以上で大體眞草本と元和版との關係を略述したつもりだが、斯う云ふ寛永版眞草倭玉篇としては、自分の見うるものは次ぎの如く三種ある。三種の中一つは後摺で刊行所の異る本であり、版種としては二種である。しかし其の二種は、冠彫關係にあるため、不注意では混同してしまふ恐れがあるのである。

○甲本、寛永四年九月版

第五卷のみの零本一册で、栗皮表紙は本來のものと信ぜられるが、題簽は無い 縱四寸五分に横六寸九一分五厘、本來の大きさであらう。摺は良好である。刊記は

寛永〈丁/卯〉
  九月  日          源古開板

とある。干支の卯字の所に大きな虫損がありても少しの事で卯字が不明と成るところであるが、幸ひにも卯字である事は、字は缺け乍らもはつきりして居るから、寛永十四丁丑の年では無いかなどと云ふ疑ひを起す必要が無いのは喜ばしい。此の本、今年の六月頃の東京大屋書房の目録に出て居たもので、早速注文し賣切れたとの報で落膽したが、始絡私が古書について非常な御世話を蒙つて居る中島翁の御手に入り、翁より他の乙丙二本と共に恩借を許されたのは、感謝に堪へない事である。さて刊行者「源古」と云ふのは、不完全極まる慶長以來書賈集覽なんどには見えないが、元和五年十二月版横本節用集や、元和九年正月中旬刊行の無言抄の刊者源太郎と關係があるのでは無いかと想はれる。源太郎が剃髮でもして源古と云ふ樣な名を名乘つたのでは無からうか。

○乙本、寛永二十年四月本

中島翁御所藏本で、第五卷のみの零册である。澁表紙は古いものだが本來のものでは無い、四寸丁分五厘に六寸七分、綴糸の所に裁縮のある事は、舊い綴糸の穴が露出して居る事で判る、天地の幅も他に比べると少く、地の郭線の切り取られて居るのもあるから、こゝにも裁縮がある。摺りは惡い方である。それは中島翁も私信の中で明記せられたやうに、本書が寛永四年版の後摺本であるからである。刊記は

寛永〈癸/未〉初夏吉旦
   三條通菱屋町
   林 甚右衛門

とあるが、求版刊行者である。此の刊記の頁と第三卷の本文第一頁とは「玉篇の研究」に寫眞が出て居る。(條字は何故か三水と成つて居る、菱屋町は、東は高倉、西は東洞院の間の三條通を云ふ)

○丙本寛永二十一年七月版

中島翁本、五卷を一・二、三・四、五と三册に合綴して、新しい樺色表紙が添へてあるが、これは翁が自ら改裝せられたもので、本來五册本であつた事は明白である、四寸五分に六寸九分、摺り佳良。眞草本の册數に關して岡井博士は推測して居られるが、右の甲乙丙の三本や、私が書肆で二度か三度見た本が、何れも五册本であつた事から、眞草本は五册が定型である事が明言できる。さて刊記は蓮花上の碑に

      寛永〈甲/申〉孟秋下旬
      杉田勘兵衞尉開板

とある。本書は寛永四年の初版の摺りの惡いものか後摺の二十年本を冠彫の底本としたものらしい。

現在のところ寛永版として私の知つて居るものは右の二種三版のみである。

さて右の二種の本文を比較して見よう。ついでに元和版とも比較する。

元和本 甲乙本 丙本
×(龍の下に鳥)〈二六オ三/一オ三〉 音レウ 同上 シウ(誤)
×(與の下に鳥)〈二六オ五/一オ五〉 カラス 同上 カラ(誤)
×(旁は式/扁は鳥)〈二九オ二/五オ四〉 ソシトリ 同上 ヲシトリ(慶長版ソシトリ)
〈三〇ウ六/八ウ四〉 舟ナドノハタナリ 同上 舟ナドノルタナリ(誤)
ヒレ 同上 ヒト(誤)
×(旁は焦/扁は虫)〈三八ウ二/二〇オ四〉 タコ 同上 タニ(誤)
〈三八ウ五/二〇ウ二〉 クチバシ 同上 タチバミ(誤)
〈四一オ四/二五ウ一〉 ユタカ 同上 コタカ(誤)
〈四一オ二/二五オ四〉 音クウ(誤) 同上 クワ
〈ナシ/二六ウ一〉 ソナフ ツナフ(誤)
×(旁は致/扁は角)〈ナシ/三二ウ二〉 クツノノコ(誤) クツノソコ
〈四六オ二/三四オ三〉 ブチウツ 同上 ブチウソ(誤)
×(旁は長/扁は革)〈ナシ/三六ウ三〉 ユミヲハナス エミヲハナス(誤)
〈四八オ五/三九オ一〉 ホソヌノ 同上 ホノヌノ(誤)
〈四八オ五/三九オ一〉 ハナツ ハナツ ハニツ(誤)
×(旁は并/扁は糸)〈四九オ三/四〇オ三〉 アワス 同上 アフス(誤)
〈五〇オ四/四一ウ三〉 ヒポサス 同上 ヒボサメ(誤)
×(旁は出/扁は糸)〈五〇オ六/四一ウ五〉 ツナグ 同上 ソナグ(誤)
×(旁は失/扁は糸)〈五〇オ七/四二オ一〉 音チツ 同上 ヂツ(誤)
〈五〇ウ四/四二オ五〉 サイワイ 同上 サイソイ(誤)
×(旁は沓/扁は巾)〈ナシ/四九オ三〉 タレヌノ タレヌ(誤)
〈五五オ二/五〇ウ一〉 ニシキ 同上 コシキ(誤)
〈六一ウ五/六一ウ一〉 ヌク メク(誤) ヌク
〈六二ウ一/六二ウ一〉 トラワシビト(誤) 同上 トラワレヒト
〈七八オ七/七一オ五〉 ナガラへル 同上 カガラヘル(誤)
×(旁は禹/扁は子)〈六八ウ一/七一ウ一〉 ヒナリ(誤) ヒトリ ヒチリ(誤)


