さて斯う云ふ眞草本の最初の刊行が何時であつたかは知らぬが――岡井博士が二十年本を最初とせられたのは宜しく無い――現存本では寛永四年九月のが最古である。ところで眞草二體節用集は慶長十六年に例があるが、二體節用集と稱するものが出たのは寛永三年六月である、そして眞草倭玉篇が眞草二體節用集の模倣である事は動かせないから、寛永四年九月版眞草倭玉篇を以て最初のものと認めて大過あるまいと思ふ。さて其の頃倭玉篇として何う云ふものがあつたかと云へば、慶長十五年初刊本、同年有刊所本、同年無刊所本、同十八年雙刊記本、同年單刊記本等の大本三册本があり、〈これらの事はすでに詳論した事である〉若し又所謂元和版なる美濃半截横本三册本が、果して元和版であつたとすれば、此の元和版が存して居た筈であり、然う云ふ時代に、寛永三年六月刊の横本の二體節用集をまねて横本としての眞草本が生れるとすると大本の慶長版から生れるよりも、其れを横本とした元和版より生れるのが體裁の上から云つて妥當であると見たい(尤も元和版は、横本であると云つても、行數段數丁數などは、慶長版の大本と變るところは無い)。しかして此の樣な豫想を以て眞草本を元和版と比較するに、事實、眞草本は、元和版に據つたと見られる。其の比較と云へば、元和版の本文が破壞せられて慶長版の何れとも異るものと成つて居る箇所〈此の事は「元和縮刷版倭玉篇補攷」で述べた〉を比較するのであるが、其れらの破壞せられた箇所はかなり眞草本で訂正せられては居るものゝ、やはり誤られた姿のまゝで眞草本に現はれて居るものがあるのである。其の例は左の如くである。

○上卷〈元本を中心として云ふ、丁數は右は元和本、左は眞草本だが、眞草本は第四卷までは丙本(後述)のみに據り第五卷は甲乙丙三本に據る。〉

〈二七オ二/一ノ四〇ウ二〉 シボル(シボム萎の義)
×(旁は曷/扁は鼻)〈二九ウ五/一ノ四四ウ五〉 ハナオキ(ハナイキ。〈オキソの風、オキナガ(息長)川の例から云へばハナオキも非とは云へなからうが、とにかく慶長版にはハナオキとは無い〉)
〈三八オ六/一ノ五七ウ五〉 トテソ(トラフ。〈字鏡集にも此の訓あり〉
×(旁は卜/扁は口)〈三八ウ一/一ノ五八オ一〉 ニラ(トフ)
×(旁は隽/扁は口)〈三八ウ五/一ノ五八ウ一〉 元和ソグム 眞草ソクム(ツグム)
〈四〇オ四/一ノ六〇オ五〉 オムル(ホムル)
〈四〇ウ五/一ノ六一オ三〉 ヲタク(ヲメク)
×(咸欠を左右に並べ下に糸を書く)〈七一オ五/二ノ三二オ一〉  ル{ レ}ロ( ル{ レ}ロ)
〈七七オ二/二ノ四〇ウ一〉 ウツフ(ウツス)

○中卷

〈二ウ四/二ノ五四オ四〉 セド(サト)
〈三ウ一/二ノ五五オ五〉 フキド(ワキド)
〈九ウ四/二ノ六五ウ一〉 ウツル(ウツロ)
〈一一ウ二/二ノ六八オ三〉 ハシダニ(ハシダテ)
〈一二オ四/二ノ六九オ二〉 キリギ(キクギ)
〈一二ウ五/二ノ六九ウ五〉 カウナシ(カラナシ)
〈二六オ七/三ノ一六オ五〉 ヌドノウラ(メドノウラ)
×(旁は亩/扁は木)〈三四オ三/三ノ三〇オ三〉 ソヽル(單ワヽル、有・無ウヽル〈植ウの義ならん、此の字康煕字典にも見えず)〉
〈四一ウ三/三ノ四三オ四〉 タツメ(タヅヌ)
〈四五オ四/三ノ四六ウ五〉 トカシ(ナガシ長)
〈五二オ二/三ノ六〇オ一〉 ツザク(ツンザク)
〈五六オ七/三ノ六六オ五〉 サベ(ナベ)
×(旁は秋/扁は車)〈六三オ三/四ノ二ウ三〉 ミツヽヤ(ミソノヤ)
×(旁は弗/扁は舟)〈六四ウ四/四ノ六ウ五〉 ツヽブネ(ヲヽフネ)

