安田家本假名書論語  安田文庫内 川瀬一馬氏編

假名書論語と云ふのは、單に論語を漢字交り文に延書したと云ふ位のものでは無くて、漢字は殆んど入れない主義で、全部を假名で書いたものを云ふ。斯う云ふ假名書のものは、今日では到底作られさうにも無いけれど、古くは、假名書化する程度には相異があるけれど、假名日本紀、假名貞觀政要、假名吾妻鏡と云ふ風に存したのであり、今度飜刻せられた此の假名書論語も亦、類書中の一つである。五山系かと云はるゝ安田文庫所藏の三冊本(雍也第六の中途より、陽貨第十七の中途まで。室町中期の古寫本と江戸期になつて、副本を作る氣で忠實に謄寫したものとより成るから、重複もして居る)であるが、首尾が缺けて居るのは惜しい 本書の假名書は「子曰、甚矣、吾衰也。久矣、吾不㆔復夢㆓見周公㆒也」を「しのたふまく〈希云、他例は「しのゝたふまく」とある〉はなはだしひかな、わがをとろへたる事。ひさしいかな、わが又ゆめにしうこうを見ざる事」と云ふ具合であるが、われ〳〵は是れにより、本書の出來た頃の讀方を、有りの儘に窺ふ事が出來る。〈本書といへども、誤字はある、二オ二「のべてつくせず」、四ウ一〇「もつておこなふ」、六オ六「もしせへとじんとには」の如きがそれ〉論語としては點本も澤山傳存して居り、又抄物の中にも、成簣堂刊行の論語抄の如く、かなり忠實に旁訓を施したものもあるけれど、有りの儘の讀方を知らうとする目的から云へば、假名書本に優るものは無い。われ〳〵は本書により、字音、國語聲音、語法に就きて、新しい知識が得られるのである(經學者が、別の意味で利益を受ける事は云ふまでも無い)。とにかく此の種のものは、國語研究資料として、又經學研究資料として、甚だ必要なものであるが、從來は飜刻□製と云ふ事も殆んど行はれず、前記の論語抄が一部存するのみであつたが、今安田家により、安田文庫叢刊第一編として假名書論語が刊行せられたのは有難い事である。二百部の非賣限定版ではあるが、今後學界を裨益する事は多大であらう。本文は大きい活字で飜刻し〈五十一枚〉上欄に論語の原文を添へて居り、巻頭には川瀬氏執筆の開題七頁と、原本の寫眞八葉とがあり、原本を見ざるもの、本書の價値の理解しかねるものをして本書の性質を理解せしめ、原本をしのばしめる事に於いては申分が無い。和裝で佳良な紙を使用し、型は美濃版よりも大きいが、空色の簡素な包み表紙は用紙を日向高千穗に求めて五山表紙を再現したもの、流石に凝つたものである。飜刻として申分無かる可きは無論だが、たゞ卷頭の雍也第六の二十四章は、假名文では「(い)はく、じんしやにたとひつげていわく、井にじんしやありといはゞ、それしたがはんや」とありて仁者縱告之曰の原文論語抄も同じ〉によつて居るのに、上欄の原文として、縱が雖と成つて居る方のみを擧げて、説明が無いのは、白玉の微瑕であらう。昭和十年九月十五日安田文庫發行。非賣品。(岡田)