瑣言

  • 丘衣
  • 藝文 12(7): 405-410 (1921)

文學の研究が作品の文學的價値を研究するにある事をのみ、やかましく云ふ人がある。それも大切には相違ないが、解題的研究と云ふ事が非常に重要な事であるのを忘れてはならぬ。是は極めてじみな又面倒な仕事だが此の研究がすまなければほんとうの文學的研究も出來ない譯だ。よし出來た所で所謂砂上樓閣である。所が、世にはこのじみな仕事をけなして『作品の出來た年なんぞはどうでもよい。作者の生歿年代は知らなくつてもすむ』と放言してひとりよがりな事を云ふ人があるがをしかしな事だ。氣の小さい文學史研究家は迚もそんな眞似は出來ぬ。矢張り、作者と作品の年代、作者の傳記を調べなければならぬ。日本文學の研究は殊にさうである。例へば平安朝の女性には文學者が多かつたが、その生歿の年代の知れて居る人が果してあるか。全てないのである。紫式部清少納言、赤染衞門、小野小町、伊勢御息所、何れもその年齡傳記は明確にはわからないのである。その中で自叙傳小説の一種と見られる蜻蛉日記の著者の歿年だけが判つたのは極めて珍らしい事だ彼女は一條天皇の長徳元年五月二日に歿したらしい。それは後小野宮實資の日記小右記長徳二年五月二日條に『新中納言道綱亡母周忌法事、送七僧、粥時又、依候大内不訪向之由、自内差致信示送了』とあるからである。尤も週忌と云ふ語だけでは一週忌だかどうかはわからぬが、まづ一週忌と見る可きだらう。生憎に史料通覽本の小右記の正暦六年五月條は脱漏があるし、其の前年は全部闕けて居るし又正暦四年の五月も初めの所がない、又長徳三年も五月の始めは闕けてある、四年は全部ない。こんな譯でやゝ斷言しかねる點もないではないが長徳元年五月二日が歿日としてよからう。この時、道綱は四十歳であるから恐く道綱の母は六十歳前後であつたのだらう。道綱を新中納言と云つたのは丁度七日程前の四月二十四日に内大臣伊周等が花山院法皇射撃の事で失脚したゝめ新に中納言となつたからである。そして源氏物語の著者紫式部は二十三四歳位なるべく、當中中宮定子の殊寵を蒙つて居た、清少納言はもう三十歳にとゞいて居た事とおもはれるが、中宮の父君關白道隆の薨去(長法元年四月十一日)に大に手まどひして居た事であらう。さて、この蜻蛉日記の著者の歿年についての小右記の記事を注意したものは、從來の學者には一人もないやうだ。



阿女都千の詞は、難波津淺香山の歌とゝもにまだ伊呂波歌の出來ない時分即平安朝中期頃に幼童の手習用に行はれたものであるが、難波津淺香山か、續け書きの手習本として用ひられたのに對して、阿女都千の詞は、文字を覺えるためのものに用ひらたて居たは事は、早く吉澤博士の論ぜられた所である。そして、この詞の成立した時代について大矢透翁は奈良朝末ごろと考ヘて居られるやうである。その當否はさておき、この詞の事が見えたのは、宇津保物語、順集、口遊、加茂保憲女集、相模集等であつて、それ以後は少しも見えて居ないといふので、平安朝中期以後は伊呂波歌の勢に壓倒せられて世に行はれなくなつたといふのが定説だが南朝の柱石源親房の書いた古今集序註續群書類從卷四五二を見ると『難波津の歌は云々あさか山の言の葉は云々、このふた歌は歌の父母のやうにてぞ手習ふ人のはじめにもしける』とある所の注に「近代は皆是〈即伊呂波歌〉をならふ。然而無常の歌なりとて物忌などする人は今略天地星空など云ものを習なり』と見えて居るから、南北朝ころにも行はれて居た事はうかがはれる。親房は當時の大學者であるから、古い事を知つて居て、こんなことを書いたのではあるまいかと疑へないでもないがあれだけ佛教の感化を受けた人として『(伊呂波歌は)無常の歌なりとて物忌などする人は云々』と云つて居る事を見れば、實際そんな事もあつたと考へるべきだらう。そして、南北朝の頃にも行はれて居た。

以上は平安朝末期鎌倉期を通じて、よしや微々としたものであつたにしても、兎に角天地星空が手習用に用ひられて居た事が考へられるから、平安朝中期に伊呂波歌が出來たが爲めに全然顧みられなくなつたとは云へまいと思ふ。
又大矢翁が阿女都千の詞も恐くは伊呂波歌の如くに、七言づゝにきつてよんだのではあるまいかと云ふことを口遊を據として云つて居られることに對し吉澤博士は、翁の據が極めて薄弱だからそんなことはいへまいと云はれたが、今この序註にも天地星空と書いてあつて「あめつちほしそ」とはなつてゐないことにより博士の説を裏書することが出來るかと思ふ。