○下卷

×(旁は也/扁は火)〈三ウ七/四ノ四一ウ五〉 キエダ(キエヌ)
×(旁は出/扁は火)〈四ウ六/四ノ四三オ三〉 音 チユウ(チユツ)
〈六オ七/四ノ四五ウ二〉 コガシ(元和版にコガシ・コシと二行に成り居るを誤れるもの、慶長版はコガシコシとあり、これ一つにても眞草本が元和版より出た事認めらる)
×(广の中に卑)〈一〇オ七/四ノ五二オ一〉 イカシ(イヤシ)
×(厂の下に口口十を重ぬ、厚に同じ)〈一二オ六/四ノ五五オ三〉 音コ(コウ)
〈一三オ一/四ノ五六オ五〉 タチ(タケ)
×(旁は甚/扁は石)〈一三ウ二/四ノ五七オ二〉 音ケン(チン)
〈一七ウ三/四ノ六四オ五〉 元ハス馬、眞草ハスムマ(ハス〈レ〉馬)
〈一九オ六/四ノ六七オ四〉 スヽメ(スヽム)
〈一九ウ一/四ノ六七ウ一〉 モク(モノ)
〈三二オ三/四ノ七二オ一〉 ミダガハシ(ミダリガハシ)
〈二四ウ七/四ノ七六ウ一〉 モロヨシ(モコシ)
〈三三ウ七/五ノ一三ウ四〉 ヤマグチネズミ(アマグチネズミ)
×(旁は召/扁は虫)〈三五オ五/五ノ一五ウ三〉 ツクヽボシ(ツク〳〵ボウシ)
〈四六ウ二/五ノ三四ウ五〉 キザス(キザム)
〈四九ウ六/五ノ四一オ三〉 ツナソ(ツナグ)
×(旁は鼻/扁は衣)〈五六オ三/五ノ五二オ一〉 ワタバカマ(ハダバカマ)
〈六〇ウ二/五ノ五九ウ三〉 イカデ(イカデカ)
〈六四オ六/五ノ六五ウ六〉 ナカシ(元和版ナガシ、慶長版ナカレ)
〈六四オ五/五ノ六五ウ三〉 カヽル(カルヽ)
×(旁は禹/扁は孑)〈六八ウ一/五ノ七一ウ一〉 元・甲・乙ヒナリ、丙ヒチリ(ヒトリ)
〈六九ウ三/五ノ七三オ一〉 バツ(慶長版に無し)

これらに據り、眞草本が元和版に基くものなる事が判る。

尤も右の如き事實を指摘したゞけでは、輕卒な論者は「元和版から眞草本が出たのでは無く、眞草本から元和版が出たのであり、元和版は實は元和版では無いのだらう、元和版が事實元和版であるならば、眞草本の最初のものは更に其れより古く元和年中に出版せられて居たのであらう」と云ふ風に考へるか知らぬが、〈實は其れも不可能だが〉しかし此の疑は成立せない。第一に一部首所屬文字について云へば、元和版では順序も數も種類も全く慶長版と同じであるが、眞草本では大いに異り居り、數と種類とに数十字の相異の存するものがある。斯かる事は、眞草本が元和版を土臺として増補せられたものだと見れば解釋が容易だが、其の反對に眞草本の増補部分をわざ〳〵除いて慶長版と同じ本文の元和版を作つたのであるとはとても考へられない事である。次ぎに又、訓註を比較するに、元和版は慶長版と同じであるが、眞草本では増加して居るものが隨分にある。しかして此の事實も亦、元和版を土臺として訓註を添加した眞草本が出來たと見る材料とは成るが、眞草本の訓註の一部を除いて、慶長版と同じ元和版が出來たとは決して考へられないのである。なほ眞草本の版心が「和玉五卷」と云ふ風にあるのは、「和玉篇卷下」と云ふ風である慶長版よりも、篇字を省いて「和玉下」と云ふ風に成つて居る元和版に基いたと見る事も出來るであらう。

要するに、横本たる元和版から模本たる眞草本が生れたのである事は動かせないと信じる。一體此の元和版と云ふのは、慶長版とは異り刊記が無いので、元和版であると云ふ確證は無く、たゞ版式より見て慶長版の模倣縮刷古版たる事は動かせないから、元和頃に出版せられたのであらうと推定せられるに過ぎないのであるが、今や寛永四年版の眞草本との比較により、少くとも寛永四年の眞草本よりは古い出版である事が判明し、これが元和頃の版であらうといふ推定に一つの證據を得たわけである。

  • (未完)