の寫本であつたか何うかは判らぬ。

(五)奉勅撰次ブチヨクセンジ和訓 寫十卷一本又は三本

色葉分類語原辭書にして、序も署名も無いが、第七卷の色葉分類の尾に「神無月二日畢   大外記共房」とあり、第十卷末には、數種の識語があり、其れによると、何人かゞ帝詔により奉撰したもので、家祖師頼以來の重代の祕書であるから、嫡子でも、其の器に非るものには傳へたいとか云ふおどろ〳〵しい識語がある。第七卷の中程までは色葉分類語原辭書で、上段に國語、中段に其れに相當する漢字、下段に語原を注して居る。第七卷の後半以後は、漢字を韻順にあげ、其の下に和訓を注し、さらに其の下に和訓の語原を説くと云ふ風である。時代も著者も判らぬが、其の識語には不自然た蟲損のある事、又其の語原解釋が電覽的調査によつて見ても、ジヂズヅの誤りがあり、新しい活用も見えるから、やはりこれも僞書であると認めたい。時代が室町であるか徳川初期であるかも無論判らぬ。學者の中には、和訓精要鈔の如きを捉へて、徳川期の僞作たら斯う云ふ拙いものは作らぬ、拙いのは時代が古いからだと云ふ解釋を取りて、僞作説を否定する人もあるが、自分は其の解釋にはまだ從ふ事できたい。さて以上は僞書であると自分の考へるものだが、僞書であるにしても、僞書であると心得て居れば、僞作せられた時代のものとして擧げるのは支障無しと信じるから擧げたのである。以下述べるのは、僞書では無い。

(六)和句解わぐげ 六卷六本 松永貞徳撰〈「寛文二年五月吉日/飯田忠兵衞開板」〉

色葉分類語原辭書であるが、内容は説いて居る暇が無い。横本にて縱四寸四分位、横六寸六分位、[f:id:Okdky:20080713125646j:image]と云ふ風の題箋がある。「書堂の人、和句解わぐげを持來つて云く、是はこれ貞徳翁の作ならずや、序かくべしとや、まことに然あれども、未再治の本なり、あやまりも調はね所も有べし、さりとてたれか、あやまりもたゞし、とゝのはねところとゝのへん、たゞかくてあるべし、見給はむ人、よきは用ひ惡はそしり給ふ事なかれ、人の善をあげあくをかくすは大舜の御心也、舜何人ぞ、此心あらばしゆんたらんものかといへり 磐齋」と云ふ序〈句讀點は全部原本のまゝ、但し原木は○印、磐字も本のまゝ、ワグゲと云ふ傍訓に注意せられたい。赤堀氏も龜田氏(日本文學大辭典)もワクカイとして居る。龜田氏が盤齋の序文をば「著者の序文」と況して居られるのは誤り〉がある。要するに貞徳未再治の遺稿を貞徳歿後九年に門人の盤齋が序を加へて刊行したものである〈刊行者飯田忠兵衞は江戸か京都か不明〉ところが、此の本稀本であるのに、一方又、「和語のしるべ」六卷六本と云ふ色葉分類語原辭書がある。やはり横本だが、貞徳の遺稿をば其の散佚を恐れて刊行する旨の「元祿〈丙/子〉歳仲秋日」の擧堂〈佐藤鶴吉氏や潁原退藏氏の高教によると、「眞木柱」の著者「城南の擧堂」と同人にて、季吟門人だらうと云ふ〉の序があり「元祿九〈丙/子〉年八月吉日」の刊行にて、刊行者は本屋利兵衞・本屋武兵衞兩名であり、刊行地を記して居ない。しかも辨疑書目録には和語のしるべ六册と和句解とが同じであると云つて居るので、兩書が同一の書であるらしい事は想像できても、赤堀氏や保科教授・龜田教授らが五卷としてあげ、東大の「圖書館和漢書書名目録増加第一」〈菊版、假裝一冊、明治二十一年より卅一年までのもの〉にも「和句解〈松永貞徳撰/寛文二年〉五 教室」とあり、元祿五年版廣益書籍目録俳諧書條にも五册本とあるので、和語のしるべと和句解との關係が、全く判らなかつたが、貞徳を研究して居られる藤崎一史氏が東大圖書館中で、表紙も題箋も原形のまゝの和句解を見出されて〈大正十三年二月廿日に渡部信氏が寄贈せられたものだが、カードが貞徳和句解と成つて居るので、何人も氣つかなかつたのである〉兩書は同じ版である、序だけの相違であると私に知らせて下さつたので、長い間の疑も一部は消えたが、藤崎氏が五卷だと教へられたので、やはり疑問の全部が解決せられるところまでは達せず、本年七月自ら其の本を見る事により、はじめて全部は解決したのである,即ち、兩書は、同版で、卷數も冊數も六卷六本である、版心の所は何れも和一、和二と云ふ風であり、たゞ序文と題箋とに書名が存するのみなるがために、容易に後摺本に於いて書名を變へて新刊なる事を裝ふ事ができたのであり、そこで書肆が奸策から、和句解を和語のしるべと改題し、それにふさはしい序文も加へたものであつたのである。書肆の奸策はともあれ、擧堂の態度は怪しからぬ事である。因みに和句解は、從來五卷とせられて居り、元祿の書目にも然う見えて居るが、果して然う云ふ本があつたのだらうか。何うもいぶかしい事である。最後に「貞徳が語原辭書を書いたのは、學術的良心からでは無く、連歌の附合では螢が火垂ホタルであると云ふやりな事を知つて置く必要があるから、斯う云ふものを必要にせまられて作つたのであらう」と云ふ旨の事を、藤井(乙男)先生は自分にお教へ下さつた事を附記して置く。