  • (丘)



宇津保物語の中に「鼬のなき間の鼠」といふ諺がある。即ち國讓中に「藤壺參り給ひなば、しやうぞくの薫物のやうなるべし。(之も當時の諺らしいが何の意か分らぬ)。鼬のなき間の鼠としても仕うまつれとなむ」。と見えておる。之は盛衰記などにも「鼬のなき間の貂誇り」などゝあつて、自分より權力才能などの優れた者が居ない間に幅をきかすといふ意である。そしてこの諺はこの頃隨分廣く用ひられたものと見えて、同じく國讓中に「後生の恐ろしかりしかば、耳はすはりにしを、今宵はいたちのまとこそ聞き給へけるは、物一つあそばせ」とあり、又菊の宴に「やむごとなき人數多さふらひ給ふと承れば、いたちのまなき心地してなむ。東宮打笑ひ給ひて、參り給はん程こそ倉の鼠の心地もすべかなれ。いとさな思しそや」。とあつて、かなり應用自在にこの諺が使ひこなされてゐる。「倉の中の鼠といつたのは李斯の故事も思ひよせたのであらうが、勿論「鼬の間なき」といつた言葉に對した答である。源氏にも「鼬のまかげ」といふ事は見えてゐるが、この諺を使つた所はない。東屋卷に「鼬の侍らんやうなる心地のし侍れば」とあるのは、或はその意昧でないかとも思つたが、これはやはゐ鼬の疑ひぶかいことを言つたゞけであるらしい。「侍らんやうなる」といふ言方は一寸變だが、宇津保にも「人は一人なれどかやうにこそ子は養ひ立て給へ。このわたりこそ{ゐのこ}の侍らむやうに物の用にすべきものなく」とある。

又宇津保の中に「後生{のちおひ}」といふ言葉が二三散見する。雅言集覽にも倭訓栞にも共に採録してゐるが解釋はしてない。二阿抄にはたゞ後に生ひ出たものと解いてある。固より「後生ひ」の字義はそれにちがひないが、宇津保の中に用ひてあるのは單にそれだけの意味ではない。是は論語の「後生可畏」の意で、それを和語調に「のちおひ」と言つたのである。その證は前にあげた國讓中の文句に、「後生の恐ろしかりしかば」とあるので分り、國讓上に「のちおひのと言ふことあれば」とあるのも、藤原の君に「などか實忠をしも覺しおとすべき。後おひともいふものなり」とあるのも、皆その意味で解かなければ通じない。宇津保の中にはこんな漢文直譯風の言葉がよく見え、諺でも「仇は徳を以て」とか「牛毛麟角」とか「闇夜の錦」とか「泥中の蓮」とか支那傳來のものが多い。

諺のついでに今一つ。近松の「丹波與作」に「雲に汁が出來て來た」といふ諺を用ひてある。先輩は之を解して「事の漸く深くなる意」といつて居るがいろ〳〵その用例を見ると、之はどうも「あてがついて來た。有望になつて來た」などの意であるらしい。その語源についてに固より證とすべきものはないが、按ずるに「雲に汁」とはやはり「雲に雨氣を含んで來た」の意で旱魃で雨を待ち望んで居る時、雨氣を帶びた雲が出て有望になつて來たの意から出たのではあるまいか。用例は諺語大辭典に二三載せてあり、その他「堀川夜討」に「雲に汁が出來たやうで又雲をつかむやうで分別に能はぬ」とあり、「お伽名題紙衣」に「五百兩とは思へどかゝりに三百兩つかはされうなら、とんと負けて進上いたさうといへば、先づ雲に汁が出來ましたあとで椀久さまと御相談いたして見ませうと」とある。いづれも「あてがついて來た」とか「有望になつて來た」とかの意と思はれる。同じく近松の淨瑠璃中に「ぶに首」といふ言葉がある。即ち「壽門松」に「此方も歩をもつてぶに首を提らるが悔みはないか」又「堀江川波鼓」に「ヲヽ殿樣の御勘當{うけ}歩に首打たるゝ法もあれ、僞りはない」とある。其他「今川了俊にも「ふに首をさげられ」とあり、「堀川夜討」には「歩に首を提られ鎧をかたにぬけぬ法も有れ」とある。この意昧についてもこれまで定説がないやうだが、やはり「一軍の將たるものが雜兵歩卒の爲めに首級をあげられる」の意で武士の誓詞に用ひた言葉であらうと思はれる。

  • (衣)