對相四言雜字について

  • 岡田希雄
  • 書誌學 14(6): 1-8

對相四言、又は對相四言雜字と云ふ貧弱低級な繪入讀本がある。何れも支那製の簡單低級な童蒙用繪入單語讀本の日本版であるが、是れが本邦の繪入百科辭書たる訓蒙圖彙と關係を有するのでは無いかと疑はれる點で注意せらる可きものである。


現在私の見得るものは唯の二種に過ぎず、一つは稀書複製會第二期本〈大正九年七月刊〉で、他は柴野栗山手書本を刻したものである。便宜上前者を複製會本と呼び、後者を栗山本と呼ぶ。

複製會本は六寸五分に四寸七分程の中型一册で、表紙は古版に見る栗皮表紙を摸したものらしい。題箋には「對相四言雜字」とあるが、卷首や卷尾の内題は「魁本對相四言雜字」である。内題の次ぎに

洪武辛亥孟秋吉日金
陵王氏勤有書堂新刊

と云ふ木記があり、さて本文が始まるが、本文は一頁を上下二段にし、四行八段に區限り、第一行第三行は單語を書き、其の次行即ち第二、第四行に其の單語に相當する簡單な繪を書いて居る。僅か十丁であるから、單語の數も少いが、はじめの方は一字の單語であり、終の三丁分十一行足らずの單語は剃刀、轎子、凉傘、水盆と云ふ類の二字の熟語である。是れらを天雲雷雨、日月斗星、江山石水、路井墻城、竹荷梅柳、瓜薑菜と云ふ風に大體類を以て四字句の形式で擧げて居るのだが、文字と繪と並べてあるから對相であり、四字句だから四言である。全部で七十七句、三百八語であるに過ぎない。其れらの單語は無論日常語にして、總べて圖示し得る實字のみである。稚拙な粗畫も面白い。表頁の雙郭の下方隅外側に「伯壽」と刻してあるのは〈此の文字あるもの五丁、無きもの五丁〉刻工の陳伯壽の事で、長澤規矩也氏の元刊本刻工名表初稿(書誌學二ノ四)にも見える、元末明初の人にて、四年前の貞治六年七月に來朝して居るから、此本も來朝後に開版したのであつた。其れにしても明の年號を使用して居るのは注意すべきである。複製會本は第二丁と第七丁とが〈丁附は無いのだが〉入れ違ひに成つて居るが、これは何の本でも然う成つて居るらしく、要するに底本の錯簡に氣づかずに、底本通りにしたものらしい。複製會が斯う云ふ支那の俗書の本邦版までも複製したのは、單に珍しいと云ふ點からであらう。其の解読の中では、陳伯壽の事を述べ、此の複製會本の底本は「明暦頃の紙質に近しと見ゆ」と云ひ、さて、柴野栗山が和譯して對相四言と云ふ小册子にて刊行したと傳へられると栗山本に言及して居るが、此の書方では栗山本は見て居ないやうだ。しかも文政四年の谷文二本の事を説いて居る。


谷本は、自分は見て居ないから、年代順により栗山本の事を説くに栗山本は美濃型版、空色表紙で、扉〈見返しに當る〉の中央に「對相四言」、其の右に「柴栗山先生手書」〈野字は支那臭くするため除きあり〉左に「梅花書屋藏板」とあり、其の下に「東贊山氏」の方形陽刻朱印があり、題箋も對相四言である。次ぎに一丁分の序がある。

  刻對相四言小引
此册。栗山先生手書。所以使共子弟。日諷誦者。往時家君在京。遊于其門。先生與以亦誦我家焉。〈汝明〉亦得與誦而知其得益不小々也。惟憾世之漢本寫圖。孟浪莫如此本之佳者。今茲癸亥。校而授梓。傍附以國字者。欲使童蒙易誦也。
 享和癸亥春三月        山田愛一郎録