(七)日本釋名 三卷〈五本または三本〉 貝原篤信撰〈元祿十二年上元日(正月五日)自序、同十三年刊〉

後漢の劉熙の釋名に倣うた意義分類體語原辭書だが、凡例に於いて語原解釋法を説いて居る點は、然う云ふ事をせない和句解よりも進んで居る。其の語原説は大體承認し得るが、實際の解釋は、全くの常識的解釋であるのは惜しい。

(八)東雅 二十卷 新井白石享保二年夏起稿、翌三年夏加筆、四年二月脱稿、刊本二種あり〉

和名抄の組織を襲うた意義分類體辭書であつて、語原に觸れる事が多いから、語原辭書として扱ふのである。名は日東爾雅の義である。享保二年夏、白石失意のどん底にある頃、參考書も殆んど無い状態の時、子供の爲めに起稿したもので、次第に手を加へたものだが、窮境にありて、此の大著を物したのは、流石に柳營の「鬼」、冥府の閻羅王である。總論の卷がありて、語原説其の他を説いて居るが大いに見る可き説もある。實際の解釋も二十年前の貝原の日本釋名に比しはるかに優れて居り、量から云つても、質から云つても、徳川期の語原辭書としては、最も優れたものと云はねばならぬ。さて此の東雅と關係あるものに

(八)東雅袖領 二十卷七本、寫

がある。宣直清の序や、凡例はあるが、總論は無い。一見したのみで詳細には調べてないから、東雅との關係は判らぬが名から案ずると、東雅の要領を拔粹したものかと思ふ。赤堀氏も然う見て居られる。しかし拔粹したにしても、白石自身であつたか、別人であつたかの點も、調査したので無いから判らぬ。

(九)倭語小補 寫五卷一本 源式如撰 享保十一年丙午春三月六十七翁源式如漢文自序あり〉

意義分類體辭書にして、片假名文、第一卷は「惣標凡六條」にして總論の卷であり、第二卷以後が解釋である。總標の説は幼稚荒誕、其の解釋は大體通略説であるが、カヘシによる解釋は見えないのを見ると、日本釋名とは無關係らしい。陰陽五行説を加味した、亂暴きはまる通略説を振りまはして勇敢に解釋して居るが、其の非學術的な解釋は、日本釋名に劣る事數等、後の名言通と併稱すべきだらう。同じ享保年中の書でも、四年の東雅と十一年の本書との間に、天地宵壤の差の存するは、興味ある事である。

(十)倭語拾補 十五卷

自分の見たのは東大の新しい轉寫本であつて、震災の時、端本と成つたものらしいから、全部の組織も著者も判らぬが、卷六より十五に至る端本により窺ふと、十五卷の意義分類體辭書であり、某々門の中は言葉をならべるのに、アカサタナハマヤラワ・イキシチニヒミイリヰ式であるのは、後の太田全齋(歟)の俚言集覽と一脈通ずるから面白い。解釋は片假名文にて、通略説が多いが、「小解〈ニ〉釋ス」と云ふ類の斷り書きの多い事や、其の解釋が通略の濫用である事、又書名が倭語小補の拾補であると見られる事から察すると、前記の倭語小補の著者の撰にて小補よりは後のものかと想像した次第であるが、東京高師圖書館の和漢書書名目録五十音別〈大正四年三月刊〉には、東大本の原本について「倭語拾補、田知顯、一五册」、と見えて居るのである。〈故に拙稿上九八頁七行は訂正せなければならぬ〉(斯う云ふ事は、完本を見たら直ぐ解決のつく事だが、其れを見ないので疑を存して置くのである〈刊本の所在は判明して居る〉

