さて識語を檢すると〈句讀訓點は今施す〉

康永二年四月廿九日、依㆓千代菊所望㆒染筆了、更不㆑可㆑有㆓外見㆒、況於㆑與㆓他人㆒哉、勿論々、抑此内名所百首題書㆑之、向後可㆔豫參㆓和歌會㆒之條、不㆑及㆓子細㆒歟、別猶令㆓故障㆒者、速可㆓召返㆒者也(希云、別猶云々は、和田英松博士引用のものに從うたのだが、自分の見る本では若猶云々と讀みうるのである)

此一册者依㆓春松丸所望㆒以㆓祖師大乘院贈一品尊ー親王芳跡㆒染㆓禿筆㆒者也
 文祿第二暦仲春初三日 臨池末流二品御判親王

とある。大乘院贈一品尊ー親王とは云ふまでも無く尊圓法親王伏見天皇々子、徳治三年四月青蓮院御入室、廷慶三年六年親王御名尊彦、應長元年六月廿六日御得度、元弘元年十月廿五日天台座主、延文元年九月廿三日薨、世壽五十九、號大乘院)であるから、本書は親王が四十六歳の康永二年四月廿九日に、千代菊と云ふもの――名から察するに御寵童ででもあつたのだらう――に書き與へられたのである事が直ぐ判るが、單なる「染筆」であつたか、自ら撰述せられたものであるかは、明言できなからう。不可有外見云々とあつても御撰なるが故にとは明言できまい、名所百首題を書いたのに故障が出たら取りかへすと云ふのも、強ひて云へば百首題だけを親王が加へられたのだと見られない事は無い。しかし、本書には圓選詞林と云ふ名がある。題箋に見えるだけで、内題も無く、親王の識語にも見えないから、これが、正しい書名であるか何うか、親王の與へられた書名であるか、後人の加へたものであるかと云ふ事も判らないと云へる譯だが、とにかく書名は、本書が尊圓親王の御撰である事を示して居る事は確かである。
次ぎに第二の識語であるが、文祿二年二月三日に臨池末流二品御判親王により書かれたものである。ところで此の頃の二品親王はどなたで在られたかを檢するに、皇胤紹運録を見たゞけでは、それらしい方を見出せない(後陽成天皇皇子大覺寺の空性、曼珠院の良恕兩法親王では、御年に難點がある)が、尊圓親王を祖師と云つて居られるので青蓮院關係の方であらうと、豫想して査べると、青蓮院門跡で天文十九年九月十三日に薨ぜられた尊鎭親王〈後奈良/皇子〉の次ぎに立たれた方に尊朝と申すのがあり、諸門跡譜〈類從/本〉によると「正親町院御猶子、實貞敦親王御子、慶長二年二月十三日寂、四十六歳」と見える、貞敦親王伏見宮で、纂輯御系圖では

貞敦親王――邦輔親王――尊朝法親王

とありて貞敦親王の御孫と成つて居るが、其の當否はともかくとして、此の方は天正十三年二月十二日に天台座主にも成つて居られるから、文祿二年頃に二品親王であり、臨池末流と自ら仰せられ、尊圓法親王を祖師と呼ぶ方が、尊朝法親王であらせられたと見る事に間違ひはあるまい。文祿二年は親王四十二歳の御時で、春松丸と云ふのも名から察するに、御寵童であつたと見て可からう。文祿頃には尊圓親王の眞筆が傳つて居て尊朝の御手許にあつたものらしい。
さて自分が今、解説して居る古寫本は尊朝の御署名が「臨池末流二品御判親王」とあるから、尊朝の御筆で無い事は云ふまでも無い、少くとも尊朝御筆本を寫したものである。しかし尊朝御筆本の直接の寫しか、何うかは判らぬ。だが徳川初期の寫本だらうと考へても支障無き程度のものと云へると思ふ。至つて能筆で全部一筆である。〈まれに漢字/や片假名の/細字で少々音訓をつけて居るが、これが誰/の筆であつても問題とする程の事は無い。〉因みに尊朝は「此一册」と云つて居られる。それに、今見る本は表裏の二册である。二册は後人の分册にかゝるものなる事が判る。