先づ内容を云ふと、「玉篇の研究前篇」は(一)玉篇考正篇五章、(二)玉篇考續篇七章より成り、「玉篇の研究後篇」は(一)玉篇逸文内篇と(二)同外篇とより成り、最後に索引として(1)「前篇にて論及せし文字及び重要なる事項の索引」(2)「玉篇逸文索引(内篇の補を含まず)」の二種がある。さてやゝ精細に内容の中注意すべきを紹介すると、〈緒言四頁にて、玉篇の讀み方について、易林本節用集のゴクヘンを擧げて居られるのは注意すべきである。或る和玉篇研究大家の如きは、決してゴクヘンとは呼ばず、自分がゴクヘンと讀む可き例證を擧げたのを見乍ら(立命館文學本年一月號)それを無用視せらるゝ由であるが其れと比べると態度は雲泥の相違である。〉「玉篇考正篇」の第一章は、漢朝及本朝の文献に現はれた原本玉篇、及び其の他の玉篇系の書の事を記し、〈因みに日本に於ける會玉篇の消息の中で古いものとしては石山寺の大般若經音義に宋本と覺しきを(但し變な所もある)「廣益玉篇」として擧げて居るをこゝに擧げたく、又信西入道の書目には疑問のある事を擧げたい。〉第二章は原本玉篇の著者たる顧野王の傳記と著述とを記し第三章にては野王玉篇の巻數を記し〈三十卷、三十一卷の兩説につき字體の沿革を辨するなどの一卷ありて、三十一卷であつたらうとせらる〉述作の年月に就いては宋の會玉篇に「梁大同九年三月二十八日黄門侍郎兼太學博士顧野王撰本」とあるを官名が矛盾するとの理由にて「杜撰」と評し〈二八頁〉梁書蕭子顯傳に見ゆる野王と蕭緂の刪改の事情をも不審がりて居られ、大同九年では、野王が二十五歳の若年で若過ぎるからとの理由で、大同九年説を疑はれるものらしいが、是れなどは、野王が早熟の天才であつた事、官位の事は後のを前に及ぼして呼ぶのは、支那ではいさ知らず、我が國にては普通である事〈卑近な例を以てすれば、博士の稱號を得ない時の著述を呼ぶのに、某博士の某書と云ふのが普通であるのを考へる可きであらう〉を思へば、野王若年の時の著と認めて、支障全く無いのではあるまいか。次ぎにては當時の小學界の瞥見を爲し、玉篇の述作が當時としては破天荒事であつた事を述べ、其の分部が説文の五四〇部より玉篇の五四二部〈但し質に於いて小異あり〉と成り、宋本會玉篇の部首と大差無からんと説き〈希云、此の分部の條は玉篇の組織に關する事なれば第五章に説かる可きにあらじか〉第四章は、支那で佚亡した原本玉篇、又は其れと小異はあるが其れに準ず可きもので日本に殘存するものに就き、其の種類、刊本、質、誤認を説き、第五章、「玉篇の體貌」では、収載文字の數、或爲の字體、反切、訓義、〈此の反切訓義の所などは博士の最も力を盡されし所なる可し〉説文や字林〈唐時代には玉篇以上の有力なる字書にて貢人必修のものなりしが、悲慘にも亡びて今日では逸文あるのみ〉と比較し、最後に篆隷萬象名義や新撰字鏡と比較して組織を述べて居られる。〈因みに云ふ、此の萬象名義を、某金石文字研究の大家が、最近に某誌上にて、學問上より云はば反故紙同然なりと罵倒し去りたるは、果して如何あらむ。世評聞かまほし〉さて「玉篇考續篇」は「顧氏の舊に非ざる玉篇」の項にして、先づ宋の大中祥符六年九月〈我が三條天皇長和二年〉陣彭年らの奉勅重修本たる大廣益會玉篇を擧げ、其れと原本玉篇との相異を説き、宋本〈但し、澤存堂本の刊行を仁宗の諱に闕畫ある故に、仁宗朝の刊行とせらるゝは如何、長澤學士の今上不闕筆説(書誌學昭和九年一月號所載)もあるなり異編も立ち得べけれど一考を要すべし。〉の版種、を述べ、以下元本、明本の各版の性質、清刊本清朝の刊本には、宋本、元年、明本の如き改竄はなき故に、清本とは云はずに清刊本と云はれたるなり〉及び本朝の刊本の版種を説いて居られる。但し本朝刊本の中で、會玉篇と組織を異にする増續大廣益會玉篇や字集便覧〈題箋は和字彙〉の如きを擧げられたのは果して何うであらうか。