歌人藤原長能の歿年に就いて

  • 岡田希雄
  • 歴史と國文學 27(3): 41-44 (1942)

蜻蛉日記の記者との肉親關係や、(異父兄であるらしい事が吉川氏により推定せられた)公任の一言で悶死したと云ふ不名譽な逸話やらで、比較的よ−名の知られてゐる歌人藤原長能ナガヨシの歿した年についての考説が、すでに發表せられて居るのか何うかをわたしは知らないし、また確めようともせないが、吉川理吉氏の「藤原長能とかげろふの日記の記者ら」〈國語國文本年六月號〉によると、何も説は出て居ない樣である。當の吉川氏は、長能の生年を以て、天慶元年よりは前で、承平六年の出生と推定せられる蜻蛉日記記者よりは、少々の年長であらうと推定し、長能の晩年の任官たる寛弘六年の伊賀守就任も、七十餘歳である筈だとまで云つて居られるのだが、何うした事か、歿年の推定は全く試みては居られない。そこで私の臆案をこゝに述べようとするのであるが、實を云へば、吉川氏の文を見て思ひついたものである。其の推測の鍵は、寛弘六年の任伊賀守と云ふことであり、私は此の寛弘六年の二・三の兩月の中か、四月のはじめ頃までに、長能は死んだのでは無いかと想像する。


長能が花山院崩御の寛弘五年二月に、崩御を悼み奉る歌を詠み、四月十八日には老年ながらも左大臣道長の賀茂參詣道長は内覽だから、關白の御賀茂詣でに相當する)の陪從を勤仕して居るから、翌六年正月廿八日に伊賀守に任ぜられたと云ふ中古歌仙傳の記事も、日記類には見えないがうべなひ得る。正月の普通の除目に於ける任官であつたのだらう。

正月末に長能の任ぜられた伊賀は、何うした譯であつたか、二ヶ月餘りの後の四月五日に成りて、源爲憲が任ぜられて居るのである。そして此の事は道長記や行成の權記に明記がある。

此の伊賀守は、二年餘り後の寛弘八年十月五日に、またもや交替があつて、藤原信通が任ぜられて居る。此の信通の事は權記に見える。要するに伊賀は

  • 寛弘六年正月廿八日、任藤原長能
  • 同 六年四月五日、任源爲憲
  • 同 八年十月五日、任藤原信通

と云ふ具合にて、交替が頻々である。そして爲憲の後の信通は、爲憲が此の時、七十歳以上、八十歳近くの高齡であり、また勅撰作者部類が、何う云ふ根據があつての事かは知らないが、寛弘八年八月歿と云つて居ることから考へると、多分は爲憲が死んだがために、死闕に對する信通の任官があつたものだらうと想像せられる(權記には死闕と云ふ樣なことは記して居らぬ)

さて溯りて爲憲の任ぜられた時の事情を考へるに、道長の日記には「伊賀國闕、被任爲憲」とあり(權記の記事は生憎にも抄記が手許に無い)、其の正月に長能が任せられて間も無い事であるから、臨時の闕である事は想像に難くは無い。ところで其の臨時の闕が何うして生じたかと云ふと、普通は死闕を考へてよいのだが、長能が此の時七十歳以上の高齡であつたことを思ひ合せると、此の時長能が死んだからであると想像するのが最も妥當ではあるまいか。しかして四月五日に後任の任命がある程だから、長能の死んだのは、其れより程近い頃であつた筈である(當時、地方長官が死んだやうな場合に、大體何ヶ月、又は何日目ぐらゐに後任が決定したのであるか、と云ふやうな事は、私は知らない)


ところで、こゝで想起せられるのは、長能が花山院で三月盡の歌を詠み、小の月の三月二十九日に春の盡きることを「心憂き年にもあるかな二十日あまり九日と云ふに春の暮れぬる」と詠んで、當時の歌壇の權威公任に「春は卅日やはある」と非難せられ、其れを苦に病んで不食と成り、結局其のために死んだので公任も後悔したと云ふ話〈袋草子卷二〉であるが、これが事實であるとすると、三淵盡と云ふ樣な歌であるから、大體此の歌を詠むのにふさはしい頃に詠んだと見たいところである(題詠と見れば必ずしも嚴重なことも云へないが)。しかして然う見ると云ふと、四月五日に爲憲が伊賀守に任ぜられて居る事と、極めて接近して居ていかにも、似つかはしい事と成る。即ち、三月盡の歌を三月の末にでも詠んだ、公任が其れを非難した、老齡の長能が、苦に病んで他にも病氣があつたのによらうが、ころりと歿した、そこで爲憲が伊賀守の後任と成つたと云ふ事になり、まことに事の順序がよろしい。しかして此の場合に、寛弘六年の三月が、小の月であれば、いよ〳〵誂へ向きと成るのであるが、此の點は殘念ながら一致せない。寛弘五年までの八年間は、三月は引き續いて小の月であるのに、生憎にも寛弘六年よりは大の月と成り、これが六ヶ年續くのである。

斯う云ふ譯で三月二十九日に春が盡きたと云ふ事は、寛弘六年の實際とは一致せないが、事實の如何は問はず、長能は寛弘六年に詠んだのだ、此の歌では二十九日で盡きると云ふのが眼目であり、長能としては、この眼目を誇示したのであらう、ところが意外にも歌壇の大御所公任により、其の眼目が無雜作に非難せられたのだから、老齡の長能には甚しくこたへたらしい、此のために死んだのか何うかは判らぬが、とにかく長能が晩春頃か、若しくは四月の月はじめにでも死んだものと見ては何うかと云ふにやはり、それは駄目である。

一體此の歌、長能の家集では「花山院に、三月小なりし時、春の暮惜しむ心、人々よみしに」とあつて、花山院の法皇御所にて、恐らくは法皇御存生中に、三月がまさしく小の月であつた時に詠んだと見るのが正しいから、いくら遲くとも寛弘五年三月か、それ以前で無ければならない事と成る。そして假りに法皇崩御後の寛弘五年三月の末頃に、花山院にて、法皇をしのびまつるために歌人共が集りて歌詠んだ事があつて、其の時に長能が此の歌を詠んだのだとすると、長能は其の年の四月十八日の御賀茂詣の陪從もつとめて居り、翌六年正月には伊賀守に任ぜられても居るのだから、公任の一言を苦に病んで死んだと云ふのは、事實では無いことゝ成る。長能集の編者は長能自身であるか、他の人であるかは知らないが、家集の詞書を信ずる以上は、公任の一言で長能が死んだと云ふのは、そらごとであつたのだ。だから、此の歌により長能の死んだ時期を考へるは無意昧となる。


とにかく、長能は正月末に伊賀守に任ぜられると、恐らくはまる二月も經過せない中に、三月中にでも死んだのではあるまいか。そこで源爲憲が四月六日に死闕に拜任したのであらう。

長能の歿年に關する私の臆案は以上の如きものである。

  • (七月十三日、病床上にて記す)