次ぎの本文は九丁、卷首内題に「對相四言」とあり、次行に「呉門聖徳堂梓」とあり、さて本文がはじまる。一頁を上下に別ち、各頁四行八段で單語と其れを示す繪畫とが相對して居る事、全く複製會本と同じである。第十丁表頁に跋がある。〈本文と跋とは通し丁附で十丁と成つて居る〉

癸亥之春。兒汝明。詢刻此册於余。曰善哉此擧。可以刻公世。汝明唯而退。無幾見不幸嬰疾而歿。終不能果其志。歳月荏苒。已歴五歳。今年丁卯之秋。一日余探簏中。得此書。手澤猶存。取而讀之。且泣曰。嗚呼吾懶慢。使兒無繼其志而至今日者。乃父之過也。即令工刻之以果其志。其冬十月書肆告刻已成。乃父汝翼爲揮涙而書。
  丁卯冬十月

此の跋の裏頁〈其れは後摺本の場合らしい〉若しくは裏書皮の當紙〈表書皮の見返に當る。これは初版の場合らしい〉に「丁卯新鐫」「浪華大原東野畫」とある。以上の序跋等に見えた所を綜合すると、柴野栗山は支那刊本對相四言を手寫して、其の子弟の教科書として居た。其の手書本か、又は共れを底本として新に手寫したものかを、門人山田汝翼に與へた。汝翼は其の兒汝明に與へ、汝明は得益小々で無い事を知り、且つ此の本の佳本である市も知つたので、享和癸亥三年春、文字に添假名を施して上木せんとし、共の序文まで書いたのだが、志を果さずして病死した。そして早くも五年經つたが、父汝翼は一日其の原稿を取り出し、兒に代りて上木し、刻が完成したから、文化丁卯四年冬十月に涙ながらに跋を書いたと云ふのである。栗山は此の十二月に江戸で歿して居るのだが、此の本の出來上つたのを見たであらうか。汝翼が何所の人であるかは知らぬが見返しに「東贊山氏」の印があるから、其の師栗山と同じく東讚岐の人だらう。浪華の大原東野が插繪を書いて居るのを見ると、此の本は大坂版であつたやうに想はれるが、享保以後大阪出板書籍目録には見えない。梅花書屋は汝翼の家で、其の私版として東讚で出版したのであらうか。岡村金太郎氏の往來物分類目録に栗山本を擧げ「享和三」として居るのは、汝翼の跋文が缺けて居る本であるか、又は汝翼の跋文をよくも見ないで、序文の日時のみによつたものだらう。本書には後摺があるが、其れには「東贊山氏」の正方形印は無い。字音の添假名にも多少の訂正がある。大體本書の字音假名遣は誤のあるものだが、其れが後摺本では入木改刻で少々訂正してあるのだ。例へば書名の相字は初版にソウとあるのだが、後摺ではサウと改めて居る、しかしサ字だけを入木改刻したのだから、此の字だけが特に墨が濃くついて居て目立つ、他の改正した文字も同樣だから、指摘しやすい、但し、訂正も不充分だから誤はなほ存する。


柴野栗山は大儒ではあるが、兄の古い原稿に手を加へて、全く節用集と同じ組織の漢語辭書たる雜字類編七卷〈二本、天明丙午六年六月刊行〉を刊行した人である。此の人が對相四言の如きを珍重して居た事は興昧がある。ところで栗山の手寫した本は聖徳堂版であり、名も對相四言と言ふ。一方複製會本は洪武辛亥四年七月(わが長慶天皇建徳二年)の版で、魁本二字は除くとしても、對相四言雜字と云ふから書名は少し異る。しかして内容も亦かなりに異る。(繪の相異は、相異があつても當然だから問題とせぬ)。例へば

複製會本 栗山本
二オ二下 魚・龍 龍・魚
三ウ一上 木篇あり
同下 木篇あり
四オ一下 秤(同字なり)
四オ二上 石篇に作る
四オ二下 托・楪 碟・托
四ウ二上 槌・碪 鎚・砧
五オ一下
六オ二下 旁を廉にす(同字なり)
八オ一下 ×(疒の中に省) 痩(同字なり)
八オ二上 轎子 轎兮
八オ二下 交椅 上段の第四字目にあり
八オニ下 凉傘・卓幃〈此の字では無いらしいが、説明に困るから栗山本による〉 順が逆に成る
八ウ一上 藤箱 皮廂
春臼・水履 木屐・春臼
八ウ二下 氊韈 下字を衣篇にす
擣砧 錫礶

