岡井博士の大著「玉篇の研究」

  • 新刊紹介
  • 岡田希雄
  • 國語・國文 4(5): 90-103 (1934)

漢字の辭書としては、形類、音類、義類の三種類が存するのだが、其の中で形類に屬するもの、即ち所謂部首分類式辭書〈字書と書くの正しいのだが、辭書ですましておく〉としては説文以後如何なるものが出來て、明の字彙を經て康煕字典と成るに至つたかと言ふ事、即ち形類字書史は、殘存する字書が乏しいために内容が極めて貧弱であり、湮滅したものを入れようとしても藝籍志や小學考の類に見えた説明が粗笨であるために、はつきりした事は判らないやうだ。が然う云ふ中に於いて、説文の系統を引いた玉篇の一書のみは、大同九年三月に出來て以來、樣々な變遷を經て、本家本元の支那では原本が亡び乍らも、原形とは大いに變じた大廣益會玉篇として殘り、是れの刊本としては宋、元、明、清の間に何程も新版が出來たし、飜へつて我が國に於いても、何時比傳はつたかは知らぬが、少くとも奈良朝末の華嚴經音義以來愛用せられ、原本ならざる改修本も行はれ、蜀の西川の印子玉篇も傳へられ大中祥符の會玉篇もやがて傳へられ、はるか後ではあるが五山版として開版もせられ、又一方では會玉篇に因んだらしい假名玉篇三卷〈鎌倉期のものか/不傳ならん〉をはじめとして、室町頃から和玉篇、倭玉篇、玉篇と言ふ類の辭書が多樣にあらはれ、室町期に於いて玉篇の語はすでに部首引辭書の義と成つて居たと覺しいのである(朝鮮に於いても同樣であつたと言へさうだ)。以て玉篇の支那辭書史、日本辭書史上に於ける重要なる地位を察知す可く、從うて玉篇を研究す可き必要は、支那辭書史の立場のみからで無く、日本辭書史の立場からも充分存したのであつた。しかし原本玉篇を惜しげも無く亡した支那では、玉篇の改惡は行はれても、研究は何ら行はれず、長らく閑却せられ、清末の楊守敬の努力や、今では滿洲國の大官たる羅振玉氏の努力の如きも大したものとは言へないのである。經籍訪古志以來、現在に至るまでの日本學者の注意にしたところで、大體書誌學的なものにて、決して玉篇の本質に觸れたものでは無いのであつた。斯う云ふ風に玉篇の研究としては見る可きものは無かつたのである。だがしかしつひに眞の大研究は現はれた。そは岡井愼吾氏の研究にして、氏は大正十三・四年頃より此の研究に沒頭し、其の結果を昭和二年一月京都帝國大學に學位論文として提出し、六年七月に目出度文學博士の稱號を得らるゝに至つたのである。その學位論文に刪補を加へて、東洋文庫論叢第十九として昭和八年十二月十日附で刊行せられたものが、即ち今紹介せんとする「玉篇の研究」一册である。しかして自分は、同士の謦咳に接した事こそ無けれ數年前より書信を以て辭書の方面にて高教を仰ぎつゝあるものだから、此の書の刊行の事は早くより知りて待ち焦がれて居り、博士よりも紹介を命ぜられて居て、因縁の極めて深いものである。しかし長らく拜見の機を得ず、三月八日に至り漸く一本を購め得、讀了し得たからこゝに、おほけなくも紹介させて頂く次第である。