(十一)和語私臆抄 寫十八卷 釋本寂撰〈寛政元年十二月漢文自序〉

赤堀氏の解題によると意義分類體辭書である。〈所在は知つて居るが眼福を得ない〉本寂と云ふ僧は、眞義眞言宗の武藏寶仙寺の本寂(無等)も居るが、是れは明和元年三月十三日の示寂であるから、本書の著者では無い。

(十二)言元梯 一卷 大石千引撰〈文政十三年正月他序/天保五年十二月刊〉

五十音分類語原辭書であり、穩當なのもあれば、滑稽な解釋もあるは、語原研究書として當然の事である。卷順に「大略オホムネ」があつて、語原説を述べて居る。實際の解釋例を見ると國語と信ぜられて居るものに字音語を當てる事の多いのは特色である。去歳コゾ因縁ユエカマク・雞頭カヘデの如きが其れである。此の點は理博松村任三氏や、與謝野寛氏式である。門人池田貞時の跋に「あしかきのまぢかき世、都もひなも、い勢人の僻言に泥み、たゞしきをうしなひ、埿に足滯る和學の多かるを、吾師大石千引老翁、これを深く歎き……」とあるから、宣長を敵視して居る書である事が判る。

(十三)名言通 二卷 服部宜撰天保六年二月望自序/同六年冬十一月刊〉

信濃儒者服部宜が、十年程もかゝりて、六十六歳の時に完成したもので、上卷は「物名」の部にて、物名を意義分類式に排列し、下卷は「言語」の部にて、物名ならざるものを五十音分類して、解釋して居るから、名言通の名もあるのだ。全部片假名文で、凡例や五十音説、追補五十字古傳が存するが、何れも殆んど採るに足らぬ。五十音圖も、オヲを故意に錯置せしめて、宣長の説を謬説なりと評して居るのだから、手がつけられぬ。言葉の解釋は延約、殊に約の濫用にして、假名遣を無視し、荒誕不稽、言語道斷のものである。同じく儒者でも白石と宜とで、これだけ異るのに、驚嘆せざるを得ない。さて此の愚書は、「和訓六帖」の名で、弘化三年に後摺本が賣り出された。「弘化三年丙午季春完刻」とあり、題箋、内題ともに和訓六帖とあるので、赤堀氏も「弘化二年二月成る」弘化三年刊、とせられたが、これは、松崎復の序に名言通とあるのを看過せられたから、和訓六帖が名言通の後摺惡本なる事を氣づかれなかつたのである。しかして此の和訓六帖本は著者の自序、五十音説、追補五十字古傳を皆除いたものにて、著者の語原説を見るには、此の本では不可能と成つて居るのである。著者自ら訂補した後摺本であるなら結構であるが、書肆の奸策により生れた後摺本を排斥すべき理由を示す一例である。

(十四)本朝辭源 三卷三册 宇田甘冥撰〈明治四年乃冬、門人信夫吉緒序、同五年壬申春他跋、同年刊歟、木版、袖珍本〉

五十音類聚の語原辭書だが、英語を對照して居る點に異色がある。甘冥は皇漢洋の三學に通じた人と門人は云つて居るが、他は知らず、皇學だけは、實によい加減のものだつたらう。主として音義派の立場から解釋して居るのだが、完全な五十音圖や假名遣が理解できない程境であるから實に言語道斷の愚書である。明治のものだが、初年のものであるから加へて置く。


さて斯くの如くに徳川末期までの語原辭書が存するが、其れらの組織や、解釋の學術的價値や、書としての量などを名語記に比べると、名語記は組織に於いて決して劣ることなく、量に於いても、大部であると云つてよく、學術價値に於いては、白石の東雅のみが、一頭地を拔き居る他は、大體が鈍栗の丈競である事を思へば、名語記が、時代の點に於いて最古のものであるがために大いに、注意すべきものなる事は直ぐ理解できると思ふ。