柿堂存稿  岡井愼吾博士著

柿堂と云ふは小學の大家文學博士岡井愼吾先生の號である。博士は福井縣の人、明治二十六年四月小學校本科准教員の免状を得て小學校に奉職せられて以來、滿四年後には、「亂脈」を極めて教壇も立つて居ない福井中學校に於ける一年の受難を經て、伊豫の西條、廣島高師附屬中學其他で滿二十五年の中學教員生活を送られ、さて其の後大學豫科や高等學校に十一・二年務められ、「授業時間も校務の爲に心を勞することも少いので」玉篇の大研究を完成して學位を得られ、昭和六年十一月車駕五高に臨幸の時には、玉篇三點を陳列して天顏に咫尺せられ、翌年は九大法文學部の講壇に上られ、かくて四十年の教員生活に、「校長にも、首席教諭にも成ら」れなかつたが四十年の間に「四ツの教壇」を踏み碩學としての名を確保せられたのである。景慕すべき四十年であつた。其の四十年の教壇生活の四十の數に因んで、年來雜誌などに出された考説めくものなど四十篇を纏めて一冊とせられたのが此の柿堂存稿である。車駕臨幸に關する卷頭文三篇、雜考二十四篇、漢文漢詩各五題、紀行文等三篇(其の中の「四ツの教壇」の一篇は注意すべきである)。他に令孃執筆の「有七絶堂の記」や博士の自序がある。菊版、假裝、計三三八頁。とり〴〵に興味深く拜見したが、何と云つても、われ〳〵に最も有益であるのは雜考二十四篇である。「物名の歌につきて」「古今傳授につきて」の如き國文學關係のものもあるが、あとは人物傳にせよ、書物の研究にせよ、事項の研究にせよ、殆んど全部が博士の本領とせらるゝ小學關係のものにて、唐韻、切韻に關する研究などがあり、地味な研究であるから、一般の國語學者・支那文學者にはさ程注意せられる見込は無いにしても、其の方面の研究家にとりては皆珠玉の篇である「大矢翁と韻鏡考」「服虔始作反音」の如きは大矢翁をして九原の下に呼び起したい文である。「玉篇の研究補正」に於いて、私如きものゝ文が屡々引用せられて居るのは雜魚ザコトト交りにて恐縮の至りである(「補正」に關しては、愚考無きにしも非ざれば、それは又別の機會に申す事とする)。文章は例により、博士の癖として簡潔に過ぎ理解しにくい所が多々あるのは――但し小生のみにとりてか何うかは知らぬが――實事求是の學の文としては何うであらうか。時々皮肉たつぷり、諧謔交りの言にぶつゝかり思はず失笑する場合もある。さて本書は今のところでは非賣品であるが、發行所は熊本市東坪井町五の博士の御自宅である。(岡田)