こゝまでは校合できるが、九丁以下は複製會本の九丁オウ、十丁オウに收載せられて居る六十語を、栗山本は何故か九丁の二頁に收めんとして居るから、當然三十二語しか採録できないのに、さらに複製會本に無き熨斗、銅礶を入れたゝめ、三十語が共通し、三十語は捨てゝ居る。しかも、其の順序は無秩序にて校合に苦しまねばならぬ。さて比校すると七字の相異がある。栗山本の第九丁のみが何故斯くの如く成つて居るかは不明だが、栗山が故意に斯くの如く改惡したとも考へられぬから、聖徳堂刊行の支那版が既に此の通りであつたと見る可きだらう。兩本に存する單語で相異あるものを檢するに、轎兮、水履の兮、水が子、木の誤字である以外は誤字とも云へないものである。其の他の相異にしても一方が正しくて一方が惡いとも云へないものである。

繪畫は栗山本は寫本――其れも直接の寫本であつたらしくも無い――を畫工が版下書きしたものだから、原刊本とはかなり異つたものと成つて居るのだらうが、其れでもやはり、無論複製會本に似て居る。そして繪としては栗山本の方が巧みだが、説明畫としては不充分なのもある。例へば跛・倭〈八オ一〉、雞栖・牛欄・羊窂・猪圈の如きが其れである。路の繪の如きは複製本では橋とも見えるものを描いて居るが、栗山本は水田中の道を描いて居る。簫の形は複製會本は前頁の「笛」と區別できぬ唯の一管の笛の形に描き栗山本は十六管式のものらしいもの(我が信西古樂圖にも見ゆ)を示して居る。訓蒙圖彙も此の方だが無論此の方が正しい。


次ぎに稀書複製會の解説に見える本は「新刻四言對相」と云ふ書名で「文政辛巳春十童谷文二」の識語があり其の文政辛已四年の刊行であるが、本は少し複製會本より大きく、文字圖畫共に古拙の雅趣を失うて居る由である。「十童」の義は其の識語を見ないから自分には判らないが、谷文二と云ふのは谷文晃の子か弟子かでありさうな名である。本文の事は解説に何とも云つて居ないが、何も云つて居ないのを見ると、複製會本と同じものらしく見える。


對相四言としてはも一種あるらしい。神習文庫圖書目録〈三五七頁〉に「對相四言花夜記〈文化元〉」とあるものだが、花夜記と云ふ語は判らぬが、對相四言の一類である事は間違ひがあるまい。寫本と斷つてないから刊本と見る他は無いが、刊本だとすると文化元年の刊行と見る可く、栗山本や谷本とは異る筈である。

書目類に見えて居る對相四言の類を探すと、静嘉堂の松井文庫目録の漢籍の類書類の尾に「對相四言 刊一」とある、原書に刊記のない本邦刊本らしい。

古い刊行書目では元祿五年書目〈後摺が多いと云ふ〉字書の部に「四言雜字」、同じ九年の増益書籍目録「し儒書」にも名は見えるが、版元も値段も記さぬから、當時は賣出して居なかつたかも知れぬ。此の後合類書籍目録大全の字書にも名は見えるが、無論古い目録に據つたに過ぎまい。


さて對相四言の本邦文獻に見えて居るのを搜り行くと、今のところ壒嚢鈔卷三、第四十四條の「ハカリハ何ノ字ゾ」まで溯り得る。

秤稱〈又/称〉權衡、皆ハカリトヨム也、魁本對相四言雜字ト云物ニ、ハカリノ繪圖ノソバニ、秤ノ字ヲ出ス、玉篇ニハ無㆑之、三寶字類ニハ秤ヲ俗字ト注シテ、称ヲ本ニ出ス。(以下略す)