なほ本朝刊本の中には、寛永八年季秋本にして、刊記が埋木と成つて居ない本の存するのが洩れて居る。さて第六章は、我が國に於ける部首分類辭書の一類たる倭玉篇の項にして、最も自分の注意を引いたもので、本朝書籍目録の假名玉篇三卷〈因みに云ふ、此の書目を足利期の著録と考へて居られるやうであるが(四、三七八、三七六、三八三頁など)これは失考であらう、鎌倉末の永仁頃のものなる事は定説的に認ゐられて居ると思ふ〉以下、徳川期刊本和玉篇の目ぼしいものゝ事を説いて居られるが、其の中で玉篇要略集を説いて居られるのは、自分としては其の解説の發表を待ちに待つた事であるから嬉しい〈しかし、實は自分が「意義分類體玉篇」と呼んだ零本と同種のものらしいのである〉米澤本、便蒙字義、鈴鹿〈但し龜田氏「和玉篇考」によられらるもの恐らく震火にて亡びたらん〉大槻氏の龍龕手鑑式活字和玉篇の事を説かれたのも、其の名を知り、若しくは照會しつゝも實物を拜見する事でなかつた本共だから嬉しい〈しかし解説が總體に簡に過ぎるのは、これらの記事は本書としては附録的なものであるとは云へ惜しい事であると思ふ。〉慶長版倭玉篇の十五年版に、更らに異版と覺しきものゝある事を知つたのも〈此の事は、博士よりの御示教により、少し前に知つたのである。〉嬉しい。但し東井叟本の存在の不明であるのは〈書誌學の川瀬氏すら未見であると云ふ〉寂しい事である。だが、「和玉篇」の名を有する字鏡集を擧げられたる事〈かゝる本は龍大にもあり/他日紹介すべし〉「篇目次第」も「倭玉篇かと云はるゝもの」の中に入れられたるは不穏當であらう。後者はまさしく和玉篇・玉篇の名を有するのだから、篇目次第本「和玉篇」とでも稱す可きであらう。又長享三年本和玉篇につきて、其の影寫本までも失はれたとせられた事、部首に關して述べられた事〈但しこれらの事は、龜田次郎氏の「和玉篇考」(未刊稿本)の誤りを繼承せられたるに延ぎず〉などは誤りである〈此の本の紹介については、すでに脱稿して某誌にのせる筈に成つて居る〉賢秀本は自分も一見したゞけで詳しく調べた事は無いが賢秀は單に書寫したに過ぎなからう。夢梅本は五卷と云ふよりは、上中下三卷五本と云ふ可きである。さて第七章は「附録すべきもの三種」にして、一は耶蘇會刊行「落葉集」中の「小玉篇」であり、他の二種は韻會玉篇〈此の書、朝鮮でも得難きものゝ由聞き居りしに圖書寮尊蔵本中にもある由知りたるは嬉しき事なり〉と全韻玉篇とであるが、朝鮮本としてはもう一種、三韻聲彙二卷に附屬する「玉篇」一卷が存するのである。さて次ぎは篇が變りて玉篇佚文」の篇であるが、これを「顧氏の原本と思はるゝ者 玉篇佚文内篇」〈計一五一頁〉と「顧氏の原本と趣を異にするもの 玉篇佚文外篇」〈二〇頁〉とに別ち、内篇にては三十八書(和書二十六種、支那書十二種)を擧げて居られるが、此の佚文の蒐集には、其れこそ多大の努力をせられた事であらうと思ひ感激する次第である。但し斯かる佚文の渉獵と云ふ事は、箇人の努力には何と云つても際限のあるものだから、如何に博士が努められても其は到底全部を擧げ得可きものでは無い事は明らかである。博士が是れだけを集められたからには、他の學者も亦、見付けるに應じて博士に報告して、出來るだけ完全に近い状態にす可きであらう。殊に内典章疏の類の古いもの、又古點本、古音義類には、原本玉篇の引用せられる可能性が多いだらうと思ふから、其の方面の學者が援助す可き義務があると思ふ。(自分も從來玉篇の佚文につき注意し會玉篇であつても古い時代に於ける引用は注意して居るのだが、さて引用史と云ふ事に成ると、抄出材料が亂雜にして手がつけられないのは遺感である。しかし一・二につき云ふと博士引用の「吉光韻書」に見える久邇宮王府御藏五行大義に存する原本玉篇の引用は、少くとも島田翰の引用して居るだけのもので無く、玉篇として標出してあるものは夥しかつたやうに思ふ。