本書は何時頃よりか知らぬが、慈鎭和尚の作であると傳へられて來たが、烱眼なる契沖は、丁度、同じ樣に慈鎭作と傳へられて來た色葉和難抄をば、然に非ずと否定した如くに、本書も亦慈鎭の作で無い事を明言した。其れは本書の著者は渡宋僧である事が判るからであり、的確な論である。著者の渡宋の事は、木版本では「もろこしにまかりて侍しにも云々」〈上卷一六オ〉とあるものだけしか指摘できないのだが、他にも

もろこしに侍しと人のかたり侍しは云々

もろこしに侍しときゝ侍しは云々

と云ふ類の話句が、下卷〈一五オウ/一七オ〉、に三箇所見え、自分はこれらをば文意上必ず「もろこしに侍りしとき聞き侍りしは(かたり侍りしは)」で無ければならぬものと考へ、これらをも作者の渡宋を示す語句としてかつて擧げたのであるが、前田家本を見るとまさしく、「もろこしに侍し時云々」と云ふ風に、三箇所ともに「時」字を明記して居るのを知つたのである。なほ上卷〈三二ウ〉

されば、もろこしには、いかなるものゝひめ君も、くひものなど、しどけなげにくひちらしなどはゆめ〳〵せず、よにうたてき事になん申侍し也、この國はいかにならはしたりける事や覽、はやくせになりにたれば、あらためがたかるべし

と、慨歎して居るのも、渡宋を證明する材料に成るだらう。〈これも以前に擧示したのである〉

慈鎭説を否定した契沖は、松尾の慶政上人の作であらうとした。いかにも本書の作者が、下卷末で

西山のみねの方丈の草のいほりにてしるしおはりぬる

と自記し居るから、慶政に擬する事も可能に成る。だが積極的な證據は無いのであり、逆に池田氏が指摘せられた通り、反證さへ出て來さうである。即ち慶政は嘉定十年丁丑〈わが建保五年〉には支那泉州にて、南番文字と云ふを寫し居り、其の後間も無く歸朝したかして、建保七年一月には、續本朝往生傳や拾遺往生傳を、西峯の方丈にて寫して居るのである。ところが閑居友の作者は、承久四年三月頃を基準としたらしいが、「此あやしの山の中」に身を隱して「八とせの秋おをくりきぬ」と云つて居る〈上九ウ〉承久四年より八年前と云へば、建保二年と成る。だから閑居友の作者を慶政とすると、建保二年頃から「あやしの山の中」に隱棲して居ると云ふのと合はない。故に、これらの記事に誤が無いとすれば、慶政を作者とする事は出來ないのである。