こゝに云ふ魁本對相四言雜字が陳伯壽雕刻の洪武辛亥孟秋吉日版であるか、其の後の版であるか何うかは判らぬが、とにかく四言雜字である事は明らかである。しかしハカリに秤の字を書いて居ると云ふのは、複製會本即ち洪武辛亥本には稱字を書き居り、栗山本には秤字を書いて居るので、壒嚢鈔の言に一致せないから不審である。壒嚢鈔は行譽上人の著で、文安三年五月廿五日の自跋が存するが、魁本對相四言雜字が洪武辛亥孟秋即ち長慶天皇建徳二年に、恐らくは我が京都で刊行せられてより、七十五年目の事である。行譽の如き碩學が、斯う云ふ童蒙用教科書にも關心を有して居た事は、興味のある事である。

本邦の繪畫本位の辭書の最古のものが何であつたかを、確信を以て明言する事は私に出來ないが、訓蒙圖彙が最初であらうと考へて居る。中村暢齋の著で、寛文丙午(六年)秋七月の自序があり、戌申(八年)季冬には模倣版も出來て居る程だから、序文の日附たる寛文六年七月頃の刊行と見られる。寛文六年の原版について云ふと、美濃版二十卷、一頁二圖の繪入百科辭書と云ふ可きだが、最初の刊本には刊行年月を記した本を見ない。大變よく行はれて、間もなく一頁四圖本が出たが、これに序文が草書であるものと楷書であるものとの二種があり、寛文戊申(八年)季冬の刊記は此の楷序本に存するのである。(後に増補本も出來、大成本も出來る。其れらの事は別の機會に述べたく思ふ。)

此の訓蒙圖彙は繪畫本位の百科辭書である點で、明の王圻の三才圖會に似て居るが、四言雜字にも酷似して居る。しかして自序を見るに、訓蒙圖彙より以前に存して、訓蒙圖彙と似て居たらしい物に就いて次ぎの通りに云つて居る。

後世有㆓百藥之圖㆒。有㆓六經之圖㆒。而至㆑有㆓三才之圖㆒焉。近又得㆘一卷之雜字書畫對照以便㆓于啓蒙㆒者㆖矣。吾家有㆓兒女㆒。皆才垂髫焉。内無㆓姆可㆒㆑從。外無㆓傅可㆒㆑就。乃倣㆓對昭之感㆒。互㆓綴四言千字㆒。副以㆓國字㆒。傍以㆓畫象㆒而授㆑之。兒女盡日翫覽不㆑釋焉。自后稍覩㆑物呼㆑名。聞㆑名辨㆑物。以至㆔略識㆓字樣㆒。

「百藥之圖」が何う云ふ物か知らぬが、本草綱目の藥物圖の如きものであらう、「六經之圏」も亦六經に出る草木蟲魚獸器物等の圖解書――あたかも爾雅圖の如きもの――であらう、三才之圖は無論三才圖會であらう。斯う云ふ物が訓蒙圖彙に影響しただらうと云ふ事は容易に想像できるが、直接の影響を云へば、一卷の雜字云々とあるものなる事は否定できぬ。其の書は文字と繪畫とが對照できるやうに成つて居り、童蒙用のものであつた、其れを見て暢齋は自家の兒女の教育のため、四言の千字を作り、其れに國字即ち添假名を施し、説明用の繪畫を加へた、是れがやがて訓蒙圖彙の土臺と成つたと云ふのであるが、四言の千字云々により、其の雜字が四言句であつた事も想像でき、さらに「一卷之雜字」の語により對相四言雜字と名が似て居る事を認め、私は暢齋の見た書は、即ち對相四言雜字其のものであり、其の簡單な四言雜字を摸倣して二十卷の訓蒙圖彙を作つたのであらうと想像するのである。

對相四言雜字につき、又同書と訓蒙圖彙との關係につき、かれこれ述べたが、見ない本が多く所説は不完全である。それにも拘らず敢へて述べたのは、識者の高教を得たく思ふからである。
(三月十六日)