自分は數年前此の本を拜見し、二三日の間に東宮切韻の佚文を抄出したが、時間が無いのと、肩の凝りとで玉篇其の他に及ばなかつたのを後悔して居る次第である。博士が他書より引用して居られる踊字〈第三六三字〉に關する註文を示すと「顧野王 スルニアフ此曹喪之踊謂頓足ヲトルヲ地由襀 ルニ㆓内㆒ ルヽナリ㆓於外㆒晉灼 ク踊甚也」〈訓點、用字等本のまゝ〉とありて此の方が詳しい。但し[f:id:Okdky:20081010031832g:image]字〈第一三一一字〉の註に「居縛反狙也」とあるのは會玉篇〈二三ノ七ウ八〉と一致するから、五行大義は會玉篇も引いて居たかも知れない〈別筆同筆の事は今記憶が無い〉法相名目や相好文字抄に見える玉篇は會玉篇に似て居るが或ひは異るやうにも見られる。)

次ぎに、書後として本書著述の並々ならぬ苦心談が記され、さて索引(横組三股四十行のもの十一頁足らずと、横組五股三十九行の十一頁とで計二十二頁である)が存する、普通の活字には無き異體の文字が夥しく使用せられて居るのだから、印刷は隨分困難であつたらう。流石に東洋文庫の刊行物だけのものはある。誤植などは有るとも考へられないし、又それをあなぐりもせないが、唯二つ、夢梅本の引用文中に「日」とある可きものが「目」と成つて居る例〈三九四頁六行〉及び國語研究室が圖語と成つて居る例〈三八九頁二行〉佚文中の部首の誤植例と〈一四八頁〉を見つけたのであつた。
縱八寸六分五厘、横六寸三分、一頁十六行四十字詰、本文四三〇頁、佚文一七八頁、凡例、目次、書後、索引等四四頁、計六五二頁、是れに鮮明な卷頭圖版二十枚〈一枚は二圖であるから計四十圖と成る、一々簡單にして要を得たる解説が添ふ〉がありて、本文内容と云ひ圖版と云ひ、實に巍々堂々たるもの〈自分の購入したのは假裝であるが、無論假裝ならざるものもあるのだらう〉昭和八年に出た書物の中で、第一流の大著述として明言するを憚らない。發行せらるゝと殆んど同時に内容のつまらぬ爲めに特價品と成る類の書とは、大いに異り、橋本教授の古本節用集の研究同樣に年が經過するに伴ひ、賣價の昂騰する事が豫想せらるゝ良書である。本書を見て或るものは感激し、或るものは沑泥たらざるを得ないであらう。
要するに本書は主として顧野王の原本を研究し、其の影響を受けたるものに言及せられたのであるが、結局は何と云つても野王の業績の顯彰である。博士は玉篇の價値を論じ「其の分量と云ひ、翔實なると云ひ、字書としての價値は玉篇夐に字林に優れるに、唐の制度なほ説文字林を以て貢擧に臨みたる亦南北の見〈希云野王は南方呉郡の人にて南朝に屬す〉に囿せられし沙汰といふべし。あゝ出自によりて其の眞價を認識せられずして枉屈に泣くもの、豈ひとり玉篇のみならんや、顧氏のみならんや」〈一九二頁〉と云ひて、野王に、玉篇に同情あり理解ある言を吐かれ同時に述懷をもらされたが、げに古今東西の學者にして、不遇なる爲め理解せられず、理解せられぬ爲めに不遇の地位にありて、枉屈に泣くものは夥しい事である。野王も亦其の一人であつたが、しかし野王は一千三百九十年の後の昭和八年十二月に至り、刊本の中で顯彰せられるに至つたのである。野王の同胞たる支那人、原本玉篇を惜しげもなく、捨てゝ顧みざる支那人によりてゞは無く、原本玉篇の幾部分かを保存し、玉篇の名に因む多くの字書を出した東海君子國の學者によりて、眞摯着實なる眞の學者によりて、はじめて顯彰せられたのである。野王以て瞑す可きである。
其れにしても博士が、研究に都合よき立場(例へば購入及び手許への借用の事を云ふのである。三三六頁の苦心を見よ)に居られるとも思はれないのに、單なる蒐集家や、都合よき立場の者を瞠若たらしめる大研究を完成せられたるは、反す〳〵も敬意すべき事にて、人を感激せしむる事多大である。