これで見れば、元和版と甲本(寛永四年版)乙本(甲本の二十年摺本)とが大差なく、丙本(二十一年版)が、元和本や甲乙本と大いに變り居り、本文の破壞率の多いのが判るであらう。慶長版では十五年の初刻本と其の後摺本なる有刊記本とが良く、元和版は其れらに劣り、眞草本二種の中でも、後の刻本の方が惡いのである。古版の尊ぶ可き所以を痛感する。

それにしても丙本は甲乙兩本の何れを版下としたものだらうかと云ふに、縱字〈四八オ五/三九オ一〉の例を見るに、ハナツと云ふ訓が、甲本では明確にハナツとあるのに、丙本ではナがニとでも讀む外無い字となつて居る。しかして何故さうなつたかと云ふに、乙本ではナ字の第二畫が交叉點以下を失ひ、しかも第二畫の頭には筆勢により生じた餘筆が存し、ニの樣な形と成つて居る。丙本はつまり是れを判らす乍らも忠實に摸刻したのであつたのだ。それで是れ一つでも、丙本は甲本の摺のの惡いもの、又は乙本の冠彫である事を認めて可いであらう。

寛永四年版(甲本)が出てから十六年目に、其版木が、求版により二度(或ひは、三度目又は四度目であるかも知れない)の勤めをして居るのだが、二十年本は、案外摺も甚しくは惡くは無い。これで見ると、眞草本は、節用集の二體本が時好に投じてよく行はれたのとは異り、餘り行はれなかつたのでは無からうか。しかし二十年本の直ぐ次ぎに二十一年版の異店改刻があつたのを見ると此の頃は以前と異りて需要も増加して居たらしい。

寛永版眞草倭玉篇の紹介は以上の如き書誌學上の記述を以つて了へる。國語學上の考察は寛永本などに於いては重視すべきで無いと思ふから止める。さて眞草本には

  • ○新刊眞草倭玉篇 三本 増補本系にて無刊年、寛永慶安間ならんと推定せらる。眞體を上に、草體を下に書き、一頁九行九段。
  • ○慶安二年正月版「眞草倭玉篇」、横本五册、各卷の目録や本文の丁數は、寛永版眞草本と全同である由「慶安二〈己/丑〉歳孟春上旬、杉田勘兵ヱ開板」であるのを見ると、同じ店から出た寛永二十一年版の冠彫か後摺りかの何れかであらう。異版であるとしても殆んど同じ體裁のものであらう。
  • ○慶安三年版 模本五卷、今は一册とす。「慶安三庚寅歳 三條通菱屋町林甚右ヱ門」〈三行〉とある。「玉篇の研究」に毎卷の丁數は前の慶安二年本と同じだが本文が十行〈○希云、眞草を一行とすれば五行なるべし〉五段である點が違ふとあるが、本文が異る場合に各卷の枚數が一致するとは思はれず、まして本文が同じであり、段數が異る場合に、兩本で枚數の一致する筈は無い。岡井博士は本文の事に言及して居られないが、實は五段で無くて四段であり、林甚右衞門が、寛永二十年に賣出した本と全く同じ體裁の摸刻版であるのでは無からうか。
  • ○寛文七年正月版「眞草倭玉篇」、五卷五册横本、分卷は慶安二年本と同じで非増補本系、八行〈○希云、實は四行であらう〉五段だから紙數は慶安二年本と變化が無い筈だが果して何うか。刊記は「寛文七丁未年孟春吉日、吉田庄左衞門板行」とある。
  • ○刊年不詳版 横五卷合一册、此の本は珍しく無い本である。非増補系、草體を主とし眞書を左上に小書し、注は平假名である。草體を重視して居るのは二體節用集の影響であらう。一頁九行四段、龜田次郎氏は此の本を慶安頃の本と推定して居られる〈昭和七年一月倭玉篇展覽會に於ける講演〉但し岡井博士は寛延以後刊行と見て居られるやうだ。

などがあり、玉篇の研究や龜田氏の展觀目録には見えるが、此の中一本以外は手許に無く、時代もも早や古いと云はれず、時代が下るにつれ國語學上の價値も減ずるから今は全く無視する事とする。(なほ是らより後の本もあるが其れらはなほさらの事である)

摺筆するに當り、御藏書の恩借を許された中島翁に厚く御禮申上げる。

  • (昭和十四年十二月二十二日)