倭玉篇の一類に眞草倭玉篇と云ふのがある。眞體即ち楷書體に草書體を添へたもので、節用集の二體節用集〈草を主、眞を從とした二行節用集にて、二體節用集の名のあるは、寛永三年六月刊の三卷横本が最初であるが、實質的には、既に慶長十六年九月刊行の美濃型二卷二冊本がある〉を模倣したものである。慶安以後版がかなりにあるが、寛永版が最も古いらしく、元和版の有無は不明である。其の寛永版に二種の異版がある。書物も寛永版と云ふのでは、活字版と云ふやうな物で無い以上は、版本として珍しいものとは云はれないが、其れでも割合に少いらしく、從來は一種の存在――しかも零本である――しか説かれて居ないのだから、遼豕ながらも敢へて紹介せうとするのである。

さて眞草本の事を最初に説かれたのは、岡井愼吾博士であつて、共の大著「玉篇の研究」〈昭和八年十二月刊〉

寛永二十年本。  卷三・四・五を合せて一冊とせる零本、今神宮文庫に藏せらる。縱四寸、横六寸四分の横本にて眞艸兩體を收む。開卷の初行には白字にて 眞草倭玉篇卷三目録と出して、毎行七段、卷四・五のもつぎ〳〵にあり。その部首を見るに非増補本なるが、順序はやゝ違へる所もあり。本文は四段、右に眞書、左にその艸體を並べ書し、音訓は眞書のに附けらる。巻末に左の三行あり。

寛永癸未初夏吉旦  三條通菱屋町  林甚右衞門

此の書にも前後兩版あるに似たり。九州帝國大學の春日教授は卷二・四の二本を藏せらるゝが、其の卷四を神宮文庫本に比するに、全同なれども紙質印刷ともに較劣り(同文庫司書岡田君の説に據る)而も卷二に比するも亦同樣の觀あるは、卷二は必ずや神宮文庫のと同板たるべく、卷四は其の後刷たらん。而して此の二本は舊の題簽を存して五本として出せること明かなれば、神宮文庫のは後に合綴して目録を纒めて出しゝならん。其の一・二と三・四・五との二本に纒めたるか、三・四・五のみ存せるを然せしかは今詳にしがたし。眞艸本は管見にてはこれを始とす。徳川時代には公文書を初め、通用の字體は艸書なりしかば、此の書の時好に投ぜしや知るべく、是、非増補本の如き、時代に逆行せしものゝ、猶こゝに至りて世に行はれたる所以ならんか。

と記して居られ、〈○以上全文引用〉第三卷の本文第一頁と第五卷尾の刊記の頁とを、寫眞で示して居られる。博士の見られた本は、神宮文庫のも春日教授のも零本であり、二種を加へても完全では無い本であつた。「玉篇の研究」の刊行の前年、即ち昭和七年一月三十一日には、倭玉篇の蒐集者であり、「玉篇の研究」の中に引用せらるゝ「和玉篇考」〈但し未刊本〉の著者なる大谷大學教授龜田次郎氏が、谷大國文學會の主催で、其の多年の蒐集にかゝる倭玉篇の展觀をせられ、私も參觀したのだが、寛永版眞草倭玉篇は一部も出品せられては居らず、其の時の講演で同氏も神宮文庫本を擧げられたのである。また九州帝大國文學研究室は、昭和十一年十一月に古辭書類展觀を催ほされ、春日教授の御藏書も出陳せられ、寛永版倭玉篇も三種、同教授御所藏本が出陳せられたが、眞草本は出なかつたのである。以て寛永版眞草倭玉篇の割合に少い事を察するに足るであらう。岡井博士が眞草本の最初のものを、寛永二十年版とせられ、其れに伴ひ、時代に逆行云々と云はるゝ事が妥當で無い事は後に言及する。

ところで私は其の後、書肆の店頭や古書即賣會で、寛永版を二・三度は見た。しかし倭玉篇としては、慶長版や元和版を重視すべきである事を知つて居る私は、寛永版眞草本の如きは重視せないので購求はせなかつた。だが今年の六月下旬頃であつたかと思ふが、書肆の目録に寛永四年版の眞草本の第五卷零本一册が出て居たので、刊記が古いので注文したところ、賣切で手には入らなかつたが、これが中島翁の御手に入つたので、私が始終古書拜見に就いて御世話に成つて居る中島仁之助翁より、其の寛永四年版の他その後摺本たる二十年版、別の異版たる二十一年版等を恩借する事出來て、岡井博士の記述を補足するだけの知識を得る事も出來るに至つたのである。其れで今三本により寛永版眞草本の事を説かうとするのである。